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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(14)

おのざわさんいちが昭和に見たもの


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

二回にわたって、「激動期育ちの会」に出品していた画家について書いて来たが、前回にも記したように、私にとっては、みんな大先輩ばかりで、その個性的なお一人、お一人を挙げたらいくら紙数があっても足りない。その上、毎年会に訪れて下さった方も、たとえばプラモデルの田宮俊作社長をはじめ、『少年ジャンプ』初代編集長で当時は集英社の専務取締役だった長野規氏。その他Pプロの社長で、「宇宙猿人ゴリ」とか「快傑ライオン丸」など多くのテレビ番組を世に送り出した漫画家のうしおそうじ氏…等々、お客様も文字通り多士済々。会期中は、毎年楽しく賑やかな一週間を送って来た。今回はその中のお一人を取りあげさせていただくことにする。

おのざわさんいち(本名は小野沢杉一)さん。忘れられない大好きな画家のお一人だった。「激動期育ちの会」が銀座で開かれていた頃、会期は異なるが同じく銀座8丁目の「地球堂ギャラリー」で「戦争展」という展覧会が毎年夏に開かれていた。出品者は漫画家の方が多かったが、かつての戦いの日々を回顧してその思いを描いた展覧会で、おのざわさんも毎年この展覧会に出品していた。

何年位前だったろうか、おのざわさんが出品した絵は、空襲の煙にまかれて逃げ惑う群衆を描いた横長の絵で、題名はたしか「忘れてたまるか」というものだったと記憶する。後に記すもう一枚の絵とともに私にとっては胸をえぐられるような絵であった。

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日本のストリップショーの幕あけ。復員服姿の男達が群がっている

▲日本のストリップショーの幕あけ。復員服姿の男達が群がっている

おのざわさんはいつもにこにこ温かい笑顔を絶やさないすばらしいお人だったが、御本人も兵役に従事し、中支各地を転戦した経験があり、徹底した反戦論者でもあった。

大正6年、小石川に生まれたおのざわさんは川端画学校洋画部で学び、その後、応召されて麻布三連隊に入隊。前記のように戦地での経験を経て、昭和15年満期除隊となって帰京している。敗戦時、焼跡の住居の防空壕で、進駐軍の用務員募集をラジオで知って応募。陸軍中野学校に進駐した米軍720MP大隊C中隊要員として働き、2年後、漫画家生活に入った。

おのざわさんの画業生活の中で特筆すべきことは、戦後50有余年にわたり、ライフワークとして描き続けたストリップの世界の記録で、そのメッカともいうべき東京浅草のみならず全国津々浦々の劇場を巡り、風俗画家の視点から、戦後日本社会の裏側をひたすたら描き続けた。

私は古くからそのお名前と雑誌で紹介された作品の一部を見てカルチャーショックを受けていたが、「激動期育ちの会」でお目にかかってそのお人柄に接し、名実ともに大ファンとなってしまった。私ははなはだ浅学で、おのざわさんと対等に語り合えるほどの知識とて持ち合わせてはいなかったが、それでも往時の踊り子の思い出話で4時間ぐらい夢中でしゃべり合ったことが何回かあった。ある時は帰りしなに「久々に浅草待子のオッパイを思いだした。いやー今日は楽しかった!」といってにこっと笑顔を見せて帰って行った姿が忘れられない。

 

ありし日のおのざわさんいちさん(自宅のアトリエで)

▲ありし日のおのざわさんいちさん(自宅のアトリエで)

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「ストリップ」にかけた情熱

後年、新松戸に開館した昭和ロマン館で、私は何とか「おのざわさんいち展」を開きたいものと機会を伺っていた。

「空襲とかストリップとか、売れない絵ばっかり夢中で描いて来た一生でしたよ…」。明るく朗らかに笑いながら話してくれる、とし子夫人の御盡(じん)力を得て、私の夢は昭和ロマン館で実現された。当時の昭和ロマン館は6室あったので、その4室をおのざわさんの「ストリップ讃歌」で埋めつくした。

復員服姿の男たちが群がる「額縁ショー」と呼ばれた時代から、様変わりした現代のショーまでリアルタッチの絵から、大胆にデフォルメされた画面まで、それはまさに昭和大衆文化史の貴重な記録画であり、展示しながらその質と量に、私は圧倒されっ放しだった。

そしてもし御存命だったら、どんなに喜んで下さったろうと、とし子夫人とも話し合った。

舞台の情景だけでなく、「土湯温泉のヌード劇場の朝」という絵はランドセルを背負った小学生の女の子が踊り子のお母さんに劇場の入り口で何か言われていて、友達の女の子がスキップしながら待っているという、これは昭和48年の作だが、何だかこの場末の劇場を描いた一枚からも、そこはかとない哀愁が伝わって来て胸がキュンとなる。

舞台や客席、楽屋風景にしても、生で見て来た人にしか描けない仕草が多く、思わずくすくすと笑ってしまう作品が多い。おのざわさんはそれらをきっちりと画筆でキャッチしている。

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晩年のおのざわさんに「今のストリップは情感もなくあからさま過ぎてつまんなくなったでしょう」―と半ば同意を促すように話すと、思いがけず、「いやぁ、それなりに面白いもんですよ」―と肯定的な笑顔が返って来て、はっとしたことがあった。そして私はあることに気がついた。50年以上もストリップ劇場へ通いつめたおのざわさんの真の興味は、「女の裸」そのものよりも、それに群がる男たちの哀しい性(さが)を描きたかったのではないか―そう伝えると、おのざわさんは満足げに何回も何回も嬉しそうに頷(うなず)いてくれた。

あらためて画集を一枚一枚めくってみると、男たちの客席が実に見事に活写されていて、おかしくも切なく、また愛(かな)しい男達が細かく描かれている。

おのざわさんはこの一連の作品で、昭和58年「第12回日本漫画家協会賞大賞」を受賞しているが、当時漫画界の最長老だった杉浦幸雄先生(「夢みるはな子さん」「アトミックのおぼん」他、平成16年6月18日没。93歳)は、おのざわさんとも親しく、「飽きもせず半世紀以上もストリップ劇場へ通ったおのざわさんの情熱にも脱帽するが、その度に笑顔で送り出していたとし子夫人が偉い! これはなかなか出来るもんじゃありませんよ」、そしてまた「おのざわさんは日本のロートレックです」―と。最晩年の杉浦先生から私も直接伺っている。

生涯描き続けた昭和の残照

おのざわさんは昭和53年「絵本・東京大空襲」を描いた。還暦を過ぎたばかりの頃だった。現在この中の原画の何枚かが、江東区北砂の「東京大空襲・戦災資料センター」に寄贈され、展示されている。

特別展示されているおのざわさんの絵で忘れられないもう一枚の絵がある。

隅田川の上空にぽっかり浮かんだ雲の上に、戦災で亡くなった多くの子供たちが、防空頭巾をつけた姿のまま、下界をのぞき見ている図で、大きく様変わりした浅草の繁栄を眺めているのだが、胸が痛くなるような作品である。いつだったか、テレビでこの絵を紹介していた山本晋也カントクが、目を真っ赤にして絶句していた姿を今思い出した。

平成12年8月30日午後3時1分、急性肺炎のため、おのざわさんは不帰の人となった。

亡くなる一週間くらい前までは絵筆を揮(ふる)っていたという。

引退した浅草駒太夫さんとも親しく、最後まで浅草を愛し、なつかしんでいたという。

 

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スペース 出を待つ浅草駒太夫(新潟巡業)。おのざわさんは全国の劇場を歩いて作品を描いた

▲出を待つ浅草駒太夫(新潟巡業)。おのざわさんは全国の劇場を歩いて作品を描いた

今、浅草六区に当時の活気を見出すことはできない。浅草駒太夫さんはかつて浅草フランス座の看板ストリッパーで、故・一条さゆりさん、故・桐かおるさんと並んで、昭和40年代以降には「ヌード界の御三家」とも称せられて来た。他にも、マリアマリ、若草ユリ、水城マリ、浅草待子、ハニー・ロイ、エミー高原、小松竜子…おのざわさんとの思い出話はなかなかつきなかった。

これらの舞台の幕間にコント出演していた由利徹、八波むと志、南利明、渥美清、池信一、長門勇、石田瑛二、谷幹一、関敬六、海野かつを、東八郎、阿部昇二、萩本欽一、坂上二郎、深見千三郎、そしてビートたけしなど数え切れない名コメディアンが誕生したのは周知の通りである。

もっともっと、おのざわさんと戦後の浅草について語り合いたかった。

「背こそ低めだったけど丈夫で頑丈な人でしたよ」。とし子夫人がなつかしそうに話してくれる。も一度逢いたい。そう、あのおのざわさんの温かい笑顔に、も一度逢いたいなァと思う。もういちど…。

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