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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(9)

青春小説『草の花』と海老原三夫君のこと(上)

若い心にしみた『草の花』

三年程前、テレビ局から連絡が入り、「本と出会う」という番組への出演を依頼された。

私は、人様に自慢できるほどの読書家でもないし、まして「本」をテーマに論ずるなんておそれ多いことで、当然お断りするつもりだったが、結局、担当者の熱意に屈してしまった。

「青春時代に読んだ本で忘れられない本を一冊取り上げて、その本に関する思い出を語ってほしい…」というのが、番組担当ディレクターの希望だった。

私は、青春の書と聞かれて、即座に福永武彦さんの『草の花』を挙げた。

                   ☆

出版されたばかりの『草の花』を持って、読後の興奮さめやらぬままに上気した顔で現れたのが、親友の海老原三夫君だった。

昭和29年春、私は19歳。小松崎茂先生宅に内弟子として住み込み、早一年が過ぎていた。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

憧れて、夢中で飛び込んだ世界とはいえ、〈絵〉で生活の糧を得ることの難しさが、だんだん分かってきたころで、小松崎家での明け暮れの折節、早く父母の力になりたいという焦りや、才能の乏しい自分自身への苛立ちなどで悩んだりする中でこの本と出会った。

一読して私も『草の花』に魅せられ、その虜(とりこ)になってしまった。

それにしても、私達二人のその後の『草の花』に対する思い入れは尋常のものではなかった。まだ〈戦後〉の影を引きずっていた時代だった。そして何よりも私達は若かった。

青春期の屈折した心に、作者の理知と叙情と絶望的な孤独感がそくそくと伝わり、乾いた砂地に水がしみ込むようにじわあっと胸に吸い込まれていった。

後になって、『草の花』は先頃急逝した演出家で作家の久世光彦氏をはじめ、映画監督の大林宣彦氏、そして石原裕次郎さんも、兄・慎太郎さんとともにこの書の大ファンと知って、改めて驚いた。仄聞(そくぶん)によれば、新潮社から文庫化された『草の花』は現在延べ87刷というから、いかにこの書の支持者が多いか、ということも再認識させられた。

無二の青春の友

『草の花』の思い出ともなると、本書を紹介してくれた青春時代の友、海老原三夫君について詳述しなくてはならない。私にとって『草の花』と彼は切っても切れない関係なのである。

時代は遡(さかのぼ)るが、東京大空襲で家はもちろん、全てを失い、父の実家を頼って、柏へ疎開してきたのは、昭和20年4月―私は国民学校(小学校)5年生の新学期のことであった。

日毎夜毎の空襲―。時代を反映してか、殺伐きわまりない学校生活の中で、私は彼と知り合い、親しくなった。

彼の家は、柏駅東口の駅前通りに面した恵比屋という古い旅館だった。それで、「恵比屋の三(みつ)ちゃん」と呼ばれていた。やっと探し当てた6畳1間の木造アパートの一室に、親子5人が身を寄せ合って戦後の生活に入った私にとって、彼は何から何まで羨(うらや)ましい存在だった。

後に師事する小松崎先生との出会いが、私の人生を決定してしまったということは、本紙に長々と書かせていただいたが、彼との出会いも、私の青春時代にずっしり重い存在となって今も心に残っている。

彼との思い出を綴(つづ)ったら、紙数がいくらあっても足りないように思う。

中学2年生の折、クラスで芝居をやろうということになった。偶然入手したシナリオで、「これをやろう」と決めたのが、何と島崎藤村の『破戒』で、村山知義氏の脚色によるものだった。折しも神田の共立講堂で新協劇団による『破戒』が上演されたので、入手困難だった電車の切符もやっと手に入れ、二人で出かけた。今思うと、全て彼にリードされていたように思われる。

終演後二人して楽屋へ演出の村山知義氏を訪ねた。顔から火の出るような思い出である。

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スペース 劇団四季の俳優で親友だった海老原三夫君

▲劇団四季の俳優で親友だった海老原三夫君(芸名・滋)

 

福永武彦の『草の花』

▲福永武彦の『草の花』(新潮社・昭和47年発行版)

中学生二人の突然の訪問に村山先生もさぞ驚かれたことと思う。村山知義が演出家としても、童画家としても高名な先生であるなんて当時知る由もなかった。主役の瀬川丑松に野々村潔さん(岩下志麻の父君)、猪子蓮太郎役の薄田研二さんにあのギョロリとした大きな目でにらまれたことが印象に残っている。

そうして私達の『破戒』は昭和24年3月、クラス総出演で上演された。海老原君が主役の瀬川丑松。私が演出と美術を担当した。思えば早熟な中学生ではあった。

同じ年の10月、私達は往復鈍行の夜行列車で京都へ一泊だけという超ハードな修学旅行へ出かけた。食料難の当時、各自弁当ならぬ食事回数分(一食一合)の米を持参するという旅だった。

京都での一夜。私達二人は宿をぬけ出し、新京極にあった劇場で、OSKを退団し、大映に入ったばかりの若き京マチ子さんの「踊る京マチ子七面鳥(ターキー)ヴギ」の実演を見に行ったりしている。どうしようもない二人だった。

彼は立教高校から立大へ進んだ。木下恵介監督の映画「少年期」で主役を演じた石浜朗さんと同年だった。中学時代の『破戒』を序章とし、大学時代の彼は演劇ひとすじに打ち込み、「テアトル・ジュンヌ」とか「皐月座」というような学生演劇グループを作り、前述の石浜朗さんも時としては行動をともにし、「海抜3200メートル」とか「雪おんな」「なよたけ」「恋愛の条件」(キノトオル作)など演劇漬けといっていい学生生活を送った。

私は外部からの協力者として、これらのポスターやプログラムの表紙、切符のデザインなどを全て描いた。楽しかった。

 

名子役だった中山千夏さん

▲名子役だった中山千夏さん(左)と筆者(昭和35年・「虹の國から」のセットで)

 

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海老原君は劇団四季に

立教を卒業した彼は、海老原滋という芸名で劇団四季に入団した。

草創期の劇団四季は、それ故にまた熱っぽく、男優陣も水島弘、松宮五郎、田中明夫、日下武史、井関一(はじめ)…などなど。彼に誘われて、ジャン・アヌイとかジロドウの作品をかなり観ている。「アルデールまたは聖女」をはじめ、「ひばり」「ベケット」「ハムレット」「間奏曲」「アンフィトリオン38」など懐かしく思い出される。女優陣では藤野節子さんとか喜多道枝さん。そして「オンディーヌ」で一躍脚光を浴びた影万里江さん。ブロードウエイではオードリー・ヘップバーンで大ヒットした「オンディーヌ」だったが、影さんの「オンディーヌ」も美しく、評判になった。

この影さんとは彼を通して親しくなり、何回か映画や芝居にも御一緒した。
芸術座へ、菊田一夫の自伝ドラマ「がしんたれ」を観に御一緒した頃、彼女は既に劇団四季のスターになっていて、幕間に「影万里江が来ている…」というファンの声がざわざわと私の耳にも届いて、私は少々得意でもあり、くすぐったい思いをした。私と会う時、影さんはおよそ舞台の美しい少女像のイメージと異なり、地味な和服姿が多かった。

そういえば、影さんのお姉さんは「川喜多」という呉服屋さんを営んでおり、御主人は大映の二枚目スターだった川喜多雄二さん―と聞いていた。影さんはその後、劇団四季を主宰する浅利慶太氏と結婚。離婚を経験して、ひっそりと若くして世を去ってしまった。

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前述の影さんと同行した芸術座の「がしんたれ」では、その前の「がめつい奴」ともども中山千夏さんの名子役ぶりに驚嘆し魅了された。また、「がしんたれ」の劇中、林芙美子役でほんのちょっと登場しただけで、観客の心に強いインパクトを与えた森光子さん…。

一升びんをぶらさげて同人誌の集まりに遅れて来た芙美子が、香具師(やし)の家に厄介になっている竹村和吉(菊田一夫・久保明・演)の所へ上がりこみ、長火鉢を前にしてそっとつぶやくひとり言。これは絶品だった。この好演が契機となって、今に続く森光子の「放浪記」の舞台が誕生した。中山千夏ちゃんの名子役ぶりとともに忘れられない。

海老原君は、NHKの「事件記者」にちょい役ながら出演したり、その頃から多くなった外国映画の声の吹き替え(アテレコ)にも出演するようになった。ただ、野球とか、前回まで書いてきた浅草の風物や寄席などにはどうしても馴染んでもらえなかった。むしろマルセル・マルソーやイヴモンタン、そしてコーちゃんこと越路吹雪さんのリサイタルなど、そうしたものは必ず出かけ、私はいつも同行した。

今回は大脱線してしまったが、ともに『草の花』を愛し、青春の哀歓を分かち合ったこのかけがえのない友との衝撃的な別れは、次回に詳しく書かせていただくとして、この辺で筆を置くことにする。

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