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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(10)

青春小説『草の花』と海老原三夫君のこと(下)

運命の国鉄・三河島事故

昭和37年5月3日午後9時35分、常磐線三河島駅構内で、線路脇の砂利山に下り貨物列車が機関士の信号無視のため接触し脱線、並行して走ってきた下り取手行き電車がこの貨車に追突して前部1両が脱線して斜めになった。

ところが、電車の乗客が線路に降りて、高架線の狭い土手の上を列となって三河島駅へ歩きはじめたところへ、今度は反対側から来た上り上野行きの電車が猛烈なスピードで人々をはね飛ばしながら下り電車に衝突した。

このため、上り電車も前部の5両が脱線、うち3両は約10メートル余りの土手の上から横倒しとなり、2階建て倉庫の屋根をぶち抜いた。この三重衝突により死者160人、重軽傷者325人の大惨事となった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

その夜私は、幼少の頃より私を溺愛してくれた祖父の看病に夜を徹しており、そうした夜もすでに数夜を迎えていた。知人の結婚式に出席した海老原君から、「これから帰るんだけど、今夜も逢えない?」と電話が入ったのが8時頃だった。祖父の看病のため、私達はめずらしく3日程逢っていなかった。

午後11時頃、師の小松崎茂先生から電話が入り、「三ちゃんが死んだぞ! テレビ見てないのかぃっ?」と興奮して連絡してきた。

祖父の枕元に座し、下(しも)の世話に追われていた私は、テレビどころではなく、しかもほんの少し前、直接電話で話していたので、何が何だか分からなかった。

テレビでは、生々しい大惨事の中継が放映されていて、身元不明の遺体が多く、犠牲者の数は見当がつかないとリポーターが声を上ずらせて報じていた。

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スペース 海老原君と3人で

▲右から海老原君、姫さん、筆者(昭和33年、墨田公園で)

身元が確認できた彼の名前が、わりと早い時刻に放送されたのは、惨状の中、よほど分かりやすい場所に遺体があったためのように思われる。

「千枝子」に想い重ね

実家の旅館業では女手が不足していて、夜は彼が代行していることが多かった。俳優業とのジレンマに生活も少し荒れ気味になっていた。

そんな彼に、結婚相手は海老原三夫(旅館業)として探すのか、あるいは海老原滋(俳優)の方か−−こんな私からの言葉も彼のプレッシャーになっていたかもしれない。

あの夜も早く帰宅して女中業をやらねばと飛び乗った電車が不幸を招いてしまった。私達は各々の結婚についてよく話し合った。そして理想の女性として話が帰結するのが、いつも『草の花』のヒロイン藤木千枝子だった。《彼女の断髪の髪がさらさらと僕の頬に触れた。乳房が一層温かく、僕の手の中に盛り上がった》…《花を潰しちゃ駄目よ》…《あたしのお乳、こんなに小さいのよ、と小さな声で千枝子が言った》

こうした主人公の汐見と千枝子の美しい情景に、若き日の私達は、読み返しては、その度に心をときめかせた。

千枝子が実在の女性のように夢想され、私達は完全に千枝子に恋をした。作中の汐見は《藤木、と僕は心の中で呼びかけた。藤木、君は僕を愛してはくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してはくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう…》そうつぶやく。

私達は、汐見のやるせない心情に胸をあつくし、その絶望的な孤独感に胸を震わせた…。

前回にも記したが、映画監督の大林宣彦氏が『草の花』に出会ったのは十六、七歳の頃だそうで、「これは僕のために書かれた小説だ」−とまで思い込んだという。

大林氏は、大学入学のために上京したその日のうちに、藤木千枝子の家があった大森に向かったという。理由は、千枝子の「不在」を確認するためで、夢見る頃を許された郷里尾道での少年時代には「千枝子はある意味、実在していた」と記し、「不在」を確かめることで、大人への一歩を踏み出したのだった−−と熱い想いを綴っている。

同様に先年急逝した作家で演出家の久世光彦氏も−「『草の花』は、昭和29年の発表時に読んだものだったから、自分の中に流れる血が『草の花』の色にしばらく染められたように感じたのを、鮮やかに思い出すことができる。私は18歳だった」と記し、また、「この小説のエピグラムには、『聖書』から、《人はみな草のごとく、その光栄は草の花の如し》という一節が引用されている。18歳にとっては、甘い溜息を洩らしてしまいそうな果実の香りである」という書き出しに始まって、切々と青春時代の真情を吐露している。

実は一昨年秋、私は筑摩書房より、『小松崎茂・昭和の東京』という文庫本を上梓した。その折り、久世光彦氏から長文のすばらしい書評をいただいた。勿論面識もなかったが、同じ時代を生き、特に『草の花』について同様の感慨を抱いた同志として、勝手に親近感を持っていたので、書評は本当に嬉しく読ませていただいた。早速、『草の花』にも触れたお礼状を認(したた)めたが、その直後に急逝したという訃報に接した。ご縁がなかったといえばそれまでだが、残念でたまらない一事である。

『草の花』とともに眠る

話を再び5月3日の夜に戻す。晴天の霹靂(へきれき)とはまさにこのことで、私はただぼう然自失。兄弟子の岩井川峻一に続き、またもや大切な友を突然奪いさられてしまい、悲しみの極みを味わった。とにかく無我夢中だった。

まるで早く別れることを予感していたように、彼は人を恋しがり、お互いに忙しくなりつつあったはずなのに、可能な限り逢っていた。

一日中、一緒に過ごして帰宅したばかりなのに、電話で「来ない?」と呼び戻され、別棟の彼の部屋で夜を更かしたことも数知れなかった。

そんな訳で、彼の家では何処に何がしまってあるかも、私以外家族には全く分からず、病床の祖父と彼の家とを、その夜以来何回往復したか知れない。

鉄道事故なので、むごたらしい遺体との対面も覚悟していたが、頭部の白包帯は痛々しかったが、顔は傷ひとつない美しいままだった。その顔を見たら、口惜しさと悲しみで、私は人前もかまわず、涙を流しつづけた。

劇団四季の若手による公演が、六本木の俳優座劇場で上演されたことがあった。

本シリーズにも登場したSKDの姫ゆり子さんと同行したが、「SKDの姫ちゃんが来てくれたっ!」−−姫さんと私とで楽屋へ立ち寄った時の仲間を呼び集めての彼のはしゃぎようったらなかった。

フランス映画の「肉体の悪魔」に魅せられ、二人してフランス語に堪能な友人を介して出したファンレターに、主演したジェラール・フィリップと、ミシュリーヌ・プレールから思いがけずサイン入りの写真と返信が届き、驚喜した日もなつかしく思い出される。

私の名も記された2枚の写真は、いつも彼の部屋に大事に飾られてあった。

彼の母君は、旅館の女将として気丈な人だったが、27歳で結婚もせずに早世した息子を荼毘(だび)に付すのを拒(こば)み、土葬で葬ることになった。私は出棺の際、二人の間を何回も往復した『草の花』の初版本と、前出のジェラール・フィリップ、ミシュリーヌ・プレールの写真二葉をそっと彼に抱かせた。

もうあの日から45年の歳月が流れてしまった。まさに、還らざる青春の日々で、彼は流山市広寿寺の墓地に静かに眠っている。

昭和38年11月9日付けの読売新聞に、2年前(昭和36年)の秋に上野の文化会館で共演して親しくなったイタリア歌劇団のオペラ歌手ジョルジョ・オネスティさんが来日を機に、彼の墓参をしてくれた記事が、写真入りで掲載された。私の手もとに切り抜いて今も大切に保存している。

『草の花』についての久世光彦氏の文は、「…いま私は、そんな時代の自分を甘かったとはちっとも思わない。知的であろうとすることが、実人生の中で脆弱(ぜいじゃく)だとも考えない。感傷の沼に引き込まれたいと希(ねが)うことこそ、生きている証(あかし)だとさえ思いたい」という言葉で結ばれている。

『草の花』は私にとって、青春の書であるばかりでなく、若くして逝った友二人への鎮魂(レクイエム)の書にもなっているのである。

ちなみに、祖父は海老原君の葬儀のあと、5月19日に「有り難うよ」と笑みを残して、大往生をとげた。そうしてテレビ番組「本と出会う」は、懐かしくも悲しいビデオテープとなって、私の手もとに残された。