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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(15)

現代に生きる剣聖・大竹利典健之


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

さて、私のお墓は

「人間の一生は邂逅めぐりあひである」

たしか川端康成の書いた一文に、こんな文章があったように記憶する。

同時に、「サヨナラだけが人生だ」と言った人もいた。出会いと別れのくり返し――実に人生とは、表題通りの『一期一会』の世界である。古稀を過ぎてみると、高齢化社会を迎えたとはいえ、〈あちら〉の方へ行ってしまう方のお見送りも、ちらほら多くなった。そうした一方で、思いがけぬ人と知己になり、親交することもある。まさに人生いろいろ。一度しかない人生であってみれば、どうしても『縁』とか『運命』とか、人知では測り知れない事柄に思いが行ってしまう。

亡くなった人の死に様(ざま)、生き様に関心を持つのも当然のことである。友人の一人に有名人の墓所巡りを趣味としている人がいるが、その気持ちも半分位は理解出来る。

ところで、私事にわたって恐縮だが、私の家の墓地は豊島区駒込の都営染井霊園にある。

都営といっても、八柱霊園のような広大なものではなく、都営霊園の中では最も規模が小さいそうで、私は祖父の代からの三代目を継承している。この辺りは、御存知の方も多いと思うが江戸時代植木屋さんが多かったそうで、今全国に広がっている桜の品種『染井よしの』発祥の地としても知られている。

染井墓地は明治7年に開設され、東京市に移管され、昭和10年5月に「染井霊園」と改められ現在に至っている。

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宗家道場での大竹先生の居合術の演武

▲宗家道場での大竹先生の居合術の演武(昭和58年)

かつては付近に寺も多かったらしく、現在でも染井霊園の周囲にある寺として、本妙寺(遠山金四郎、千葉周作、本因坊歴代他)、慈眼寺(芥川龍之介、也寸志、比呂志、谷崎潤一郎、小林平八郎、司馬江漢他)、勝林寺(田沼意次他)、蓮華寺(夏目成美他)等々、巣鴨駅から10分程の近さなのに、緑もあり、静かな区域である。

私の家の墓地の一角にも、音楽評論家の大田黒元雄、日本画家の梶田半古(前田青邨の師)、伊藤道郎(舞踊家)、高村光雲、光太郎、智恵子、下岡蓮杖(わが国写真術の先駆者)、すぐ近くには、岡倉天心、巌本真理(ヴァイオリン奏者)等々錚々(そうそう)たる方の墓所が点在し、こうしてみると、友人の墓所巡りの趣味も理解できようというものである。

さて私の家の墓地は巣鴨から駒込へと霊園を縦断するいわばメインストリートに面しており、場所だけはこの上ない立地条件に恵まれている。戦災により無縁仏が激増。区画整理には50年もの歳月を要したというが、そのお陰で、私の家の墓地は、縮小された家もある中で以前の約2倍の広さになり、管理事務所の人から「ラッキーな方ですネ」と言われた。平成12年は亡母の3回忌と、亡妻の13回忌が重なった年だった。霊園の区画整理も終わり、やっと墓所の改修も許可されたばかりだったが、私は新しい家を建築したばかりで、墓石を建て直したくても余裕がなかった。

 

昭和59年にオランダで行われた招待演武

▲昭和59年にオランダで行われた招待演武での大竹先生(右)と次男・重利さん

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天真正伝香取神道流の師範

そんなある日、「筑波の石屋だけんど、墓に案内してください」という電話が入った。

まったく寝耳に水で最初は近頃多いその種の宣伝かと思ったが、「大竹先生の紹介で―」ということで、またびっくり。何はともあれということで巣鴨駅で石屋さんと待ち合わせをすることになった。

大竹利典健之(りすけたけゆき)―天真正伝香取神道流の師範として、知る人ぞ知る現代の剣豪である。

昭和35年、香取神道流が千葉県無形文化財に指定された際に、その保持者として指名されると同時に当流最高位の伝授「極意総伝」を受け、現代の師範に任ぜられた。

香取神道流は、飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)公を流祖とし、連綿600年にわたる歴史を有している。

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日本に於ける最古の剣術流派として知られ、長い歴史の中で、私達が歴史、小説または映画演劇に登場するあらゆる剣術の流派のルーツともいうべき存在なのである。

私の古くからの親しい知人である崎本平一郎氏(船橋市在住)は大竹先生の高弟であり、崎本氏を通じ冒頭に記したように不思議なご縁で知己を得て、私の家の墓石の再建にお力添えをいただいたという次第である。

大竹先生は特に父母への孝養心に篤く、面映いことではあるが私自身妻を失って以来10年近い日々を主夫として、家事一切を背負って両親と息子2人の面倒を見て過ごしたという、そんなごく当たり前の事実を過大に評価して下さり御芳情をいただいたということである。

最近上梓された『香取神道流』という書の巻末には付録として「仏説・父母恩重経」というすばらしい一文が載っているが、紙数の関係でここに記せないことが大変残念でならない。

大竹先生は師範に任命されて以来、その責任を果たすため昭和39年に神武館道場を開門。数百人の門人に600年にわたり受け継がれて来た香取神道流の道統の心技を正確に伝承することに努めながら、昭和52年には『無形文化財香取神道流』を著し、昭和62年に流祖生誕600年記念祭を開催。また香取神道流を紹介する無数の国内外での演武、テレビ出演・雑誌取材や映画・テレビ(「雨あがる」、「阿弥陀堂だより」、「蝉しぐれ」他)の武術指導等に応じ、現代社会における古武道・天真正伝香取神道流に対する理解向上に努めている。

その傍ら、約30年にわたり、文化庁の委嘱により、千葉県銃砲刀剣類登録審査員を任命され、それらの功績により、文部省地域功績の表彰や旭日双光章などを受章している。現在は外国人の入門者も多く、成田にある神武館道場は活況を呈している。私も何度か道場見学に赴いているが、日頃忘れかけている日本人としての血が甦る思いできゅっと身のひきしまる感にとらわれる。

大竹先生夫妻は本当に素朴で温かいお人柄で、先頃も前出の崎本氏と同行し、美味しい『うなぎ屋』でご馳走になった。

香取神道流の奥義は宗教にも通じ、またその武術の中には、剣術、槍術、棒術等武技の他にも築城学や易学、忍術まで含まれていることにも驚かされた。

大竹利典健之―まさに現世に生きる剣豪である。さてその大竹先生のお口添えもあり、思いがけず私の家の墓所も立派に完成することが出来た。友人がせっかくだから自分の名も刻み、この際戒名もつけてしまったら―と言うので、早速浅草で罹災し、今は多摩へ移っている私の家のお寺さんに連絡。ご住職も快諾してくれて、墓所の完成とともにわたしの戒名も墓誌の最後に刻み込んでもらった。

人の縁の不思議

数年前、所用で四国の高松へ出掛けた折、『チンコロ姐ちゃん』で知られるマンガ家の富永一朗さんと一緒になった。夕食の折富永さんが、「もう私は墓を作ってしまった。面白い型の墓だよ。家の寺は『いれずみ判官』の遠山金四郎の墓もある!」と自慢していたので、それは前に記したように染井霊園に隣接する本妙寺に違いないと思い、「本妙寺ですか?」と問うと、目をまるくして驚いていた。

今回は『縁』ということで稿を書き始めたが、大竹先生から紹介された石屋さんが茨城県真壁の人で、真壁は師の小松崎茂先生の父方の故郷で、数年前その縁で真壁町歴史民俗博物館で『小松崎茂展』が開かれた(その後真壁は、桜川市真壁町となった)。小松崎家の菩提寺の常永寺という寺で、ご住職と私との講演会も開かれた。

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スペース 筆者は大竹先生の叙勲記念に源平の合戦で活躍した那須与一の絵を贈った

▲筆者(左)は大竹先生の叙勲記念に源平の合戦で活躍した那須与一の絵を贈った。大竹家は源氏の流れをくむ

そしてもうひとつ。小松崎先生は終戦直後の一時期この染井霊園のすぐ下にある勝林寺(前出)の斜め前に移り住み、焦土の中から復興した出版界にあって、少年雑誌界での活躍が軌道に乗り始めた頃で、昭和23年から26年3月までの焼け跡時代を此の地に住んだ(その後柏へ転居)。私自身この頃はまだ中学生で、先生に師事する以前の話だが、その頃の小松崎家の様々な人間関係が、後年私の人生にも色々と関わってくるのだから、縁の糸というものは実に不思議なものである。

今回は墓地のことなど書き連ね、少々しめっぽい稿になってしまった。

先程ちょっと玄関のドアを開くと濃密な金木犀の甘い香りが静かに流れ込んで来た。猛暑が続いた今年の夏も、さて過ぎてみると一抹の淋しさを感じる。ふと、『身にしむや亡妻(なきつま)の櫛を閨(ねや)に踏む』という与謝蕪村の句が頭を過(よ)ぎった。

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