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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(4)

浅草六区 金木犀(きんもくせい)が香る青春の思い出


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

30年代の六区、最後の賑わい

秋風や忘れてならぬ名を忘れ/万太郎

近頃は、物忘れがまた一段とひどくなった。

しかし、すっかり忘れてしまっていた事柄が、ふとしたきっかけで、歳月の霧の彼方から、ひょっこり顔をのぞかせることがある。

私が、小松崎茂先生の家へ住み込んで、一人で書生をしていた頃は、小松崎先生も30代終わり―仕事量も、まさにピークに達した頃だった。

無我夢中の1年(昭和28年)が過ぎ、翌年春から2人の後輩が、新たに加わってきた。

先生から、「今まで一人で苦労をかけたから、これから圭ちゃんはじっくり勉強しておくれ」と言われた矢先、偶然の機会で、私はごく軽微ながら右肺に小さな肺浸潤(はいしんじゅん)をみつけられた。病気という程のものではなく、「少し休みなさい。こんな段階で見つけられたのは、本当に幸運でしたよ」と医師に諭(さと)され、しばらく途絶えていた浅草通いが始まった。

途絶えていたというのは、私が生まれたのが、師の小松崎先生と同じ荒川区南千住であり、目と鼻の先の浅草は、幼い頃から祖母に連れられて通った思い出の場所だったが、戦後復興した浅草六区へ通いはじめたのには、もうひとつ別の事情があった。

私にとって人生の恩人のひとりに杉浦守さんという〈兄貴〉がいるが、この人は戦後復興した国際劇場の舞台の背景制作のチーフとして活躍し、以来、昭和57年の閉館取り壊しまで、国際劇場の舞台とともに生きてきた人だった。

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浅草六区

▲筆者・根本圭助が描いた「浅草六区芸能展」(平成2年・浅草公会堂)のポスターの原画

 

国際劇場の戦後開場1周年記念興行は、「猿飛佐助絢爛(けんらん)城へ行く」という高田浩吉劇団の公演だった。アコーディオンを肩にかけた藤山一郎が特別出演していたのを今も鮮明に覚えている。

国際劇場の再開が昭和22年11月だから、この実演は、23年ということになる。私は中学2年生だった。それ以来、ずっと杉浦さんの世話になり、いつも「かにや」という大道具製作会社から無料札(ただふだ)をもらって舞台と映画を楽しませてもらってきた。胸に小さな異変を見つけられてからは、暇なので、私の浅草通いは一層頻繁になっていった。

当時、馬橋駅前から「浅草寿町行」のバスが出ていて、柏から電車、バス代共で、たしか55円で浅草公園(六区)まで行けたように記憶している。今ほどではないが、当時から交通渋滞もあり、時間帯により所要時間はあてにならなかった(2時間前後だったか?)。電車を利用したほうがもちろん早かったが、国際劇場で夜を徹してしまった時など、バスでゆっくり寝込んで終点の馬橋までひと眠りできた。バスの本数はわりとあったように思う。浅草まで乗り続ける人は少なく、途中のバス停での乗降客が多かった。バスはのろのろ浅草へ向かった。

昭和30年前後の浅草六区の賑わいは、劇場の数も戦前のそれを凌駕(りょうが)する―と言われた程で、六区にいるだけで楽しかった。

川路竜子、小月冴子を中心に、SKD(松竹少女歌劇団)の人気も凄まじいものがあった。

私は楽屋口もフリーに出入りできるようになり、楽屋口でうらやましそうな視線を投げかけるファンの女性群を尻目に得意然としていたのだから、まさに若気の至りとはいえ、今思い出すと恥ずかしくて冷や汗が出てくる。

そんな訳で小松崎家への出入りを続けながら、私は20代のはじめから、浅草であまり実のあるとは言えない、ぐうたらな青春を送っていた。

SKDの踊り子さんとも親しくなった。これは次の機会に書かせていただくとして…

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踊り子

▲カットも筆者

 

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ある踊り子との出会い

昭和32年頃だったか、私は興味がありながら、意気地なしで、のぞくことすらためらわれていたストリップの舞台を、ドキドキコワゴワ初めて見ることができた。六区で親しくなった知人の案内によるものだった。

ロック座には池信一や長門勇。フランス座では先日亡くなった関敬六や谷幹一。それに、ガリガリに痩せた四角い顔の男―戦後、進駐軍のジープにひかれて事故死した人気落語家・三遊亭歌笑によく似たコメディアンが、何ともえげつなく卑猥な芸を迫力満点に演じていた。それが病癒(い)えてフランス座の舞台に復帰したばかりの渥美清だった。退院直後の渥美清は体重が35キロまで落ちていたという。

渥美清の舞台はずいぶん見たが、その頃の渥美清からは、あまり良い印象は得られなかった。

同じ頃、ちょっとした事がきっかけで、私はK座のM嬢というストリッパーのお姐さんと知り合いになった。

彼女はスターの踊り子さんではなかった。そして、私と同年だった。

舞台の彼女を見たことがなかったので、ある日私は勇気を出して客席へ紛れ込んだ。太い柱の陰から彼女の裸身を盗み見ていたが、狭い客席なので、すぐに見つかってしまった。

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彼女の目が「バーカ」と言って、真っ直ぐ私の目に向かってきた。うろたえて下を向いてしまった私がおかしかったと後で笑われた。白く美しい肢体が目に焼きついた。 

劇場(こや)がはねる頃、よく待ち合わせをして、屋台のラーメン屋へ寄ったり、遅くまでやっている喫茶店でお茶を飲んだ。彼女も私も酒は飲めない体質だった。ちょっぴり越後なまりの残る口調で、身の上話をポツリポツリ聞かされたりもし、一度も乗ったことがないというので、めずらしく休みのとれた日に水上バスで隅田川を下ったこともあった。押上で一人暮らしをしているという彼女を、時としてはタクシーで送っていったりもした。

そう、あの日は小雨が降っていた。宵からの雨で、二人とも傘を持っていなかった。ラーメン屋から外に出ると「送って!」と強い口調で彼女が言った。彼女の言葉には拒否できない何かがあった。その日は普段の彼女と違って口数も少なく、なんだか泣いていたようにも見えた。タクシーの中に気まずい時が流れた。

私も口が重くなり、彼女をいつもの所で降ろしたが、その日に限って、彼女は「ちょっとだけ寄ってって!」とかなり強い力で私の手を引いて、私もタクシーから降ろされてしまった。

逢った時から、悲しげな彼女の様子が気になっていたので、私はおずおずと路地の奥の古いアパートへついていった。

ドアを開けた途端、「あらっ」と彼女は慌てて「ちょっと待って」と言って部屋へ飛び込むように入っていった。

部屋いっぱいにロープをつって干してあった洗濯物を急いで取り込んだらしく、「どうぞ」と改めて招じ入れてくれた。閉めっぱなしの部屋いっぱいに、むせ返るような甘い香りが立ち込めていた。ちゃぶ台の上のコップに挿した小さな金木犀(きんもくせい)の枝から花が咲きこぼれ、芳香を放っていた。

彼女は手早くやかんを火にかけ、「ちょっとあっちを向いてて」と言って雨に濡れた服を着替える気配が伝わってきた。

狭い六畳一間の部屋で、私の後から花の香りとは違う、若々しい匂いが流れてきて、私はどぎまぎするばかりだった。

それからお茶を飲みながら、ひとときを過ごし、霧時雨の中を一人帰ったが、「早熟だった割りには稚なかったんだなぁー」と若い日の自分を少し切なく、ほろ苦く思い出している。

あの日彼女に何があったのか。確かに彼女は泣いていた。それから程なくして彼女の姿はK座の舞台から消えていった。

毎年、金木犀の花の季節になると、あの甘酸っぱい匂いのこもった部屋が思い出される。

何とも他愛のない淡淡(あわあわ)とした思い出である。

先年、病気でリハビリを続けている杉浦さんを招いて、これも古い馴染みの高木ブーちゃんと、国際劇場の歌謡ショーの演出を手がけていた中川氏と4人で、昔話で夜を更かした。高木ブーちゃんも、杉浦さんにはいろいろお世話になった一人である。

今、浅草六区に昔日(せきじつ)の俤(おもかげ)はない。時移り、街も、人も変わった。変わり過ぎた。

思い出のなかの彼女は、昔のまんまだが、私は古希を過ぎて、老人の仲間入りを果たした。

存命ならば、彼女だって同様のはずである。

水上バスに乗った時、「隅田川って本当に臭いのねえ」と言っていたが、その後の彼女の人生が隅田川の匂いのようなものだったか、あるいは金木犀の花の香りのように、甘く幸せなものだったか、秋の夜長、あれこれ思い巡らせている。

木犀の香の浅からぬ小雨かな/草城

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