「関さんの森」の道路問題市、強制収用手続きへ |
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幸谷にある「関さんの森」(※)の道路問題で、市は先月25日、土地収用法に基づく事務手続き(強制収用)を進めると発表した。今月7日からあす11日までの予定で立ち入り調査(測量など)を行い、12月下旬に千葉県収用委員会へ裁決申請を行う予定という。地権者の関さん姉妹と支援者らは市に手続きを中止し、話し合いを継続することを求めている。 【戸田 照朗】 |
強制収用の対象となるのは、松戸都市計画道路事業3・3・7号横須賀紙敷線の幸谷地区193メートル。「こどもの遊び場」から関さん宅の庭、「むつみ梅林」を幅員18メートルの道路が通る計画だ。 市は「(平成4年に認可された)事業認可期間が平成22年3月31日までと迫っている。多くの市民が待ち望んでいる公共事業であり、これまでご協力いただいた多くの地権者のためにも、これ以上、時間を費やすべきではないと判断した」などとしている。 この道路計画が計画決定したのは今から44年前の昭和39年9月14日(当時は2・1・4号=幸谷高塚線)。自然保護に熱心だった関さんの父・武夫さんらは昭和51年12月に議会に地下にトンネルを作って通す案を陳情し、採択された。が、同62年の市の調査でトンネル案には否定的な見解が示されている。現在は地上案しか残されていないが、なぜトンネル案が完全に廃案になったのかなどの詳しい経緯は、武夫さんのほか当時の関係者の多くが亡くなっており、よく分からない。 市は昨年2月に川井敏久市長の主導で、「暫定道路案」2案を関さん側に提案した。1案はコンクリートの陸橋を通す案で、もう1案は関さん宅の庭に沿って幅員11メートルの道路を通す案だった。関さん側は、「暫定案」ということは、あくまで将来計画通りの真っ直ぐな道路が通ることが前提になっている上、環境への影響も大きいとして、この案に同意しなかった。 昨年11月には関さん側が「代替道路案」を市に提案した。これは、「こどもの遊び場」から「梅林」の中を敷地の端を通るように幅員8メートルの道路が通るという案。しかし、市は「クランクができ危険」「渋滞が生じる」などとして、これを受け入れなかった。 |
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関さん「お金はいらない 自然共生道路へ 話し合い継続を」地権者の関美智子さん(72)、啓子さん(60)姉妹は独身で、後継者がいない。都会に残された貴重な里山を後世に残すために苦慮してきた。平成7年に約2ヘクタールの里山のうち約半分を(財)埼玉県生態系保護協会に寄付したのも、森を後世に残すための方策。関さん姉妹の意向に共鳴した市民により「関さんの森を育む会」も設立され、里山を維持するための作業や環境学習などを行ってきた。 先月20日には「関さんの森エコミュージアム」が発足。21日に新松戸の流通経済大学講堂で記念シンポジウムが行われ、520人の来場者で会場はほぼ満席だった。関家には江戸時代からの古い門や3つの蔵があり、蔵には江戸中期以降の人々の暮らしや歴史、文化を示す未発見の古文書や道具が多く保管されている。また、敷地内には熊野権現もある。これらの自然遺産・歴史遺産を学習や体験の場として市民に提供するために、同ミュージアムは発足した。 強制収用されるのは、この門や蔵がある一帯で、ここに幅員18メートルの道路が通ることになる。 このシンポジウムから4日後の25日に市は記者会見で強制収用の手続きに入ることを発表した。 関さん姉妹は、各新聞社からの問い合わせで強制収用手続き開始について初めて知ったという。 28日朝には、こどもの遊び場(関さんが市教委に提供している土地)と建設中の道路の隣接地に「周知看板」を市職員が立てようとしたが、関啓子さんや支援者らが抗議。西山明行弁護士が、「強制収用手続きに入るという知らせが、なぜ当事者である関さんにないのか。地権者にも憲法で定められた護られるべき人権がある」などと話し、市職員は午後に書類を持って出直すことになった。 午後に訪れた市職員は、「補償等のお知らせ」というパンフレットを手渡そうとしたが、関さんはこれを拒否し受け取らなかった。 関美智子さんは「この森を未来の子どもたちのために残したい。ただ、それだけなんです。道路が欲しいという人たちの声があることも重々承知しています。話し合いで環境への影響を最小限にした道路を共に作ろうと言ってるんです。お金(補償)なんかいりません。(自然と共生した)道路の建設用地は市にプレゼントしてもいいと思ってるんです。なぜ話し合いを一方的に打ち切って、強制収用なんですか。本当に哀しい」などと訴えた。 市職員は「事業認可期限が迫っており、時間がない。市長が提案した昨年の暫定案が市としては譲歩できるギリギリの線だった。事務手続きを続けながらでも、話し合いはできる」などと話した。 これに対して関さんは「のど元にナイフを突きつけられた状態で、どうして話し合いができるのか。まずは手続きを一時中止してください」と話した。 この話し合いの最中に「周知看板」が立てられ、関さん側は撤去を要請したが、市は受け入れなかった。 31日には市職員が「立入通知書」を持参したが、関さんはこれも受け取りを拒否した。 関さんと支援者は今月1日、川井市長あてに「3・3・7号線土地収用法の手続きを一時中止し、市長との話し合いを求める要請書」を提出したが、市長は話し合いを拒否した。 市は職員ほか数十人で7日からあす11日までの予定で関さん宅の庭や梅林などを立ち入り調査している。関さん側は公務執行妨害になるため、実力で阻止はしないが、抗議文を読み上げるなどして強制収用反対の意思を表明した。 市は12月下旬に千葉県収用委員会へ裁決申請を行う予定だ。 ※関さん側は、森と関さん宅の庭、梅林などを一連の緑として「関さんの森」と呼んでいるが、市は「関さんの森」とは関さんが(財)埼玉県生態系保護協会に寄付した里山のことで、関さん宅の庭や梅林は、これとは違うため「道路建設は『関さんの森』を分断するものではない」としている。 |
シベリア抑留の記憶塩野谷信彦さんに忘れ得ぬ想いを聞く |
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8月6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、そして15日の終戦と、8月は日本人にとって鎮魂の月である。東京で生まれ育った人には3月10日の東京大空襲も忘れ得ぬ記憶として刻まれていることだろう。しかし、1945年の8月15日が来ても、「戦争が終わらない」人たちがいた。それはむしろ終わりではなく、始まりだった。――「シベリア抑留」。終戦直前に侵攻したソ連軍によって連行された捕虜は、マイナス40度にもなる極寒のシベリアでの強制労働で6万人もの尊い命が失われた(死者数には諸説あり、34万人という説もある)。もう、戦争は終わっていたのに、なぜ…。市内在住で、この「シベリア抑留」を経験した塩野谷信彦さん(90)に貴重な話をうかがった。 【戸田 照朗】 |
1945年8月9日未明、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して、満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島北部に侵攻。16日に樺太、18日に千島列島を占領した。ソ連軍は日本軍将兵や民間人の男性65万人(一説には200万人とも)をシベリアに連行し、抑留。強制労働につかせた。帰国事業は47年から始まり、56年まで続いた。帰国した抑留者は47万3000人。 塩野谷さんは『「没法子(メイファーズ)」シベリア抑留記』(砂書房「自分流文庫」)という本を93年にまとめた。そこには、極寒の地での忘れ得ぬ記憶が記されている。読むと、「よくここまで詳細に覚えているものだ」と驚かされる。それだけに、辛く重い体験だったのだろう。「没法子」とは、中国人がよく使う言葉で、「仕方がない、あきらめる」といった意味だという。それは、塩野谷さんにとって、「どうにもならない抑留の身に対する諦めと慰めであり、流れに逆らってはならない処世の心構えでもあった」という。 塩野谷さんは45年3月下旬に応召。北安(満州の主要都市のひとつ)の機関銃中隊に配属された。それまでは、炭坑の労働者が使うライトを製造する会社に勤務しており、満州で営業をしていた。配属された部隊は、軍隊といっても、みなサラリーマンなどの民間人で、訓練など受けていない急ごしらえの部隊だった。 それから4か月半で終戦を迎え、侵攻したソ連軍の捕虜となる。 塩野谷さんが抑留生活を送ったのは、3年10か月だが最初の1年余りは特に厳しく、多くの死者が出たという。北安の飛行場の格納庫が最初の収容所がわりであり、満州からシベリア各地の収容所を転々とした。収容所としての形も徐々に整っていったという。満州からシベリアに入るまでには、10日余りの行軍だった。シベリアに入れば地獄の強制労働が待っている。夜陰にまぎれ、多くの兵が逃亡。しかし、翌朝捕らえられた者は、目の前で銃殺された。うまく逃げられた者も無事に帰国できたかどうかは分からない。体力に自信のなかった塩野谷さんは、隊から離れずに必死についていった。生水を飲んで下痢をし、空腹と寒さが更に体力を奪った。 シベリア行きの噂が出たころ、塩野谷さんは北安で時計と万年筆を防寒外套と交換した。さらに綿入りズボンも手に入れた。この防寒対策が、後に塩野谷さんの命を救うことになった。 アムール河を船倉に押し込められて進み、やがて貨物列車に乗せられてシベリア鉄道を進む。それでも列車が東に向かえばダモイ(帰国)だ、とみな希望を持っていた。しかし、無情にも列車が着いたのはシベリアの収容所だったのである。 塩野谷さんは転属した中隊で辛酸をなめる。それまでいた北安隊は民間人の部隊だったが、この中隊は戦争が終わっているのに日本軍の上下関係が生きていた。塩野谷さんたち北安兵はパンを3分の1しかもらえず、使役に耐えなければならなかった。このストレスの中、多くの仲間が死んでいったという。 運良く後にこの中隊を離れられてからは、収容所での過酷な労働が続いた。レンガ工場や鉄道工事、森林の伐採作業は本当に重労働だったという。桶に2杯のお湯だけの「入浴」もめったにない。いつも空腹をかかえ、伐採作業の時には松のウジ虫を食べた。噛みつぶすと甘いミルクの味が口じゅうに広がり、おいしかったという。 収容所では身体検査があり、身体の状態によりオカ(虚弱者)、二級など労働等級が定められる。オカになると労働が軽減され静養することになる。生かさず殺さずということか。塩野谷さんはオカと二級の間を何度も行き来し、約4年もの間、使役に耐えた。帰国直前には、引き揚げ船が出るナホトカにほど近い病院に入院していたという。 帰国者は、ソ連で共産党の教育を受けたとして、就職差別を受けることもあったが、塩野谷さんは元の職場に温かく迎えられた。帰国した日、東京駅で迎えてくれた同僚2人が塩野谷さんの両腕をガッチリつかみガードした。代々木(共産党本部)に行くことを防ぐためだが、もとより塩野谷さんにはそんな気は微塵もなかった。 塩野谷さんは辛い記憶からなかなかシベリアに足が向かなかったが、平成17年に、「これが最後のチャンス」という思いから、7全国強制抑留者協会主催の慰霊訪問団に参加した。本来であれば、奥地に向かいたかったが、高齢で体力に限界もあることから、帰国前に入院生活を送った沿海地方を訪ねる班に参加した。様変わりしたロシアの様子に驚き、日本人墓地では墓標もなく荒れた様子に心を痛めた。是非、いまだ眠る戦友のために日本人墓地の碑を建ててほしいと強く願ったという。 また、最近の日本の風潮から「主権在民を念頭にして改憲に反対、平和の尊さを訴えねばと痛感している」という。 |
24時間テレビ31 愛は地球を救う義手の少女がヴァイオリン演奏
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伴奏でピアノを演奏する竹内さんによると、先天性四肢障害で生まれつき右手の手首から先がない美来さんが初めてヴァイオリンと出会ったのは1歳の時。祖母が誕生日に美来さんにヴァイオリンを贈ったことがきっかけとなり、4歳の頃から始めたという。 今回の浅田選手とのコラボは、24時間テレビのチャリティーパーソナリティーをつとめる仲間由紀恵さんが橋渡し役となり実現。氷上で美来さんらが演奏、それにあわせて浅田選手がスケーティングを披露する。 竹内さんは「とくに子どもに見てもらいたい。同じくらいの年の子が義手を付けてがんばっている姿を」、石川さんは「美来ちゃんはすごい負けず嫌いでがんばり屋さん。初めは音を出すのが大変だったけど、今は人前で引くことが大好き。(浅田選手とのコラボを)すごく楽しみにしています」と話していた。 この模様は30日夜に放送される。 【竹中 景太】 |