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松戸の文学散歩

─平潟河岸を舞台に直木賞作家が描く人間ドラマ─

乙川優三郎「さざなみ情話」

直木賞作家の乙川優三郎さんが、松戸の平潟河岸を舞台にした小説「さざなみ情話」(朝日新聞社)を出し、市内の主だった本屋さんで平積みになっている。同書は『小説トリッパー』(同)2004年冬季号〜2006年春季号に連載されたもので、6月30日に出版された。記者は、松戸駅東口の堀江良文堂書店さんの紹介で、同書を手にした。

【戸田 照朗】


布佐河岸あたりの利根川

▲布佐河岸あたりの利根川の流れ

 

さざなみ情話

▲朝日新聞社 1500円(税別)

 


平潟の来迎寺

▲平潟の来迎寺


高瀬舟輸送ルート

 

船頭の修次(しゅうじ)は高瀬舟に醤油樽などを積んで、銚子から利根川に入り、ぐるっと関宿をまわって、江戸川を下り、江戸の日本橋まで運ぶ。松戸の平潟河岸には船頭や人足、近在の農家の男を相手に売笑(売春)をする食売旅籠(めしうりはたご)が軒を連ね、修次はその中の小鮒屋という旅籠にいる、ちせという女のもとに、もう4年も通い続けていた。

彼女たちの生業は過酷だ。身体をぼろぼろにして年季が明ける前に亡くなるもの、自ら命を絶つものもいる。

ちせと修次が出会ったのは、ちせ16歳、修次23歳の時だった。越後出身のちせは、13歳で売られ、下女奉公を始めた。年季は8年半。やっと年季が明けるまで、1年5か月というところまで来たが、やれ着物代だ、薬代だと借金が増える仕組みになっていて、自由になれるとは限らない。

こんな生活をしながらも、純粋な優しい気持ちを忘れないちせに修次は惹かれていった。逢って話をしているだけで心が満たされる。彼女の身体を少しでも休ませるために、修次にとって安くはない揚代を払いながら、逢っても抱かない。

ちせに人間らしい美しい心が残っているからこそ、今でも身体を売ることに痛みが走るのだろう。なんとか精神の均衡を保ちながら、修次と語らい、いつか修次と暮らす日が来ることを夢見ることが、彼女の唯一の心の支えになっていた。

修次はちせの身請けをするために、借金をして中古の舟を買った。建造から7年もたつ古い舟はいつ壊れるか分からない。そうなれば、借金だけが残る。漁師だった修次の父と兄は海で亡くなり、修次の肩には母と妹の生活もかかっている。川での仕事は海よりは危険が少ないが、楽ではない。帆を立てて走れる日は年にほとんどなく、棹(さお)でかいて舟を歩かせるのだ。

ちせの過酷な生活を想うと、読んでいて辛くなる。地べたをはうような気持ちで耐え、おぼろげに見えている未来を信じるしかない。二人に幸せになってほしいと願わずにはいられない。

ここまで過酷ではないにしても、現代を生きる私たちにも通じることがある話だと思う。ちせの上をいくつもの欲と金が通りすぎてゆくが、ちせが求めているのは修次の優しい心で、彼女を生かしている唯一の希望だ。二人をつないでいるものは心しかない。彼女の前に死んでいった何人かの女たちも、同じように心を求めていたのだろう。

水運と平潟の歴史

この物語の最初のシーンは、冬の布佐、利根川の河岸から始まる。昨秋、「鮮魚街道(なまかいどう)」を取材し、布佐から松戸まで歩く旅をしたが、銚子で水揚げされた鮮魚は、布佐から陸路、松戸まで運ばれ、松戸で再び舟に乗せて日本橋まで運ばれる。水量の増える夏期は舟で運んだ。

主人公の修次が運んでいるのは、主に醤油樽だが、1年中舟で運ぶ。風がなく、水が少ない冬は大変だっただろう。船頭たちは、セイジと呼ばれる小さな舟の中の部屋で寝食し、長いときには銚子から日本橋まで往復半月もかかった。

修次が松戸に来るのは、日本橋で荷を下ろし、再び江戸川を登ってくる帰りだ。当時の利根川や江戸川には大小の高瀬舟の白い帆が映えて、活気のある風景だった。

平潟の歴史については、渡邉幸三郎さんが『昭和の松戸誌』のなかで、青木源内さん(第12代)が書いた「平潟今昔」を引用しながら、次のようなことを書いている。

その昔は、船が河岸に着くと、女が小舟で漕ぎ寄せて話を決め、船へ上がって掃除や洗濯、繕い物などをして一夜を共にした上、朝食の支度までして去っていったのが、やがて船宿が陸上の旅籠屋という形になって定着するようになると、客寄せのためもあって、そうした女や給仕女が飯盛女として、売春を目的にするようになったのではないか。

この小説でも、ちせは身体を売るだけでなく、女中のような仕事もしていて休む暇がない。

明治になると、人身売買が禁止されて、表向きは本人の自由意思による売春に座敷を貸す、貸座敷業として営業を続けた。平潟遊廓と呼ばれる歓楽街になったのは、明治30年代になってからだという。

小説の中で、ちせは自分の未来を願い、また亡くなった朋輩(ほうばい)の供養をするため、足しげく来迎寺(らいごうじ)の地蔵尊を訪れる。この来迎寺は慶長14年(1609年)の建立で、現在も平潟にある。ちせは物語の中だけの人物かもしれないが、私は同じような境遇でこの世を去った女たちのことを想い、しばし手を合わせた。

隣には水神宮が建っている。川を行き交った男たちも、旅の安全を願い、ここで手を合わせたのだろうか。


※乙川優三郎 1953年(昭和28年)千葉県生まれ。県立国府台高校卒。96年「薮燕」でオール読物新人賞、97年「霧の橋」で時代小説大賞、01年「五年の梅」で山本周五郎賞、02年「生きる」で直木賞、04年「武家用心集」で中山義秀文学賞を受賞。

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