東葛の寺社めぐり(4)
市川の神社・仏閣を訪ねる旅
松戸市に隣接する市川市は、57・46平方キロの面積に47万人が住んでいる。松戸市は61・33平方キロに48万人が住むから、ほぼ同じような規模の都市と言える。市川市のほうが若干、人口が密集しているだろうか。坂や台地、谷が多く起伏に富んだ松戸市に比べると、市川市はほとんど起伏がない。海岸沿いは埋め立て地になっている。新旧の江戸川と東京湾に囲まれた行徳方面は「島」のようである。市川市は正確に言うと「東葛」には入らないのかもしれないが、松戸に隣接する市として本シリーズで取り上げた。訪ねた寺社は約200。これまでに訪ねた松戸、流山、旧野田、鎌ヶ谷とは違い、寺のほうが神社より多いのが特徴的だった。
【戸田 照朗】
文化財の宝庫
中山の法華経寺
JR総武線下総中山駅、京成中山駅が最寄りとなる法華経寺。関東三大寺の一つ。
駅前の通りが参道となる。商店に囲まれた通りに総門(黒門)が現れる。おそらく全国から人が訪れるのだろう、商店街に漂う観光地的雰囲気に、どこか遠くの街に来たようで、心が躍る。
黒門は市川市指定有形文化財。この門にかかる額は掛川(静岡県)の城主・太田資順(すけより)の筆によるもので、同じく市の文化財。文字が浮き彫りで刻まれている。
商店街を過ぎると、壮大な山門(赤門)が待っている。大正時代に再建されたものだ。
この門をくぐると、参道の両脇には法華経寺にゆかりのある寺院が並んでいる。
境内に入ると、まず目を見張ったのが巨大な「祖師堂」だ。日蓮聖人をお祀りするお堂で、江戸時代中期の延宝6年(1678)に建てられた。比翼入母屋造りという、屋根を2つ並べたような造りが特徴的。この屋根は、ほかには岡山県の吉備津神社本殿(国宝)だけだという。
祖師堂をはじめ、祖師堂の裏にある四足門(しそくもん)、法華堂、祖師堂の手前にある五重塔が国の重要文化財である。ここは文化財の宝庫なのだ。
四足門は鎌倉の愛染堂から文永年間(1264〜1275)に法華経寺に移築されたという小さな門。
禅宗様の様式で造られ、海老の背のように曲がった梁で腰が強く装飾的な「海老虹梁」でつなぐ珍しい構造だという。
法華堂は法華経寺の本堂。文永年間(13世紀後半)に創建されたと伝わる日蓮宗仏堂としては最古級のもの。その様式から室町時代後期に再建されたものと考えられている。
五重塔は、本阿弥光室が両親の菩提を弔うため、加賀藩主・前田利光の援助で元和8年(1622)に建立したもの。内部に安置されている木造釈迦如来・多宝如来座像は県指定有形文化。
山門の「正中山」、祖師堂の「祖師堂」、法華堂の「妙法花経寺」の扁額、「通本」の扁額は本阿弥光悦の筆によるもので、市指定文化財。
本阿弥光悦は、安土桃山時代から江戸初期にかけて、本業の刀剣鑑定のほか絵画、彫刻、陶芸、茶道などで才能を発揮した芸術家。豊臣秀吉や前田利家、徳川家康などの大名にかわいがられた。本阿弥家は京都出身だが、日蓮宗の信者で、江戸に来ると池上本門寺や法華経寺を訪れたという。同寺には、本阿弥家分骨墓、本阿弥光悦分骨墓があり、市指定文化財となっている。
五重塔の横には高さ4・8mの大仏が鎮座している。享保4年(1719)9月に江戸神田鍋町の鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造されたものだという。
境内の奥に行くと木立の中に聖教殿が建っている。昭和6年に建てられたインド様式の石造の円形殿堂だ。法華経寺には日蓮真筆の「立正安国論」と「観心本尊抄」の国宝、「絹本着色十六羅漢像」(絵画)や「日蓮自筆遺文」などの国の重要文化財があるが、それらを安心して保管し、将来に伝えるために建てられた。
聖教殿の隣には荒行堂があり、修行僧たちが激しく読経する声が聞こえていた。見ると聖教殿の前に若い女性が立ち、荒行堂の声のするほうに向かって、ずっと手を合わせている。ひょっとすると、修行僧の中に想う人がいるのかもしれない。
法華経寺の周囲には参道以外にも関連寺院がある。奥之院は、富木常忍の館があったところで、常忍は偶然、日蓮に出会い、熱心な信者になった。文応元年(1260)、日蓮が鎌倉で受難に遭い、頼ってきたとき、館の中に堂を建てて法華堂と称して日蓮を迎えた。日蓮入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を法華寺とし開基1世となった。その後、中山の太田乗明が亡くなると乗明が建てた本妙寺に移った。日常は正安元年(1299)に亡くなり、乗明の息子で自分の弟子でもある日高に法華寺をゆずった。日高が法華寺と本妙寺の主となったことで、後に合一し、法華経寺となったという。奥之院の周囲には館を護るためにつくられた土塁も残されている。
寺と猫
この旅の中で、多くの寺で猫に出会った。やはり安心できる空間なのだろうか。お堂の前でひなたぼっこしていても、近づくと逃げてしまう猫が多いが、法華経寺の参道にいる猫たちは、ものすごく人なつこかった。一匹、強者(つわもの)がいた。「ワー、かわいい」と言って参拝客が座ると、すかさず膝の上に乗って甘える。境内の入口、参道の飲食店が並んでいるあたりで、参拝客は何か買ってあげたくなってしまう。しばらく見ていると、来る客来る客、だれかれなしに甘えてごちそうにありついていた。たくましき生きる知恵である。
「きっとテリトリーがあるのね」と話している女性がいた。確かに、猫たちは最初にいた場所からあまり離れない。参拝客の後を追わず、次の客が来るのを待っている。
参道にある一軒の飲食店に入った。ここにも三毛猫がいた。「飼ったつもりはないのに居着いちゃった」とは店の女主人。猫は私の隣に来て、まるくなって寝ている。この猫、外に行きたくなると、前足で店の戸を開けて出ていく。帰ってくる時もだ。「自分で開けるのはいいんだけど、閉めてくれたらもっといいのにね」と、主人は冗談とも本気ともつかないことを言う。
この参道には「里親募集」の張り紙をしている店もあった。猫好きの私にとっては心和むひとときだった。
☆ ★ ☆ ★
ある寺でのこと。今にも壊れそうな古いお堂があった。寺社を訪れた時の常として、私はお堂の周りを一周してみた。お堂に施された彫刻や、小さな祠など、思わぬ発見をすることもあるからだ。
お堂の隅に、茶色く汚れたタオルのようなものが乗っていた。よく見ると、それはほとんど骨と毛皮だけになった猫の遺骸だった。かすかに、まだ腐臭が残っている。ウジの死骸もある。まだ暖かい頃に病気か何かで死んで、ここで腐り果てたのだろう。
それにしても、だれも気がつかなかったのだろうか。最盛期には舞い飛ぶハエと臭いがすごかったと思うのだが。この寺の本堂は立派で真新しい。このお堂も近く建て直す計画で、寄進をつのる看板が立っていた。生と死を扱う寺でのこと。もう少し命に敏感であってほしいと思う。仏様の前では、人間の命も動物の命も、等しく尊いものだと思うのだが。
多くの武将の信仰を集めた
葛飾八幡宮
京成八幡駅、JR本八幡駅からほど近い、市役所の隣にある葛飾八幡宮。寛平年間(889〜898年)に宇多天皇の勅願により、京都石清水八幡宮から勧請したもの。武神として源頼朝、太田道灌、徳川家康などから崇拝された。
境内は広く、大社の趣がある。境内に鐘楼があって、「神社なのに?」と不思議に思った。明治維新までは天台宗の八幡山法漸寺が別当寺として管理していたが、廃仏毀釈で廃寺になり、鐘楼はその頃の遺物だという。寛政5年(1793)にケヤキの枯れ木の根元から元亨元年(1321)鋳造の梵鐘(県指定文化財)が見つかっている。
参道には巨大な随神門(市指定文化財)がある。この門はもともと仁王門だったが、仁王像は行徳の徳願寺(後述)に移され、かわりに左大臣、右大臣の像が置かれ、随神門と呼ばれるようになったという。
この神社の眷属(けんぞく=神に仕える動物)は、烏(からす)のようで、本殿の軒(のき)に彫刻があった。
本殿の隣にある御神木の「千本公孫樹(せんぼんいちょう)」。落雷によって地上6mのところで折れた太い幹を囲んでたくさんの細い幹が根元から立ち上がっているところからつけられた。根元よりも、少し上の目の高さのところのほうが太くなっているのが特徴。
樹を見てこんなに感動することがあるだろうか。その生命力と迫力、神秘性に心打たれて、しばらく見入っていた。
神社を出て、市役所の斜め向かいに「八幡不知森(やわたしらずのもり)」がある。鳥居と小さな祠がある竹藪だ。広辞苑には「八幡の薮知らず」として出ていて、「ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるとかいわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」とある。
入ってはいけない理由については諸説あり、「日本武尊(やまとたけるのみこと)が陣所とした跡だから」「葛飾八幡宮を最初に勧請した神聖な場所だから」「平将門軍の鬼門となった場所だから」などのほか、一番有名なのは、将門平定の折に、平貞盛が「八門遁甲(はちもんとんこう=人目をくらます妖術)」の陣を張ったが、ここにだけ将門軍の死門(この世からあの世への関門)を残したので、入ると祟りがあるというもの。これを信じなかった徳川光圀が薮に入ると、白髪の老人が現れ、怒って「戒めを破ってはならぬ」と告げたという。
この話を知らず、妙なところに祠と竹藪があるものだと思っていた。薮に入ったりしなくてよかった(簡単には入れないようになってはいたが)。
菅野の白幡天神社には幕末から明治中期にかけて活躍した日本画家・柴田是真の連句額や勝海舟の書いた扁額がある。社殿も立派だ。
京成・菅野駅近く、平田の諏訪神社は境内と参道が特別緑地保全地区に指定されている。ビルや住宅に囲まれた狭い場所だが、かつての海辺の黒松林の景観をよく残しているという。
寺社が次々に現れる
行徳の「寺町」
地下鉄東西線の妙典から南行徳まで。行徳街道沿いには多くの寺社が点在している。街も「寺町」の雰囲気を大切にしているのか、各寺社の前には説明板が立ち、由緒や、近くの寺社や名所が矢印つきで案内されており、散策するには便利だ。特に妙典駅から行徳駅までは次々に寺社が現れる。その中で、印象に残った寺社をいくつか紹介する。
妙好寺山門は珍しい茅葺きの山門で宝暦11年(1761)の造営と伝わる。木造切妻茅葺で和様四足門。市指定文化財。
清寿寺にある「耳の守護神様」。 その昔、先祖の狩人が身持ちの猿を殺してしまい、その後、その家に生まれた長男は3代続けて耳が聞こえなかった。占い師にみてもらったところ、猿の祟りとのことで、石に親子七躰の猿を刻んで祀ったところ、祟りがなくなったという。以来、耳病守護として祀られている。
猿の形をした神様を見たのは初めてだ。信仰を集めているようで、猿のぬいぐるみなどが供えられていた。
また、同寺は「ぜんそく寺」とも呼ばれ、古くから「ぜんそく封じ加持」が行われているという。
徳願寺はもとは勝願寺(埼玉県)の末寺で、普光院という草庵だったが、徳川家康の帰依によって、徳川の徳と勝願寺の願をとって徳願寺となったという。
山門や鐘楼がとにかく巨大で、大迫力である。山門と鐘楼はともに安永4年(1775)の建造で、山門の仁王像や大黒天像などは明治維新の廃仏毀釈の折に葛飾八幡宮の別当寺だった法漸寺から移されたもの。
本尊の阿弥陀如来像は、北条政子の依頼で仏師運慶が彫ったものだと伝えられる。
ほかに円山応挙の幽霊画や宮本武蔵が滞在した折に残した達磨(だるま)の絵や書がある。
本久寺の隣にある横町稲荷神社はL字型になった鳥居が面白い。
銀杏の大木が美しい神明神社。大永7年(1527)に金海法印(きんかいほういん)が伊勢皇太神宮の砂を運んで森をつくり、神宮を勧請したという。金海法印は人々の信頼が厚く「行徳さま」と呼ばれたため、地名になったと伝わる。
徳蔵寺の隣にある稲荷神社は小さいながら屋根が重厚な造り。屋根に草が生え、かなり古いもののように感じる。
法傳寺には本堂の裏に、真ん中に仏像、右に閻魔大王、左に奪衣婆(だつえば)を配した珍しい石像がある。閻魔大王も奪衣婆も冥界の番人。亡者の行き先(天国か地獄)を決める役目を負っている。奪衣婆は三途の川のほとりで、亡者の衣服をはぎとり、懸衣翁という老人に渡す。懸衣翁は衣服を衣領樹にかける。衣領樹にかけられた衣の重さには亡者の生前の業(ごう)が現れるという。
同寺のご住職によると、三体の像には冥界で裁きを受け、その先に仏様のいる極楽があるという意味なのだという。
善照寺には、万治元年(1658)に青山吉貞が一族の菩提を弔うために造立した「五智如来」という5体の石仏がある。
源心寺には、「狩野家の六地蔵」と呼ばれる高さ2mほどの6体の舟形光背をもった座像がある。
寺社ではないが、この街には遊女の悲しい伝説が伝わる「おかね塚」や、行徳の名物で、源頼朝も立ち寄ってうどんを食べたという言い伝えのある「笹屋うどん」跡、船の航行の安全を願って安政元年(1658)に建てられた「常夜灯」などの見所もある。
行徳地域は新旧の江戸川と東京湾に囲まれ、「島」のようだ。自転車の場合は、行徳橋を渡って、この「島」に入る。行徳橋は江戸川の水量を調整するため、ローリングゲートになっている。
この行徳橋を渡った大和田という地域には、県道沿いに甲(かぶと)大神社がある。神社を馬上のまま通ると必ず落馬したといわれる。
境内に「よく見て考えて」という看板とともに、壊れた鳥居が置いてあった。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災で倒壊したもので、氏子が地震の恐ろしさを訴えている。
同じく行徳橋を渡った原木という地域には妙行寺という大き寺がある。天文7年(1538)の開山で、山門や本堂、庭などが美しい。
緑が多い国府台、国分
国分寺と弘法寺
決して緑が多いとは言えない市川市内だが、松戸市の市境となる国府台(こうのだい)や国分、北国分は起伏に富み、緑も多い。
地名でも分かるとおり、ここには古代、下総国の国府が置かれ、国分僧寺・国分尼寺が置かれていた。天平13年(741)に聖武天皇の勅令で全国に建てられたもの。国分僧寺の中心は現在の下総国分寺とほぼ同じ場所にあり、境内には当時の礎石が残されている。
市川考古博物館には、市指定文化財の誕生仏が収められている。誕生仏とはお釈迦様が生まれたときの姿をかたどったもの。昭和10年ころ曽谷6丁目付近の水田から発見された。銅製で、平安後期の作とされる。
弘法寺(ぐほうじ)は天平9年(737)に行基菩薩が建立して「求法寺(ぐほうじ)」と称し、後に弘法大師によって伽藍が造営され、弘法寺となったという。元慶5年(881)に天台宗となり、建治2年(1276)に日蓮宗に改宗した。
江戸時代には紅葉の名所として知られていたが、明治21年(1888)の火災で諸堂が焼失。多くの楓(かえで)も燃えてしまったという。現在の伽藍は再建されたもので、本堂などは鉄筋コンクリートだが、急な石段を登ると現れる木造の山門や鐘楼は火災を免れたもので、木立の中に建ち、趣がある。この石段の下から27段目の石のひとつがいつも濡れていて、「涙石(なみだいし)」と呼ばれる伝説が残っている。
鐘楼の前に小さな濃縁観音堂がある。足を組んだ観音様のお姿がかわいらしい。像の前には、「伏姫桜(ふせひめざくら)」という樹齢400年を超えるしだれ桜もある。
境内には古い茶室があったが、最近取り壊されたようだ。「人間大学」と書かれた看板のある赤門をくぐると、太刀大黒堂、里見龍神堂、真間道場がある。真間道場が旧本堂で、この一角はこじんまりとした木造のお堂と庭があり、落ち着いた雰囲気だ。
弘法寺の前にある手児奈(てこな)霊堂。万葉集にも詠まれた伝説の美しい娘・手児奈を祀るため、夢のお告げによって弘法寺7世日与上人が建立したと伝えられる。霊堂のある場所は、昔、手児奈の奥津城(おくつき=墓)があった場所だという。安産、子育て、疱瘡(ほうそう)に霊験があるとして、信仰されている。お堂わきの池は同地の入り江の跡形をとどめる唯一のものだという。
弘法寺の近く、県道1号線(松戸街道)沿いに国府神社があり、地名にまつわる伝説が残っている。
日本武尊が武蔵国に向かう時、軍勢を川の浅瀬を歩いて渡すことはできないかと思案していると、コウノトリが飛来して、浅瀬を教えてくれたので、難なく武蔵国に渡ることができた。尊は褒美として、コウノトリにこの台地を与えたので「鴻之台(こうのだい)」という地名が起こったという。
現在の国府神社は、県道沿いの急な斜面にあり、急な階段を登ると小さな境内がある。
国府台にある天満宮では毎年1月17日に「辻切り」という行事が行われている。悪霊や病気が村に入るのを防ぐための民俗行事で、ワラで2mほどの大蛇を4本造り、御神酒を飲ませて魂入れをして、町の四隅にある木に結びつける。
じゅんさい池の近くの木にも大蛇が結びつけられているが、この池の前の道に小さなお堂がある。銀杏の落ち葉が、じゅうたんのようで美しかった。
北国分の禅照庵には樹齢300年前後と推測される県下最大級のラカンマキがある。6mを超えると大木の部類に入るが、樹高9・1mにもなるという。
同じく北国分の愛宕神社の2本の大銀杏。参道入口にあり、2本が並んで立つ姿は壮観だ。これからの新緑の季節、秋の紅葉のころはさらに美しくなる。樹齢は、神社の創建年代から350年前後と考えられている。
堀之内、北国分駅の近くにある伊弉誥(いざなぎ)神社のハリギリ(針桐)は県内では最大級のもの。
以上の4本(3件)はいずれも市指定天然記念物。
少し離れるが、大野町の浄光寺(JR市川大野駅近く)に運慶作と伝わる像高24・3cmの仁王像がある。別名を「乳なし仁王」という。運慶が母の菩提を弔うために彫っていたところ、完成まであと一歩というところで母の姿が現れ、つい誤って乳をそぎ落としてしまった。そこで像を壊そうとしたが、母はこの地の安産の守りにせよと告げたので、運慶は像を完成させた。この伝説から乳の出の少ない母親の信仰を集めているという。
※参考文献=「いちかわ時の記憶」「市川散歩」(市川市教育委員会)、「まち歩きガイドブック ぐるり東葛」(NPO法人まちづくりNPOセレガ)
※4、5面掲載の地図は、NPO法人まちづくりNPOセレガ提供
昨秋和名ヶ谷にオープンした「昭和の杜」の吉岡光夫さん(62)、本紙でもお馴染みの「昭和ロマン館」(北小金)の根本圭助さん(75)、小金原団地商店街の一角にあるダガシヤダイチャンの大村将英さん(49)、松戸市民劇団座長で松戸シティガイド代表を務める石上瑠美子さん(59)にお集まりいただき、「昭和」をテーマにした2つの私設博物館と昔懐かしい駄菓子屋をめぐるツアーを行い、それぞれが生きた「昭和」について話を伺った。
【戸田 照朗】
一行がまず訪れたのは、「昭和の杜」。吉岡さんの案内で展示物を見て歩いた。
同館に展示している自動車やバイクは現在製作中の「ALWAYS 三丁目の夕日」の続編に続いて、パート3にも出演依頼が来ており、近く撮影現場に運ばれる予定だ。
これらの古い自動車やバイクに加えて、雑貨品や当時の玩具などが展示されている。
蓄音機の前では当時のレコードを試聴。ザーザーという雑音の中に、懐かしい昭和があった。また、旧国鉄の車掌が乗った列車の最後尾についていた車輌には、ダルマストーブがついている。車掌がキップを整理した机などもあり、当時の車掌の仕事の様子が目に浮かんだ。
次に訪れたのは、「昭和ロマン館」。新松戸でオープンした時に比べると、展示スペースはかなり縮小されたが、それは「私設」博物館の運営の難しさも物語っている。
根本さんの師である小松崎茂の常設展に加え、往年の挿絵画家の絵が展示されている。
石上さんは、当時の役者たちが載った雑誌に感嘆の声を挙げていた。吉岡さんと大村さんの二人の興味を引いたのは、やはり小松崎茂作品。戦艦大和など軍艦の迫力の絵や、小松崎茂が得意とした未来の都市を描いた作品などに見入っていた。
ダガシヤダイチャンに行く前に、大村さんの自宅のコレクション部屋を見せていただいた。ちゃぶ台のある畳の部屋を裸電球が照らしている。それは、白黒テレビと真空管のラジオが置かれた昭和の茶の間だ。その周りをぐるりと駄菓子屋コレクションが取り囲んでいる。
ダガシヤダイチャンは土曜午後7時〜9時30分が大人の部で駄菓子をつまみに一杯のめる。日曜午後1時〜5時が子どもの部。古い電車を使って造った店内は夢の世界。ついついお酒が進んでしまう。先のコレクション部屋といい、店自体がひとつの作品で、凝るときには徹底的に凝る、大村さんの姿勢が見える。
空襲と疎開の記憶
根本圭助さん
最年長の根本さんは、昭和10年に南千住に生まれた。来月の誕生日で76歳になる。小松崎茂をはじめ、多くの先輩達にかわいがられてきただけに、この日のような集まりでいつも「最年長」になることに、一抹の寂しさを感じている。
根本さんは柏に家族で疎開し、そのまま柏に住みついた(15年前に松戸市内に転居)が、高校1年生の時に、家の近くに小松崎が引っ越してきた。
戦後、復興した出版界で子どもたちの間では絵物語が大人気に。小松崎は「少年ケニヤ」の山川惣治などと肩を並べる人気作家となっていた。根本少年はすぐにこの大先生の新居を訪ねた。すると「やぁ、ペンキ屋の圭ちゃんかい。大きくなったなぁ」と気さくに声をかけてくれた。根本さんはまだ小さくて覚えていなかったが、小松崎は根本さん一家のことをよく覚えていたという。
小松崎の言葉でも分かるとおり、南千住での根本家の家業はペンキ屋だった。兵器の塗装なども行っていたため、戦前は羽振りがよかった。「ボクはぼっちゃんでしたから」と根本さんは言う。
戦争が激しくなり、学童疎開の話が来ると、先生が学童疎開は言われているようにいいものではなく、かなり悲惨なものになりそうだ、ということをこっそり教えてくれた。そこで、根本家では柏の父方の親戚を頼って一家で縁故疎開をすることになった。
が、肩身の狭い柏での生活もやはり苦しいものに。親戚といっても、食事は別々で、雑穀などの粗末なものを廊下に座って食べた。その家の子が白い米のにぎりめしを見せびらかしに来た時には、本当に悔しかった。
根本さんは一人で南千住の家に逃げ帰り、母も根本さんを追って帰ってきた。程なくして、父が迎えに来た。空襲も激しさを増し、一家でまた柏に戻ることになった。松戸まではなんとかキップを手に入れたが、そこから柏までは歩くことに。旧水戸街道を幼い弟をだましだまし一家は歩いた。北小金の駅前にある大正堂は母方の親戚で、ここで一泊させてもらった。温かい布団にくるまった時は心底ほっとした。
3月10日の東京大空襲の時には柏にいた。大空襲の直前に一時帰省していて幼い命を散らした友達がいる中で、運命とは分からないものだ。
戦後、一家は柏に六畳一間のアパートを借りて再出発することになる。「アパートが決まった時は、本当に嬉しかったですね」。
高校1年で「時の人」小松崎茂と再会した根本さんは、住み込みの弟子になった。「今じゃ信じられないけど、それまでは本気で東大に行くつもりで勉強していた。それが、ぱったりと勉強をやめて、教科書代も映画を見る金に換えてしまうほどになるんですから、極端な性格なんですね。今でも時々、卒業できなかったらどうしよう、って悩んでる夢を見るんですよ」。
松戸弁”がぽろり
吉岡光夫さん
吉岡さんは、昭和23年、和名ヶ谷に生まれ、現在も市内で建設業を営んでいる。和名ヶ谷の実家には江戸時代の石造物もあるという。
吉岡さんの実家は春木川(現・国分川)が近く、大雨が降ると水が出ることで有名な場所だった。台風が来ると、一面が湖のようになり、どこが川だか分からなかった。台風一過で天気になると、ここぞとばかり田んぼの中で泳いだりして遊んだ。「まだ学校にもプールがない時代ですから。よく怒られましたよ」。
パラチオンなど今では禁止されている強い農薬をまくと、学校が2〜3日休みになった。後述する石上さんの通う北部小学校では給食があったが、吉岡さんの通う東部小学校には給食がなかった。比較的食糧事情の良い農家の子どもが多かったためだろう。当時の和名ヶ谷には、まだ80戸ほどしかなかったという。
「子どもの頃、松戸第一珠算学校に通っていて、松戸本町の子どもたちと一緒になる。向こうはおぼっちゃん、おじょうちゃんという感じでね、こっちは東部地区のなまりが出ちゃって、恥ずかしい思いをしたよ」。
「あなた」のことを「いしら」と言った。「坂」を「さが」と言った。農家の多い東部地区や、江戸川沿いの低地の田園地帯、「下谷」と呼ばれる地域には「松戸弁」と言ってもいい方言やなまりが残っていた。驚くことに、松戸市内でも地域によって微妙に言葉が違った。
「今でも使う人はいるんじゃないかな。ウチの親なんかずっと使ってた」。
PTA会長なども務め、「昭和の杜」に来る子どもたちをかわいがる吉岡さんからは想像もつかないが、子どもの頃からやんちゃだった吉岡さんには、長じてからの武勇伝も多い。
「今までに3度死にかけました」。
2度は若いころのケンカで、3度目は数年前、工事現場で足を滑らせ、高い壁から足から落ち、かかとと腰の骨を砕いてしまった。
「病院のベットの上で一度は死んだんだから」と考えた。暗く考えるのではなく、残りの人生はおまけなんだからと、逆に前向きにとらえることができた。3度とも、医者でも悲観的になる厳しい状況から不死鳥のように蘇った。
「今は不況不況っていうけど、本当なんですかね」。年末に温泉にでも行こうと宿をネットで探したが、もうどこも予約でいっぱいだった。「仕事も選ばなければ、何かあると思いますよ。生きていこうと思えば、なんだってできるんじゃないかな」。
モノクロの世界
石上瑠美子さん
石上さんは、昭和26年、南花島で生まれた。両親はもともと他所の人だったが、生まれる3年前に松戸に引っ越してきた。母子家庭で、母は平潟の飲食店で働いていたために、よく遊びに行ったという。平潟には江戸時代から、昭和31年に成立した売春防止法によって33年に赤線が廃止になるまで遊郭があった。
遊郭のおネエさんたちには、本当にかわいがられた。東北出身の人が多く、色が白くぽっちゃりしていた。「みんな弟のため、妹のためにって稼ぎに来ている人たちだから、幼い私のことが妹みたいでかわいかったんでしょうね。るみちゃん、るみちゃんってかわいがってくれた」。
おネエさんたちに連れられて浅草に遊びに行ったのがいい思い出。当時、馬橋から浅草行きのバスが出ていた。写真もいっぱい撮ったが、後に全て処分した。今は家庭を持って幸せに暮らしている人もいる。残していてはいけない、と思った。
松戸市内で19回引っ越したという石上さんは、平潟に住んだこともある。遊郭がなくなった後、遊郭だった建物は中央大学の寮になったり、部屋をアパートのように貸していた。
江戸時代には宿場街だった松戸には、当時からの流れをくむヤクザも多く、猥雑な街だったという。
「東京でお勤めしている時に、松戸って言うと、『ああ、競輪と遊郭の』って言われた」。
その松戸が大きく変わり始めたのが、昭和40年代なかば。松本清市長の登場によって。
「ああ、あの『すぐやる課』の」と相手の反応が変わった。
砂利道、泥道ばかりだった松戸の市道が、簡易舗装ではあったが、全て舗装道路に変わった。松本市長の公約だった。それも任期中に実現。前出の吉岡さんによると、「その総延長は、明石から松戸までの距離に匹敵するんですよ」という。
「モノクロの世界が、いっきにカラーに変わった。そんな感じ」。
松本市長が急逝した後、市社会教育課と協力して開いた演劇講座がきっかけで、松戸市民劇団は生まれた。その劇団も30周年を迎え、苦楽を共にした劇団員と劇団の存在は、石上さんにとってかけがえのないものになっている。
松戸に新しい人がどんどん入ってくることで、様々ないい変化が生まれてきた。だから、新しい住民の力を大切にしたい。
昔は、松戸は仮の住まいで、いつかは出ていくという人が多かった。今はここが終の棲家と考えている人も多い。だから、松戸のことを知って、愛してほしい。そのために、小さな活動でも地道に続けていく。
最後に「もし時代をさかのぼって、もう一度見ることができるとしたら」と質問してみると、「昭和30年代」という答えが返ってきた。つまり、モノクロの世界である。
つらくて、さみしくて、貧しかった少女時代。いい思い出はあまりないけれど、今とは全く違った世界。だから見てみたい。
地域が教育の場
大村将英さん
大村さんは、昭和36年、東京の小岩に生まれた。松戸に越してきたのは小学校3年生の時。小金原団地の抽選に当たったからだ。
小岩では4軒長屋に住み、銭湯に通った。湯が熱くて入れなくて、水を入れると、熱い湯が好きな大人に怒られた。脱衣所でその人に呼び止められ、「さっきは悪かったな」と言って、飲み物をおごってくれた。人間関係を学ぶ場でもあった。
よく行く駄菓子屋が3軒ぐらいあった。それぞれに特徴があり、きょうはどこに行こうかと友達と相談して、駄菓子屋にくりだした。それは松戸に来てからも同じで、だいたい3軒くらいの駄菓子屋で遊んでいた。ただ、お菓子やゲームなどに地域によって違いがあった。
店のおばさんとの会話も楽しかったし、お金の大切さを学ぶことができた。今やっているダガシヤダイチャンでも1万円とか、大きなお金を持ってくる子には「それ、どうしたの?」と聞く。これは、と思うことがあれば、ちゃんとしかる。小岩の長屋に住んでいるときも、よく大人にしかられた。しかられても、全て筋の通った、納得のいくことだった。地域が子どもたちを育てていた。
ダガシヤダイチャンを開くきっかけは、10年前、当時10歳だった息子の一言。
地域のお祭りで、「パパたちはお酒のんで、焼き鳥食べて楽しいだろうけど、ボクたちには遊ぶものが何もないよ」と言われた。
そこで、自宅の前で小さな駄菓子屋を開くことにした。5年ほどそれが続き、現在の場所に本格的なものを開くことにした。
平日は家業の看板屋の仕事があるため、週末に1日程度しか開けない。それでも、子どもには、自宅以外にほっとできるスペースが必要だ、との思いがある。将来は、病院に入院していて外出できない子どもたちのために、駄菓子屋の出張もできたら、と考えている。
中学時代は山口百恵に夢中だった。将来の夢は歌手か警察官になること。みんな、そんな夢を持っていた。それが、最近の子どもと話すと心配になる。大人になったら何になりたいの? と聞いても、なりたいものがない子が多い。夢を持つことが、子どもを子どもたらしめているのに、それがない。
荒っぽい時代
年代はそれぞれ違うが、男性3人の話には、必ずケンカの話が出てきた。
優しい絵を描き、好々爺の風情がある根本さんも、学校に行くときはドスを隠し持っていったという。
「学校に行くと、ボスがトーナメント表を作ってるんだもの。階段の踊り場で、何の恨みもない相手とケンカさせられた。どちらかが泣くか鼻血を出すかで終わり。不思議と大けがしたり、死んだりするヤツはいなかった」。吉岡さんの場合は、相手が悪すぎて大けがになってしまったが、大村さんも「不思議と大けがにならなかった。殴られると、相手の痛みも分かるようになる」と話していた。加減を知っていたということ。一方で、男の子は好むと好まざるとに関わらず、否応なくケンカに巻き込まれた。「昭和」は荒っぽい時代でもあったのだ。
石上さんは、劇団の旗揚げと前後して、幼子を事故で亡くしている。舞台に上がる石上さんを見て、「なんだか、子どもが亡くなって喜んでいるみたい」と心ない言葉を投げかける人もいたという。
今だったらどうだろう。きっと子どもの死を乗り越えるために頑張ってるんだ、と思うのが自然な反応なのではないだろうか。昔は心ない、トゲのある言葉を平気で投げかける人が今よりは多かったように感じる。
様々なメディアの発達で、格段に情報量が増えたこと。女性の社会進出が進んで、女性が様々な分野で活躍することが当たり前になった。時代の変化が、人の心と言動を変えた。今の時代の良い側面のように思う。
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昭和をめぐるバスツアーを開催
参加者を募集中
今回訪れた「昭和の杜」「昭和ロマン館」「ダガシヤダイチャン」と千駄堀の「元禄まつど村」をめぐるバスツアーを、2月12日に開催します。午前10時に松戸市民劇場前に集合。費用は3千円程度を予定。定員は30人で、要申し込み。定員になり次第締め切り。お問い合わせ、お申し込みは、電話 090・6111・8520松戸よみうり新聞社・戸田まで。
※「元禄まつど村」は、古い農具を中心とした私設博物館。村長の中館金一郎さん(70)が作る有名人の似顔絵を描いた「民芸かぼちゃ」が有名で、度々メディアでも取り上げられている。
松戸市出身の宇宙飛行士・山崎直子さんのスペースシャトル搭乗をたたえる記念碑がこのほど、市民会館前に建てられ、先月26日には山崎さんも出席するなか除幕式が行われた=写真=。
この記念碑は、山崎さんが昨年4月、米スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、ミッションを完遂させたことをたたえ、松戸中央ロータリークラブが市に寄贈したもの。山崎さんが東京大学大学院在学中に米メリーランド大学へ留学する際、同クラブがロータリー国際親善奨学生として山崎さんを推薦した縁もあった。
記念碑が建立された市民会館は、山崎さんが小学生の頃から何度も通い、宇宙への夢を育んできたプラネタリウム室がある場所で、同室は昨年5月から「NAOKO SPACE PLANETARIUM」という愛称がつけられている。
除幕式で山崎さんは「立派な記念碑を作ってもらいうれしい。このことをきっかけに、松戸市民が科学、宇宙に少しでも興味をもってもらえれば」などと話していた。
記念碑には、山崎さんが宇宙飛行士になるまでの歩みから、スペースシャトルに搭乗しミッションを完遂して無事帰還したこと、昨年6月に山崎さんが松戸市「名誉市民」になったことなどが記され、最後に「この碑は、山崎宇宙飛行士が、年齢性別問わず全ての人々に、『夢』と『希望』、『勇気』と『感動』を与えてくれたことを称えるものです」と刻まれている。
【竹中 景太】