忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(6)華やかなりし国際劇場とSKD(下) |
根本 圭助昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
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修学旅行生を連れて昭和30年5月7日、小松崎一門での兄弟子でもあり、心の友として兄事していた秋田県湯沢市出身の岩井川峻一さんが、今でいうノイローゼがこうじて自らの命を絶ってしまった。又と得難い青春の友の一人を失った。この悲しい出来事は、私の心に深い傷となって、半世紀以上を経た今も、胸の底で強く疼(うず)くことがある。亡くなる前年、私は初めて峻一兄に同行して、兄の郷里、秋田湯沢へ出かけ、半月余りを過ごした。純朴な秋田の人たち、特に近所の皆さんからは、「東京のお兄さん」と呼ばれ(ハズカシカッタ!)、毎夜代わり番こに夕食に招かれたりした。 その折り、峻一兄は特に親しくしていた近所の家の中学生や高校生たちに「修学旅行で東京さ来たら、自分と圭助さんとで必ず東京見物をさせてやる!」と約束を交わしていた。 それなのに。本人は冒頭に記したように約束を反故にして、一人手の届かぬ地へ旅立ってしまった。それ以来、10年近く「東京のお兄さん」は、まさに鼻下長振りを発揮。毎年亡き兄貴に代わって、その約束を代行することになってしまった。昨年評判になり、又今秋続編が誕生するという映画「ALWAYS三丁目の夕日」と同時代の話である。余談だが、この映画の劇場用パンフレットには私の小文が載ったので、全国色々な人たちから沢山の反響やらお便りが届き、思いがけず嬉しい思いや楽しい出会いにも恵まれた。 話を本筋に戻すが、修学旅行で上京した子どもたちに「どこへ行きたい?」と聞くと、今ならさしずめ「ディズニーランド!」という声が返ってくるのではないかと思うが、当時はきまって男の子は「コーラクエン!」、女の子は「コクサイゲキジョー!」というのが大半の答えだった。 後楽園球場でうまくゲームのある時は、男の子たちを引き連れ、外野席に陣取ったが、まだろくに稼いでいない身としては、「東京のお兄さん」を続けるのは経済的に実に痛手だった。しかし、まだ一度も電話器というものにすら触れたこともないという純な少年少女が、初めての東京のレストランでおずおずと頬を紅潮させて食事する姿を見ると、亡くなった兄貴をちょっぴり怨(うら)みながらも、少しばかりは良い気分も味わうことが出来た。一方、女の子のリクエストの国際劇場ともなれば、これは前回にも記したように私はフリーパスなので、ある年など10数人を連れて行く羽目になり、大道具の人から「圭さん、きょうは団体割引かい?」と冷やかされ、さすがに自分の図々しさに、顔から火が出る思いをしたこともあった。国際劇場様々で、手を合わせたいような思いに何度とらわれたりしたことか……。 |
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楽屋裏から見た全盛期手を合わせるといえば、国際劇場の楽屋口の左手には小さなお稲荷さんが祀られていて、楽屋入りする踊り子さんたちは、必ず手を合わせてから楽屋入りする習わしになっていた。 ちょっと気になって見ていると、皆一様に時間がなくてせかせかと慌ただしいが、川路竜子さん、小月冴子さんはじめスターの人たちは、忙しさの中の一時ではあっても、若い踊り子さんたちと違って、お参りする姿が実に美しく感じられた。芸の道も深く入った人ほどこうしたちょっとした態度にも人柄が現れるものだと一人納得した。 とにかく国際劇場には、いや大道具製作の「かにや」の人たちには本当にお世話になった。 |
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開幕のベルが鳴る。満員の客席は舞台への期待で、さざなみのようなざわめきがさあっと収まっていく。すべての灯が消えて客席も漆黒の闇となる。よく見ると、オーケストラボックスの中で指揮棒の先についた小さな灯だけがチラチラ視野に入る。 突然闇の中から高い女の声で、「東京踊りは〜(ここでちょっとの間)よーいやさあっ〜」。独特の節回しだが、この「さあっ〜」という掛け声とともに、すでに緞帳(どんちょう)もあがっている絢爛(けんらん)豪華な舞台に一斉に眩(まばゆ)いほどの灯が入り、大勢の踊り子の群舞――その華麗な舞台に、まず観客は魂を奪われる。――全盛期の国際劇場の舞台はこんな風に幕が開いた。 ぴちぴちした若い娘が一糸乱れず登場するアトミックガールズのラインダンスの迫力。 大人向けのお色気を加えたエイトピーチェスとかファイブフェザース。日舞に洋舞に活気溢れる舞台に、観客はいつも満員だった。 姫さんは映画、テレビへところで、前回に記した姫ゆり子さんは、昭和38年9月17日、目黒迎賓館にて華燭の典を挙げた。媒酌人は元警視総監の田中栄一氏夫妻。司会は一龍斉貞鳳氏で、新婦の芸能界での母親役として清川虹子さん。私も友人として席に連なった。桑野みゆき、牧紀子さんはじめ松竹の看板女優さん達が多く出席し、折から噂がささやかれていた岡田真澄さんと瑳峨三智子さんが仲良く登場し、私も共にカメラに収まったりした。 新郎Mさんは、パンナムに勤めるいわばエリートだったが、姫さんは、男児出産後しばらくして体調をくずしたそうで、二人目を流産してから具合がいっそう悪くなり、とうとう離婚してしまった。 昭和50年、日本テレビ系で始まった萩原健一(ショーケン)主演の「前略おふくろ様」の中で、ちょい役ながら個性的な仲居さんを好演したのちテレビからも遠のいてしまった。 その後、上野で元SKDの仲間の経営する店にアルバイトで勤めたことがあり、「根本さんの所へしばらく置いてくれないかなぁ」と頼まれたりもしたが、すべてに理解のあった家内もさすがに渋ったので、当然のことながらお断りしてしまった。 その後何回か食事をしたりしたが、浅草公会堂で、逗子とんぼさんたちと芝居をやるということになり、約束したまんまぷつりと連絡が途絶えてしまった。姫さんは上田家の星だったが、何といっても姫さんにとって、一番の心の支えはお母さんの存在だった。 そのお母さんが亡くなったことが、姫さんの身体や心に大きな痛手となったことは間違いない。姫さんが退団するころから、私の国際劇場通いも徐々に遠のいて、浅草六区では木馬館の安来節、松竹演芸場。そしてもともと通っていた人形町末広亭や、鈴本など寄席通いに夢中になっていった。 国際劇場の斜陽と丼の味昭和53年7月の「夏のおどり」で、なつかしの「雪ん子」が再演された。姫さんの「雪ん子」から、すでに20年の歳月が流れていた。しかし、前回の叙情味は見事に失せていた。 国際劇場も大きく様変わりし、久々に「雪ん子」を見に出かけた日、指定席に座る客は私を含めわずか数人の淋しさで、ラインダンスの景では人もまばらな客席から舞台を見上げるのが恥ずかしく、むしろ舞台の上から客席を見下ろす彼女たちの視線にたじろいで、疲れた一日となった。 この年6月、木の実ナナがSKDの踊り子に扮した「男はつらいよ・寅次郎わが道をゆく」のロケが行われたが、国際劇場には早くも斜陽の刻(とき)が迫っていた。 国際劇場の楽屋では、いつも食事も馳走になってきた。あの頃電気釜はなくて、電熱器の上で飯盒(はんごう)で飯を炊いていた。炊きたての飯を丼に移し、生卵をぶっかけて、鮭の缶詰の身を乗せて醤油をかけて食べる。これが滅法旨い。沢庵(たくあん)があったが包丁がないので、いつも錆(さ)びついた裁ちばさみでやっとこ切っていたのも懐かしく思い出される。実は最近も時折往時を思い出し、その鮭入り卵かけ御飯を食べるが、きまって胸の中にきゅんと一瞬熱いものが通りすぎる。 姫さんのことは折に触れてどうしているか気にかかってきたが、私自身昭和63年妻を癌でなくし、長女は嫁いだ後だったが、両親と高2、中2の伜(せがれ)を抱え、ほぼ10年程嵐のような主夫生活を送っていたので、いつしかそのままになってしまっている。 事実は小説より奇なり―の諺(ことわざ)通り、一昨年の暮れ、修学旅行で上京し国際劇場へお連れしたK子さんから突然連絡が入り、50年振りの再会を果たした。私がちょっとテレビに出演したことがきっかけだったが、その再会は物凄いおまけ付きのドラマチックなもので、そのまま書いたら作り話になる程のもので、ちょっとまだ書く勇気を持てないでいる。 家内の命日が、冒頭の岩井川峻一さんと同じ5月7日というのも因縁めいて感じられるし、姫さんを含め、あの華やかな舞台を彩った多くの踊り子たちは、その後どんな人生を送ったことだろうか―初日の前日には徹夜の通し稽古というのがあった。衣装をつけたまま客席で死んだように眠りこけていた踊り子。振り付けの先生に怒鳴られて、カーテンの陰で泣いていた踊り子。まさに往時渺茫(おうじびょうぼう)夢の如し―である。 |