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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(13)

「激動期育ちの会」の画家達(下)


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

少年雑誌界の王者・山川惣治

俳優花沢徳衛さんのお勧めで、私が諸先生の中で、たった一人の昭和生まれとして〈激動期育ちの会〉に加えていただいたのと前後して山川惣治先生も会に出品するようになった。

戦後、焦土の中からいち早く蘇生した出版界。その中の少年雑誌では、「絵物語」という新形式の作品を掲載し、飢餓の中で娯楽にも飢えていた少年たちを熱狂させ、大ブームとなった(以下、敬称を略させていただく)。

戦争が終わって、それまでの抑制からの解放によるすさまじいエネルギーの噴出が、ごった煮の魅力となって少年少女雑誌を彩ったが、その中で大きく羽ばたいて、真っ先に主役の座についたのが山川惣治であった。

敗戦で打ちひしがれた少年たちにとって、山川惣治作品の「少年王者」の主人公・牧村真吾の雄叫びは、飢えで苦しむ当時の子供たちの胸に雷のごとく轟いた。

昭和22年12月、紙芝居で人気のあった「少年王者」が集英社から単行本絵物語で刊行され、24年の段階で50万部(『週刊朝日』24年4月24日)も売れて、空前のベストセラーとなった。ちなみに、集英社という名称は戦前から小学館内にあって、エンターテインメントを出していたが、「少年王者」の大ヒットを基に、昭和24年7月19日、正式に発足。9月に雑誌『おもしろブック』を創刊する。

全員で7人の会社。『おもしろブック』は4人で始めたそうだが、柱は一も二もなく山川惣治の「少年王者」が選ばれ、創刊号(78頁、70円)には〈これまでのあらすじ〉が載り、『おもしろブック』を一気に人気雑誌に押し上げ、集英社の土台を築き上げた。

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『おもしろブック』(集英社)に掲載された「少年王者」

▲『おもしろブック』(集英社)に掲載された「少年王者」

 

終戦1か月前の『少年倶楽部』(講談社)の表紙(右)と裏表紙

▲終戦1か月前の『少年倶楽部』(講談社)の表紙(右)と裏表紙

『おもしろブック』は後に『少年ブック』と改称され、時を経て週刊誌時代に突入して『少年ジャンプ』となる。山川はまさにそのルーツとして当時の少年雑誌界の王者となった。

「少年王者」の大ヒットの後、昭和26年には産業経済新聞に「少年ケニヤ」を連載。新聞界にまで冒険絵物語ブームを広げ、この連載も大好評で昭和30年秋まで続き、低調であえいでいた〈サンケイ新聞〉を窮地から救った。それは当時「ケニヤ新聞」と呼ばれるほどの人気であった。

余談だが、「少年王者」で山川は高額な印税を得たので、雑司ヶ谷の古い家を引き払って文京区駒込林町の高台に邸宅を買ったが、人はその家を陰で「ゴリラ御殿」と呼んでいた。更に後の「少年ケニヤ」で得た収入によって、「ケニヤ御殿」を神楽坂の丘の上に造って移り住み、画家としてより実業家と呼んでいいような生活ぶりであった(この豪邸に私は何回か伺っている)。

 

山川惣治(右下)と筆者(中)

▲山川惣治(右下)と筆者(中)

 

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少年王者と少年ケニヤ

山川惣治は明治41年、福島県郡山市久保田に「山川屋」という大きな和菓子屋の三人兄弟の次男として生まれている。

父が生糸相場で失敗し、上京。明治44年に母が亡くなり、祖母に可愛がられて育てられたという。昭和8年「そうじ映画社」を設立。本格的に紙芝居の制作を開始。日大芸術学部美術科へ通い、本格的に絵の勉強に取り組んでいる。文部省主催の日本紙芝居コンクールに出品した「勇犬軍人号」が一位に選ばれ、紙芝居界のスターとなった山川は、昭和14年5月号の『少年倶楽部』に動物画集という二色刷りの口絵でデビュー。その後「宣撫の勇士」(7月号)、「白熊と老土人」(夏休み増刊号)、「幻の兄」(10月号)、「ノモンハンの若鷲」(11月号)、「われらの大地」(12月号)など、これらを誌上紙芝居として発表している。

この〈誌上紙芝居〉は文字通り子供たちの路地裏文化ともいうべき、当時人気絶頂の〈紙芝居〉をそっくり雑誌に載せたようなもので、このスタイルが冒頭に記したように〈絵物語〉として、戦後の少年雑誌上に開花することになる。

その後も各誌に作品を発表。戦局が激しくなるにつれて、次第に戦時色の濃い挿絵も手がけ、37歳で終戦を迎えている。

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「少年王者」が大ヒットしたのは、克明な骨太の絵と雄大な物語構成とがマッチしていたからで、終戦後の明日をも知れぬ絶望の時代を生きた少年たちに大きな希望と勇気を与えた。「少年王者」が当時の子供たちにとって新しい時代の英雄であるとするならば、山川惣治は、紙芝居時代の仲間はもとより、子供向けの大衆的な物語を作るすべての作家にとっての英雄だった。教育者を自称し、児童文学者を自称する人たちの多くは、大正中期以来、作品個々の内容や表現も検討せずに大衆的であるがゆえに低俗だと決めつけてきた。その低俗の人気の前に、上品に気取っていた人たちの雑誌が壊滅したのである。これは紙芝居作家として低く見られていた画家たちのコンプレックスを救う大きな力にもなった。

紙芝居画家出身の山川惣治の出版界での成功は、白土三平、水木しげる、武内つなよし、小島剛夕…といった同業者の励みとなり、山川に続いてその後のマンガ、劇画時代に各々異色作品を引っさげての登場となるのである。その後山川は、少年雑誌界の帝王として、各誌に絵物語を数多く連載。昭和29年には年間所得(全国)の画家部門でトップにもなっている。しかし、昭和30年代に入り、〈絵物語〉は、手塚治虫を筆頭とする戦後マンガ世代の台頭で、一挙に凋落の運命をたどることになる。

絵物語時代の終えん

出版界は山川を忘れようとしだし、山川は昭和42年に自らタイガー書房を設立し、自作の絵物語を中心とした少年誌『ワイルド』を出版したが、時流には勝てず、17巻をもって廃刊となった。横浜に開いたレストランも失敗。晩年の山川は不遇といっていい時を過ごした。その後、「少年ケニヤ」の復活、新作「十三妹」の連載と花は再び咲き始めた感もあったが、かっての絵物語の全盛時代の日々は二度と帰ってはこなかった。

激動期育ちの会の頃は、大きな辛苦のトンネルから脱し、淡々とした素敵な好々爺という風貌を有し、私も随分と親しくさせていただいた。

平成4年夏の一日、私は偶然、山川惣治と銀座でばったり出会った。ちょっと足元がふらついていたので、上野の京成電車の駅までお送りすることにした。少し前、好枝夫人から、「お父さん先日倒れたのよ。一緒の時は気を付けてあげてね」―と耳打ちされていたからである。

途中、神田の「藪」で好物のそばを二人して食べ、楽しく語り合ったのが最後となった。

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スペース 84歳の山川惣治が亡くなる半年前に小松崎茂に贈った絵

▲84歳の山川惣治が亡くなる半年前に小松崎茂に贈った絵

平成4年12月17日午前1時27分、心不全のため、千葉県八千代市の病院で死去。84歳だった。佐倉市宮ノ台会館の通夜に私も師の小松崎茂とともに参列した。小松崎茂は7つ年上の山川を「山川先生」と呼び、山川は「小松ちゃん」と呼び返し、二人は親しい友として、また、ライバルとして戦時中から親交を重ねてきた。

その夜は吐く息も凍るような寒い夜だった。「ああ、これで絵物語時代が終わった…」。小松崎茂が長い長いため息とともにつぶやいて星空を仰いだ姿が強く私の脳裏に焼きついている。

今回は激動期の会でご一緒し、私の心にも様々な楽しい思い出を残してくださった諸先生たちのことをもっともっと書く心づもりだったが、山川先生だけで紙数が尽きてしまった。思いは溢れるが、今回書けなかった先生方との思い出は、いずれまた機会を得られたら記させていただきたく思っている。最後に―私の手元に珍しい雑誌が一冊残っている。雑誌とも呼べぬような粗末な紙を折りたたんだだけのもので、これは『少年倶楽部』昭和20年7月号(32頁・35銭)―終戦の前の月発行のもので、これが戦前最後の『少年倶楽部』である。あの切迫した非常時の中で、こうした出版が続いていたことに驚嘆を禁じえないが、この雑誌の裏表紙には山川惣治のカットとともに、「敵陣をふっとばす手榴弾」とあり、近づく本土決戦に備えて手榴弾の投げ方が解説されている。

終戦記念日も過ぎ、毎日暑い日が続いている。あの日から62年―この季節、疎開っ子世代の私たちにしても、戦争の影は引きずったままで、ふと昭和の日々にどうしても思いを馳せることが多い…。

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