─若狭・東京・矢切を舞台にした社会派推理小説─水上 勉「霧と影」水上勉さんは、昭和32年9月から34年10月までの2年間を妻と子と下矢切で過ごしたため、「霧と影」「好色」「凍てる庭」「私の履歴書」など多くの作品に矢切の風景が出てくる。水上さんは昭和23年に「フライパンの歌」を発表して好評を得たが、それから約10年間は、文学的な空白期で、「東京服飾新聞」の記者をしたり、洋服の行商をしていた。下矢切にいる頃、作家の川上宗薫氏と知り合い、川上氏の勧めもあって書いたのが、「霧と影」である。 【戸田 照朗】 |
||
水上さんは行商からの帰り、台風で大雨の中、洪水の町を市川駅から下矢切まで歩いたため、膝上までの両足にかゆいかさぶたができる皮膚病になってしまった。医者にみせる金もないため、石炭酸をとかした水をバケツにため、そこに両足をつっこんで、「霧と影」を書いたという。 「霧と影」は当時、繊維業界に起きた共産党のトラック部隊事件を下敷きにした推理小説だ。水上さんの故郷である若狭の山奥にある「猿谷郷(さるやごう)」という4戸しかない部落を小学校の教員が訪ね、崖から転落死したことから謎が深まる。教員の友人だった東京の大手新聞社の記者が、友人の死に疑問を抱き、警察とともに事件を解決してゆく。 猿谷郷のある青峨山(せいがさん)は死火山で、戦時中は要塞地帯だったため地図にも載っていなかったという謎の多い山だ。昔、平家の落ち武者が逃げ込んで作ったという猿谷郷は、陸稲(おかぼ)と芋を作って、炭焼きを生業とし、自給自足の生活をしてきた。部落には4戸しかないが、名字は宇田と矢田の2つしかない。つまり宇田本家と分家、矢田本家と分家の4戸で、宇田と矢田は血縁である。この閉ざされた部落が、なんとも不気味な舞台となっている。 一方、東京では、堀留にあるカミング洋行という、取り込み詐欺にあって倒産した洋服問屋から社長が失踪するという事件が起きていた。 この繊維業界の取り込み詐欺事件と、社長の失踪、若狭での教員の謎の死との関連が物語の核となる。 さて、矢切はどこで関係してくるかというと、事件に関係していると思われる女性が、矢切に住んでいたことが分かるのだ。 記者は、猿谷郷で見つけた花火線香を手掛かりに、上矢切のバス停わきにある「つるた商店」という玩具・駄菓子・荒物などを扱う店を訪ね、そこで問題の女性のことを聞き出す。女性宅は、市川寄りの次の停留所(中矢切だろうか)のところにある牛乳屋の手前を左に折れるとある、赤い瓦ぶきの小さな家だ。しかし、一足遅く、女性は急に越した後で、行方が分からなくなっていた。 矢切で書いた思い出の作品水上さんは、行商しながら読んでいた松本清張氏の「点と線」に強い影響を受けたという。それまで本格派のトリック小説は毛嫌いしていたが、社会性と人道主義的動機を潜ませれば、殺人事件も十分読みごたえのある推理小説となると思ったという。水上さんは、繊維業界に近かったため、共産党が起こした一連の詐欺事件で中小企業が倒産に追い込まれていくことに、義憤を感じていたことが、「霧と影」を書く動機にもなっているという。 舞台となるのは、水上さんの故郷である福井県若狭、仕事をしていた東京の繊維業界、そして住まいのあった松戸市矢切である。当時の水上さんの周りにあった風景が小説の舞台となった。 水上さんの旧居跡を示す碑が矢切駅前に建っている。水上さんは、当時の家を「私の履歴書」の中で、「ぼくは下矢切で、はじめて、人間らしい所帯をもった。六畳、三畳半ふた間しかないバラックだったが。子は松戸の中学へ入った」と書いている。 「霧と影」は直木賞候補となったが落選。後に書いた「海の牙」も候補作となったが落選した。水上さんは、いつの間にか社会派推理小説作家のレッテルを張られ、推理小説の注文しか来ないことに、どこか空しさを感じていたようだ。 そして、「雁の寺」で昭和36年上半期の直木賞を受賞し、作家としての地位を確立していった。しかし、この作品も推理小説として注文を受けたもので、どこかに殺人事件をからめなくてはならないことに、苦心をしたという。 ※参考文献=「新編 水上勉全集 第二巻」(「私の履歴書」・中央公論社)、「水上勉全集 第二十二巻」(「霧と影」「あとがき」・中央公論社)、「松戸の文学散歩」(松戸市立図書館) |