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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(3)

風の盆と「一本刀土俵入」の意外な縁

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

♪呼ぶは胡弓(こきゅう)か物ゆう月か/うれしなつかし/オワラ/風の盆…

9月1、2、3日は越中八尾の風の盆である。ここ数年多忙なことと、古希を過ぎて急に体力が衰えたこともあり、御無沙汰をしているが、私が誘われて初めて風の盆へ出かけたのは、昭和40年代のはじめの頃だった。

その後、八尾へはどれくらい通ったことだろう。9月が近づくと、編集者に「今年もまた盆踊りですか?」とよく冷やかされた。

近頃は年ごとに観光客の数も増え、風の盆当日の街の雰囲気もすっかり様変わりしてしまった。私は若い頃、ほんの一時期だが、民謡の追っかけをしたことがあった。民謡がブームになり、テレビで民謡番組が増えた頃、ちょっとへそ曲がりの気のある私は、ぴたりと追っかけを中止してしまった。それでも私の手もとにはテープが500本近く残っている。

NHKラジオで40年近く放送を続けているという辛口民謡評論家の竹内勉さんは、13年生まれと聞いて、直接お逢いするまでは、その蘊蓄(うんちく)の深さから、大正13年生まれと思い込んでいた。ところが伺うと、昭和の生まれだという。竹内さんの話によれば、民謡をあつめはじめたのは、小学生の時からと言うのだから、私ごとき者の到底太刀打ちできる相手ではない。世の中には、すごい人がいるもんだと感嘆する。

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風の盆

▲筆者・ 根本圭助が描いた「風の盆」

 

その竹内さんから、「今年も聞名寺(もんみょうじ=八尾町にある古刹)で3日の夜に逢いましょう」なんて電話で誘われると、もうむずむずしてじっとしてはいられなくなる。

私が風の盆の変化を嘆くと、「それは仕方のない事です。町の人達は皆懸命に生活し、この日を楽しみにし、町の発展につくしているんだから、観光客は無責任なわがままを言ってはいけません。踊りに溶け込んで、その中から自分なりに何かひとつでも小さな宝を見つけられたら、それで良しとしなくちゃ」と逆にたしなめられてしまった。

そういえば豪雪で有名な新潟地方に旅して、雪害で苦労している人達に向かって、「やっぱり雪国はいいなあ」なんて言ったりしたことを思い出し、たまらなく恥ずかしくなった。

長く通ったので、先方は知らなくとも、こちらでは町の人の顔で知っている顔がいくつもある。小学生の可愛い女の子が10年程たって、美しい娘さんに成長したのに驚き、何年か前には若いお母さんになって幼児を抱いて縁先に座っている姿を見て仰天した。

聞名寺の大屋根が黒々と夜空にそびえ、時刻は午前2時をまわった。この頃からが風の盆は佳境を迎える。

ああ、やっぱりこの季節、八尾がたまらなく恋しくなる。

 

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一本刀土俵入

▲「一本刀土俵入」の舞台美術も手がけた小村雪岱が描いた邦枝完二作「お傳地獄」。
「お傳地獄」は昭和10年読売新聞に連載された。

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新国劇の全盛期

突然、話が変わるが、皆様よく御存知の長谷川伸の名作「一本刀土俵入」。これは昭和6年6月に『中央公論』に発表されたと手もとの資料にある。挿絵はたしか木村荘八だったと記憶する。その年7月の東京劇場に「一本刀」は、六代目尾上菊五郎の駒形茂兵衛、慶ちゃんとよばれた五代目中村福助のお蔦(つた)で幕を開けた。

この昭和6年という年は、満州事変が勃発した年である。『少年倶楽部』新年号に田河水泡の「のらくろ二等卒」が登場し、わが国初のトーキー映画「マダムと女房」が公開された年でもあった。4月、『文芸春秋オール読物号』の創刊号に野村胡堂の「銭形平次捕物控」が開始された。第1話は「金色の処女」。挿絵は小村雪岱(せったい=後述)だった。

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「一本刀土俵入」は、昭和11年、新国劇が大阪の浪花座で、島田正吾の茂兵衛、久松喜世子のお蔦で上演され、未曾有の大当たりをとった。それ以後新国劇の当たり狂言となったのは、皆様御承知の通りである。

ちなみに、映画では片岡千恵蔵(お蔦は梅村容子・昭和6年・サイレント)。トーキー時代になり、衣笠貞之助監督・長谷川一夫(お蔦は岡田嘉子・昭和9年)――演出家杉本良吉とのソ連への亡命事件(昭和13年)で世間を騒がせたあの岡田嘉子のお蔦だった。

さて、舞台の「一本刀」の第1幕は、御存知取手(とって)の宿我孫子屋の景である。開幕一番、観客がどよめいたのは、その斬新な舞台装置だった。

作者長谷川伸は、この場面がたいそう気に入り、自宅の玄関に第1幕の舞台模型を置いていたという。

その舞台美術を手がけたのが、前述の「銭形平次」の挿絵を描いた小村雪岱であった。

最後の浮世絵師と言われ、昭和の春信とも称された雪岱は、泉鏡花にその才を愛され、数々の本の装丁に挿絵に、そして舞台美術のみならず映画界でも美術、時代考証にと、幅広く美術界に貢献した。

川越出身の小村雪岱は、昭和15年10月17日、54歳の若さで没した。お子さんには恵まれなかったそうだが、娘のように可愛がられたという姪の多喜子さんが我孫子にお住まいで、柏で息子さんが経営する「広沢」という小料理屋を手伝っている。

――話を本筋に戻す。

茂兵衛を助ける宿場女郎のお蔦の生国が、越中八尾ということになっていて、劇中、おわら節が哀感を盛り上げる。

茂兵衛に助けられたお蔦一家は、親娘(おやこ)して故郷の八尾に逃れたのではないか、という作者長谷川伸の推論があり、現在の踊りの輪の中に「お蔦さん」の子孫が混じっているのではないかという話は、夢物語としても、じーんと胸を熱くさせられる。事実、八尾の町には、こんな碑が建っている。写し取ってきた碑文を原文のまま記載させていただく。

「小生の『一本刀土俵入』のお蔦は越中八尾の生まれです。『一本刀土俵入』の大詰で、茂兵ヱに見送られて利根川近くの取手を立ち去ったお蔦は夫と女の子と三人で八尾におちつき、年々の九月一日風の盆に親子夫婦三人で小原節を楽むだと思うことは、作者である私だけの勝手な空想であるかしら。

お蔦あみ笠背に投げかけて

越中八尾の風の盆。       長谷川伸」

私自身、六代目の舞台は勿論知らないが、新国劇の熱烈なファンだったので、島田正吾の茂兵衛は、少なくとも10回以上は見ていると思う。新国劇では、お蔦は香川桂子が多かったが、一度晩年の島田で、浅草公会堂だったか、三浦布美子のお蔦を見たのを今思い出した。

先代中村勘三郎の茂兵衛も3、4回見ているし、数年前、歌舞伎座で今の松本幸四郎でも見ている。

しかし、何といっても記憶に馴染んでいるのは、新国劇の舞台で90歳を超えた島田の一人芝居での「一本刀」を同好の友人たちと新橋演舞場へ観に出かけたが、その日、私は早めに出かけて大道具係の友人に頼んで、舞台裏で準備をしている老優に見入った。いつもはお蔦役を多くつとめた香川桂子が、その日は黒衣(くろご)役で、てきぱきと準備を手伝っており、開幕前の舞台裏の慌ただしくも張りつめた空気の中、老優島田正吾と、香川桂子の姿に、新国劇の全盛期を思い出し、舞台裏の暗がりで、あふれてくるものを必死でこらえていた。

お蔦一家を逃がして、それを確かめての名文句――

「お蔦さあん、十年前(めぇ)、櫛、簪(かんざし)、巾着(きんちゃく)ぐるみ、意見をもらった姐(あね)さんに、これがせめても見てもらう駒形茂兵衛のしがねえ姿の―ど、土俵入りでござんす」

島田正吾の茂兵衛の独特の台詞回しが甦り、思わず、「島田!」「日本一!」と声を掛けた日が懐かしく思い出される。

劇場から男性客が減少したのは、一体いつの頃からだろう。男の劇団、男の芝居と言われた新国劇も経営不振で行きづまり、最後の頃、フジテレビに籍を移していたことがあった。当時私もフジテレビで(後に名プロデューサーとして大活躍した)横沢彪氏とともに「とびだす絵本」の制作に追われていた頃で、部屋も同じ事業局。新国劇の切符を売りさばくのを手伝ったこともあった。

島田、辰巳を中心に、野村、秋月、石山、河村、郡司、宮本、清水、岡、東、大山……懐かしい顔がまぶたの裏を走馬灯のように通りすぎてゆく。

層の薄かった女優陣では、大御所の久松。そして前述の香川、外崎、そして高倉典江(現・緒形拳夫人)の初々しい娘役も忘れられない。新国劇も時流には勝てなかった。

誰かの言葉にあるように、人生の主役は、やっぱり「歳月」以外の何ものでもない。

最後にもうひとつ。

♪八尾娘のお蔦の唄に/むせぶ茂兵衛の/オワラ/土俵入り(剣司)

 

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