国府台に古代の大型道路跡

国府のメインストリートか

市川市国府台の県営住宅建て替え工事に伴う発掘調査で古代の大型道路跡が発見され、3日に現地で説明会が行われた。

国府台で出土した古代の道路跡の写真▲国府台で出土した古代の道路跡。手前が東の側溝。奥が西の側溝

道路幅は約9m。両側に側溝があり、南北の長さは45m。東の側溝は深さ0・7m、西の側溝は一番深いところで1・8mあった。東西の溝の深さがアンバランスに大きく違う。特に東側は深く、雨水を流すためだけの溝とは考えにくいが、その用途についてはまだ分かっていない。溝の中からは奈良時代から平安時代にかけての土器(土師器、須恵器)や瓦が出土した。なかには郡名や施設名を表す「葛」「厨(くりや)」「市」と書かれた墨書土器もあった。

国府台はその名が示すとおり、奈良時代から平安時代にかけて、下総国(しもうさのくに)の国府があったと考えられている。国府の場所は特定されていないが、各国に一つずつ置かれたと言われる、国分寺と国分尼寺跡が近くにある。

今回見つかった道路跡は、規模が大きく、延長線上には国府の中心施設となる国庁(こくちょう)の推定地がある。この道路は国衙(こくが・今で言う官庁街)の西側を南北に走る古代東海道から別れ、国府の中を進んで国庁に至る当時のメインストリートではなかったかと考えられている。外環道の建設工事にともなう発掘調査では、矢切で古代の道の跡と思われる遺跡が見つかっている。古代東海道の一部だと考えられる。

発掘地点からは道路上や道路の脇から計4か所の弥生時代の竪穴住居跡が見つかった。この場所は2千年前の弥生時代から住みやすく人の集まる場所で、そこに奈良時代になって国府が建設されたと推測される。

この日、先着順で希望者には周辺の文化財が案内された。古代の道路跡は、北は国庁の推定地に伸び、南は住宅地の中にある切通しに続いている。切通しは大規模で、道路は切通しを越えて、南側の低地に通じていたと考えられる。周辺には、弥生時代の環濠集落、方形周溝墓、6~7世紀に築造されたと考えられる弘法寺古墳(全長43m、後円部最大径20m前後の前方後円墳)、円墳などがある。

 

右から「厨」「葛」「市」の文字が読める墨書土器の写真▲右から「厨」「葛」「市」の文字が読める墨書土器

古代の国と道路

松戸市を含む東葛地域は旧国名でいうと下総国に属する。古代の律令制の下で制定され、現在は使われなくなった五畿七道(明治以降は北海道を入れて五畿八道)という広域行政区画がある。下総国は東海道に属していた。五畿は、関西圏の5か国で、七道は東海道(茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重県の熊野地方を除く地域)、東山道(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀県)、北陸道(新潟、富山、石川、福井県)、山陽道(兵庫県南部と、岡山、広島、山口県)、山陰道(京都府北部と兵庫県北部および、鳥取、島根県)、南海道(四国4県と、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島)、西海道(九州)である。その名前は、新幹線や高速道路などにも残っている。

「道」は広域行政区画であるとともに、京都の中央政府と地方の国府、国府と国府とを結ぶ官制道路でもあった。初期のもので幅12m、後期のもので幅6mがあったという。30里(約16㎞)ごとに「駅」が置かれ、馬と食料が置かれるようになっていた。この点、江戸時代の「宿」に似ている。

 

西の側溝の写真▲深いところで1.8mある西の側溝。雨水を流すためだけの溝としては深すぎるが、用途はまだ分かっていない

古代の東海道は、都(京都)から常陸国(ひたちのくに・茨城県)まで続いていた。600年代後半に設置された最も古い東海道は、駿河国(するがのくに・静岡県)を経て、相模国(さがみのくに・神奈川県)まで来ると、三浦半島から海路、房総半島に渡り、上総国(かずさのくに)~下総国~常陸国というルートだった。千葉県のある房総半島は総国(ふさのくに)だったが、後に分けられて、半島の南端が安房国(あわのくに)、半島の中ほどが上総国、半島の北と東葛地域、茨城県の千葉県に隣接する部分を合わせた地域が下総国となった。地図で見ると上(北)が下総国で、下(南)が上総国というのは逆さまのようにも映るが、東海道のルートによって先に到達する国のほうが都に近いということで、南の上総国と北の下総国になった。上総国の国府は市原市、下総国の国府は市川市国府台にあったといわれている。

 

国府台の県営住宅建て替え工事に伴う発掘現場の地図

ルートは後に何度か変更され、平安時代には相模国から武蔵国(東京都)を通って下総国に行くという陸路のルートになった。下総国には11の郡があった。松戸市は葛飾郡に属していたが、その郡衙(ぐんが・郡の役所)がどこにあったかは分かっていない。しかし、葛飾郡の隣の相馬郡の郡衙は我孫子市湖北(県立湖北高校)にあったことが分かっている。駅(於賦駅=おぶえき)は我孫子市湖北にあったと推測される。古代東海道のルートは、国府のある市川市国府台を発った後、我孫子市に至るまでにもう一つ、駅(茜津駅=あかねずえき)があった。茜津駅の場所が分かれば、古代東海道のルートもよりはっきりと分かる。水戸街道は古代東海道の一部だったという説もあるため、松戸宿、小金宿を通っていたかもしれない。江戸時代の水戸街道では、小金宿の次は我孫子宿になる。

※参考文献=「歴史読本こがね」(松戸市立小金小学校創立130周年記念事業実行委員会・「歴史読本こがね」編集委員会)