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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(5)

華やかなりし国際劇場とSKD(上)

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

戦火の中の松竹少女歌劇団

たかだかとあはれは三の酉の月/万太郎

11月は「お酉(とり)さま」の月である。今年は、明後28日が「三の酉」だが、樋口一葉の世界がいっぺんに甦る季節でもある。

浅草国際劇場は、昭和57年4月、SKD(松竹少女歌劇団)最終公演を最後に46年間の幕を閉じた。その跡地にビューホテル(28階・高さ110メートル)が建ち、劇場は姿を消して「国際通り」という名に面影をとどめるのみとなった。「一の酉」「二の酉」の日には、国際通りも例年通りの人出で賑わった。

浅草国際劇場の開場は、昭和12年7月3日のことだった。地下1階、地上4階、観客5千人を収容するという娯楽の大殿堂は「東洋一」と喧伝された(実際は3千6百人と聞いている)。この開場から4日後の7月7日、北平(ペーピン)郊外蘆溝橋付近で日中両軍の衝突があり、これが日中戦争の発端となった。日本はずるずると泥沼のような時代に突入するいわばその序章となるような年だったが、徐々に拡大、激化する中国戦線の悲惨な現状をよそに、国内では、南京占領など戦捷(せんしょう)気分の提灯行列で湧き立っていた。

浅草六区では、川田義雄(晴久)、益田喜頓らが「あきれたぼういず」を結成。花月劇場で公演し、「ダイナ狂騒曲」が大流行していた。国際劇場というホームグランドを得て、松竹少女歌劇団の活躍も益々華やいだものとなっていく。

しかし、国際劇場も歌劇団の乙女達も「昭和」という激動の時代の中で、様々な運命を辿ってゆくことになる。

昭和16年、太平洋戦争勃発。周知のごとく緒戦の勢いも失せて、日を重ねる毎に敗色は濃厚となり、昭和19年3月には決戦非常措置要綱で大劇場は閉鎖。以後、国際劇場は、風船爆弾製造工場となり、従業員その他はそのまま徴用。同時に松竹少女歌劇団は一先(ひとま)ず解散。松竹芸能本部女子挺身隊が組織され、日本全国の工場、鉱山で働くいわば産業戦士達へ増産奨勵慰問が行われ、一部の踊り子達は、朝鮮、満州、北支、中支ほかの戦地慰問にも駆り出された。

昭和20年3月10日の東京大空襲で国際劇場も罹災(りさい)。屋根は焼け落ちたが、外観は辛うじて現形ををとどめた。同時に浅草六区の興行街も空襲による大打撃を蒙(こうむ)った。

かつての歌劇団の踊り子達は、女子挺身隊の名称の他に松竹舞踊隊の名で空襲の中も劇場公演を続けたが、丸の内邦楽座で公演中に終戦を迎えた−−と記録にある。

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浅草国際劇場

▲戦後なんとか焼け残った浅草国際劇場

若き日の筆者と姫ゆり子さん

▲若き日の筆者(左)と姫ゆり子さん(昭和33年)

戦後、国際劇場の全盛期

国際劇場の戦後復興開場は、昭和22年11月23日で、SKD50名による「ラッキー・スタート」(5景)。併演として長谷川一夫、花柳小菊一座の「弁天小僧白浪狂騒曲」で幕を開けた。これは流石に私も見ていないが、前回に記したように開場一周年記念興行から私の国際劇場通いが始まった。

昭和24年5月の「湯の町パラダイス」は、今も強烈に記憶に残っている。熱海をはじめ、伊豆の温泉地を舞台にしたバラエティショウといったものだったが、戦後の混乱期の中、熱海への新婚旅行が夢と騒がれていた時代である。私はまだ中学3年生だった。

客席も舞台も真っ暗な中に突然一条のスポットライトがエプロンステージにあたり、♪紅いマフラーをいつまで振って……、純白のタキシードを着た(ビロードの声)津村謙が、前年発売されて大ヒットしていた「流れの旅路」を歌いながら颯爽と登場する。熱海の海岸シーンでは、川路竜子の貫一、小月冴子のお宮で、川路さんの視線を追って満員のファンの溜め息と歓声で客席全体が地鳴りのようにとどろいた。

このショーの中では、近江俊郎も特別出演し、流しの青年に扮し、これも前年(昭23)発売された大ヒット曲「湯の町エレジー」を歌い、大喝采を博していた。

余談だが、この年(昭24)6月に松戸−取手間が電化されている。

同じ頃、SKDの舞台に魅了された私は、友人3人と自転車で柏から浅草まで出かけ、国際劇場前の売店でブロマイドを買って帰ったことがあった。今の新国道6号線は、まだ影も形もない時代で、中学生としては一寸した冒険だった(6号線の開通は昭和30年代に入ってから)。旧水戸街道は上り下りと坂が多く、くねくね蛇行する長丁場だった。

同年9月新橋演舞場でSKDによって上演された「聖(セント)エロワの夜」も忘れられない。劇中流れるビゼー作曲「アルルの女」の第二組曲の中の「ファランドール」の虜になり、同行した友人と小遣いを出し合ってレコードを購入した。レコードもまだSP盤時代だった。思えば早熟な中学生ではあった。

SKDでは、新企画として日舞を中心とした「歌舞伎おどり」(昭和26年1月13日から)「東京踊り」「夏のおどり」「秋のおどり」と四大踊りがあり、松竹の封切映画が併映されて国際劇場は大盛況の時代を迎えた。

「歌舞伎おどり」は、昭和29年には「春のおどり」と改称され、昭和41年には「東京踊り」と合併されるが、SKDの四大踊りは東京の名物となって、国際劇場は浅草興行街に君臨した。

「春−」は、新人を起用したり、フレッシュさを売り物にし、「東京−」は行楽シーズンを迎えての大規模な豪華舞台を演出し、「夏−」は、何トンもの本物の水を駆使して観客に涼味を送り、「秋−」は、芸術祭に参加したりして芸術の秋を彩った。

「踊り」と「踊り」の間には、様々な歌手の「実演(アトラクション)」と呼ばれたショーがあり、全盛時の岡晴夫や、美空ひばりの実演の折には観客の列が国際劇場をぐるり一巡する程の人気だった。

国際劇場や、有楽町の日劇の舞台に立つということが、スター達の夢であり、ステータスだった。三橋美智也、春日八郎、三波春夫、橋幸夫、北島三郎……などなどあらゆる歌手の実演。特に国際劇場での初舞台を私は数多く見ている。

又、ポールアンカやペレスプラド楽団の公演も、客席からはもとより舞台の袖からとか、花道へ椅子を持ち出して見せてもらったり、照明室から見たり、歌手のショーの場合は、バンドが舞台に出てオーケストラボックスが空になるので、その中に入りこみ文字通り「かぶりつき」で舞台を楽しませていただいた。昭和33年の「春のおどり」の中で上演された「雪ん子」は吉永淳一の原作に飛鳥亮の振付だったが、戦後の数多いSKDの演目の中で一番といっていいほど素晴らしく、又楽しい舞台だった。空から吹雪にまじって舞い降りた「雪ん子」と村の娘「ふー子」とのメルヘン。挿入歌もすばらしく、私は何回も何回もその景を見続けてスケッチしたりした。勿論、歌も台詞も全部今も私の頭の中に生きている。その主役を演じたのが姫ゆり子さんで、これをきっかけにして、頭角を現した姫さんの後援会作りのお手伝いまですることになった。

 

姫ゆり子さん

▲SKDのスターでテレビや映画でも活躍した姫ゆり子さん

 

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姫ゆり子さんとの出会い

姫さんに自宅へ招かれ、心ときめかせて出かけた日が懐かしく思い出される。本名の上田喬子(たかこ)から「たこ」というニックネームで呼ばれていた。父親の居なかった姫さんからは色々相談相手にもされ、少ない休みの日には一緒によく芝居を見に出かけたりもした。お母さんとは特に親しくなり、港区から世田谷に移った頃も仕事のついでによくお邪魔をした。

SKD独特のレビュー臭の少ない姫さんは、松竹のスターとして映画にテレビにと引っぱりだこになっていった。私も自分の仕事でNHKのスタジオへ出かけたことがあり、生放送時代の連続ドラマ「若い季節」を参考用に撮影したスナップ写真が今もかなり手許に残っている。

出演者も超豪華な顔ぶれで、松村達雄、渥美清、坂本久、沢村貞子、岡田眞澄、三木のり平、小沢昭一、黒柳徹子、クレージーキャッツの面々のほか、淡路恵子、有島一郎、森光子、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかり、ジェリー藤尾、水谷良重(現・八重子)……等々。そしてこの中に姫ゆり子も出演していた。

ザ・ピーナッツが主題歌を歌ったこの連ドラは、昭和36年4月から昭和39年12月まで続いた。姫さんとの交流はもう少し次回で詳述させていただくが、私の青春時代の思い出の中でひときわ光彩を放つお一人である。

「雪ん子」は前後して竹田人形座の糸あやつりの舞台でも拝見し、大感激した。主宰の竹田扇之助さんとはこれも不思議なご縁があり、先日も久々に電話で懐かしい声を聞いた。「川路(竜子)さん、小月(冴子)さん、曙(ゆり)さん、南条(繁美のちに名美)さん」。国際劇場を取り巻くファンの列にプログラム売りのおじさんの声が響く。その思い出にひたりながら今月は筆を擱(お)くことにする。

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