「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(61)

「野球談義」「墓めぐり」と多才な青空うれしさん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

右から青空うれしさん、高原晃さん、筆者、池野忠司さんの写真▲右から青空うれしさん、高原晃さん、筆者、池野忠司さん

今年の夏は妙な夏だった。各地でゲリラ豪雨と呼ばれる集中豪雨があり、局地的に思いがけぬ大きな被害が次々と発生し、その度にテレビ、新聞では「記録的…」という文字が度々登場した。

暑さも昔の暑さとは違ったようで、先月号に書かせていただいた、かって東京漫才界で活躍した青空うれしさんから電話がかかってきた。「今、浅草に居るんだけどよう、今日はひどい暑さで、外人観光客のひとりに、暑いねェー、どこから来たの?って聞いたら、印度から来たんだけど、この暑さじゃたまらん、たまらんネと言っていた。印度人もびっくりする暑さなんてシャレにもなんねえや」と言って大笑いしていた。

カラッとした暑さで、夕刻さっと夕立があり、その後で涼風が吹いて…なんていう昔の夏は一体何処へ行ってしまったのやら、この辺りでは雲の厚い日が続き、ねっとりとした高い湿度で、まるで亜熱帯のような日が多かった。そうした中でカレンダーの日付だけは確実に日を重ね、9月を迎えてしまった。

うれしさんは、コロムビア・トップさんのお弟子さんで、相棒のたのしさんとともに東京漫才界で活躍をしたお人である。

青空うれしさんは、漫才のみでなく、昭和30年頃から岡晴夫の専属司会者を皮切りに、村田英雄、五月みどりなどの専属司会者として活躍。テレビ、ラジオにも数多く出演したが、日本テレビ「ウイークエンダー」のリポーターとしても10年間活躍、お茶の間に親しまれた。海外公演も多く、アメリカ西海岸、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、更にフランスまでも笑いの場を広げた。

うれしさんの趣味といえば野球。そして有名人のお墓めぐり。野球の方は自分のチームを持ち、駒沢大学の出身なので元ジャイアンツの中畑清さんや、元西武ライオンズの石毛宏典選手などの先輩として親しく交友し、球界にも多くの人脈を持っている。

有名プロ野球選手の使用したグローブやバットなどお宝のコレクションは5百点を越えているという。お墓のほうはといえば、まさに古今東西あの人、この人のお墓を写真入りで、うれし流解説付きの本が、すでに3冊も出ている。

その健脚?ぶりは外国にまで及び、画家の部としては、ドラクロワや「踊子」の絵で有名なエドガー・ドガ、そしてマリー・ローランサン。音楽の方ではベートーベンを筆頭にシューベルトとかヨハン・シュトラウス。野球好きのうれしさんらしく、ジョー・ディマジオやレフティ・オドールなど。詩人のアポリネールや、かのマリリン・モンローなどの墓にも足をのばしている。

日本人の有名人の墓はずらりと数百人にも及ぶ様々な人の名前が並び、そのひとり、ひとりに博識豊かなうれし節の絶妙な解説が付けられ、おもしろいこと、おもしろいこと。近頃「墓めぐり」を趣味としている人もちらほら耳にするが、うれしさんのようなスケールの大きな人には会ったことがない。

うれしさんにはお叱りを受けるかもしれないが、も早や時効にもなっているので、私が当時ショックを受けたことを思いきって書かせていただくことにする。

昭和30年、田端義夫と当時11歳の白鳥みづえがデュエットした歌謡曲『親子舟唄』は大ヒット曲となったが、目をつけていた(ゴメン!)うれしさんが猛アタック。昭和36年うれしさんはこの白鳥みづえさんと結婚している。

白鳥みづえさんは17歳だった(うれしさんは16歳だったと言っているが、私の手許の資料では17歳になっている)。交際中、中学校への送り迎えをしたという伝説めいた話まで残っている。白鳥さんは旧満州生まれ。引き揚げて4歳の時NHKのど自慢に出場。2位に入賞したことがきっかけで、歌の道へ進んだ。米軍のキャンプまわりや、昭和25年日劇小劇場(のちの日劇ミュージックホール)に出演しているところを大映にスカウトされ、『母月夜』(昭26)でデビュー。三益愛子と母娘コンビを組み、『母千鳥』『母人形』『母山彦』『母の湖』などで名子役とうたわれた。

同時に昭和27年、美空ひばり、江利チエミら少女歌手ブームにのって、テイチクレコードから『黒い瞳』『おとぎブギ』で歌手デビュー。前出の田端義夫とのコンビによる『親子舟唄』の大ヒットへと続いたのである。

17歳(16歳?)での結婚をうれしさんは「今なら犯罪だネ」と話し、うれしそうに笑った。

そのうれしさんから、カラオケのお誘いが来た。場所は銀座のコリドー街。うれしさんの知人のビル。

「8月だから、軍歌からいこう」とうれしさん。同行した仲間の高原晃さん、池野忠司さん。お二人ともなつメロ界では知られている人で、特に高原さんはたいへんな美声の持ち主で、アコーデオンの奏者でもある。

その中にあって、私ひとり、昭和初期からの古い懐メロの多くを知っているということだけは、小さな自慢だが、歌の方はさっぱり。北海道民謡『道南口説(くどき)』の歌い出し通り、「わたしゃこの地の 荒浜育ち 声の悪いのは 親ゆずりだよ 節の悪いのは 師匠ないゆえに 一つうたいましょ はばかりながら〜」という訳で。

 

青空うれしさんの著作の一部の写真▲青空うれしさんの著作の一部

愛書家にはやるせない「断捨離」

先月書いた「終活」「断捨離」の話には、3人の読者の方からお便りをいただいた。

活字離れが話題になって久しいが、今でも愛書家と呼んでいい人が世間には残っているんだなァと一寸嬉しくもなり、淋しくもなった。

昭和40年頃、NHKTVで放映されていた「ひょっこりひょうたん島」を制作していた劇団ひとみ座のスタッフの人に誘われて、当時原作者のひとり、井上ひさしセンセイをお訪ねしたことがあった。

愛書家の典型のようなお方で、愛書談義で花が咲いた日をなつかしく思い出した。「古本屋へ一歩入るとネ、書棚の中から、『私を買って!』と探していた本の方から熱い視線を投げかけてくるのよ。いそいそ買い求めて帰宅し、期待に胸をはずませながら、まず本の腰巻(本の表紙の下の部分にぐるりと本を囲んでいる宣伝用の帯)をはずすのネ」。この気持ち私にも共感出来た。

大きな段ボールに一杯、ごそっとアメリカ雑誌の切り抜きが出て来た。終戦直後こうした『ライフ』『ポスト』『コリアーズ』等々のアメリカ雑誌も当時なかなか入手出来なかった。

高校生になったばかりの私は、乏しい小遣いをふところに神田神保町の古書店街を夢中で歩きまわった。今の三省堂の大通りをへだてた所に「神田日活」という映画館があり、その右側の路地にいつも露天の古本屋が店を出していた。書店主?の水野重松という立派な名前の老人と私はいつか親しくなっていた。通称「チョンマゲのおじさん」と呼ばれていた水野老人は、私が知り合う前は本当に頭にチョンマゲを結っていたそうだが、私が知り合った頃は、頭はザンバラ髪で、鼻下とあごに長いひげをそなえていた。

仙人のような風貌で、やさしい眼をしていたが、私の本の好みをすぐ呑みこんで、私がいつも寄ると、何冊かの雑誌を布製の大きな袋から取り出して、「持ってきな」と出してくれた。昭和20年代後半の話である。

後に師の小松崎茂先生の話では、「俺もチョンマゲのおじさんには随分世話になったなァ」と話していた。あの手塚治虫先生も世話になった一人だと後になって耳にした。何でもおじさんは羽田へ着くアメリカからの旅客機の掃除をしている知人から最新のアメリカ雑誌を入手していたということだった。

「終活」の大整理のお陰で、なつかしい当時の雑誌のスクラップに久々に会うことが出来た。食事代も節約して、神保町の古本屋街を歩き廻った若い日がなつかしく思い出された。

まだ60代の友人のMさんは、たいへんな愛書家で、気にいった蔵書には、大きな蔵書印をべたりと押してあり、この本は勿論門外不出。彼はこの蔵書印を婚姻届と呼んでいた。要するに蔵書印を押したお気に入りの本は、生涯手許に置き続けるんだという。

彼はこの「終活」とか「断捨離」といった風潮に、どのように向き会うのだろうか? 私はそれを思って、たまらなく遣る瀬ない気持ちに沈んだ。

今月もあっという間に紙面が尽きた。

いつも応援してくださる友人の黒須路子さんはじめ多くの仲間達に心から感謝しつつ―。

 

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