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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(16)

作家たちのささめき(上)


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

前回の続きのようになってしまうが、豊島区駒込の染井霊園の下の辺りに、勝林寺という寺がある。道も狭く静かな一角だが、その斜め前あたりに師の小松崎茂先生が、昭和23年頃から昭和26年春まで住んでいた(26年3月に千葉県柏市へ転居)。この家は当時の状態を残して今も現存している。

昭和23年−周囲は未だ戦災の傷跡が生々しく残る焼け跡が広がっていた。

勝林寺も例外ではなく、戦災で焼失。当時はバラック暮らしだった(昭和28年に現在の本堂は再建されている)。さて、小松崎先生の方は、折からの出版ブームに乗って仕事も急増。稼ぎも多くなったので、急遽新築した家だったが、現在残っている家を見ると、小さいながら外壁はモルタル塗りで、当時としては、随分と周囲から羨(うらや)ましく思われたことと想像される。本シリーズ第1部の「小松崎茂と私」で詳述したので、ここでは詳細を省くが、男ばかりの居候が大勢集まっていたので、先生の姉・富美子さんは闇屋4軒と契約(?)。とにかく食べるものだけは確保したという。

戦前からずっと編集者として、小松崎先生の挿絵画家デビューから、山海堂発行の雑誌『機械化』時代まで小松崎先生と深い交流を続けてきた志村秀太郎氏(現在静岡県袋井市在住)一家が住まいに困っていたので、小松崎先生は敷地に続く土地を紹介し、志村氏はそこにこれもバラック建ての家を建てた。敷地16坪、建坪6坪という小屋で辺りは一面の焼け野原。「太陽の恵みだけは十分すぎるほどだった」と志村氏の思い出にある。

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駒込に現在も残る小松崎茂の旧居と弟さん夫婦

▲駒込に現在も残る小松崎茂の旧居と弟さん夫婦

 

駒込の勝林寺

▲駒込の勝林寺

 

志村氏も博子夫人も本来作家志望だったので、志村家には文学志望の男女が集まるようになり、『塔』という同人誌を発行するようになった。表紙は無名時代の都竹伸政氏が描いていた。都竹氏はのちに作家・丹羽文雄氏の作品に挿絵を描き、名コンビとなって長く彩管をふるった。

時節柄、同人誌『塔』は粗末なものだったが、長い戦争から解放されて、文学を志すことに情熱を傾ける男女が集まり、その熱気は大変なものがあった。

皆一様に貧しく、飢えとの闘いに必死だった時代である。志村家へ訪れる男女は、煌々(こうこう)と明るい部屋で、大勢の男たちに囲まれ、仕事に追われている活気に満ちた南隣の小松崎家が羨ましくも妬(ねた)ましい存在として目に映った。

 

近所の葬儀の受付をする矢切時代の水上勉氏

▲近所の葬儀の受付をする矢切時代の水上勉氏(左・市広報担当室提供)

 

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小松崎茂と水上勉

その文学者の集まりの所へ、時折姿を見せたのが、志村氏とは旧知の水上勉氏であった。水上氏は当時「フライパンの歌」(昭和23年・文潮社)を世に送り、文壇の一部から注目はされたものの、その後原稿依頼はなく、苦しい生活を強いられていた。 

志村氏と水上氏は連れ立って前述の勝林寺へ出かけ、住職の窪田久猶和尚によく酒を馳走になり、寺の酒が切れると、和尚の顔で、巣鴨駅辺りの赤提灯の屋台へ連れて行かれもしたという。

実はこの勝林寺は以前駒込の蓬莱町にあったが、昭和14年の春、現在の場所へ移って来ていた。臨済宗妙心寺派の寺で、江戸時代、十代将軍・徳川家治の時に老中となり、権勢を轟かした田沼意次の墓所として知られているが、その移築を請け負ったのが、京都の宮大工小原組で、その小原組の主人は、水上氏の実父・水上覚治氏の師匠筋にあたっていた。 小原組に呼ばれて、この工事に水上氏の父−覚治氏も上京して参加したという。

背も高く、酒好きで豪放磊落(ごうほうらいらく)な窪田和尚は、本堂移築の折の水上覚治氏をよく覚えていて、その息子の水上勉氏との出会いを仏縁として、大層喜んだという。

水上氏は酔うとよく「小松崎さん、あなたは戦犯だ」となじったというが、一向に芽の出ない自分と比べ、多分に僻(ひが)みの感情があっての発言だったと思う。

10年程前、日本テレビの「たけし・さんま」の番組で、小松崎茂が取り上げられた際、番組のスタッフが水上氏自身に問い合わせたところ、水上氏から「私はゼッタイに小松崎さんにそんな失礼なことは言っていない」と強く否定され、そのことはカットして番組は作られた。しかし、志村氏の話によると水上氏は酔うと「ああいう戦犯絵描きやブルジョア画家はのさばらしておけん。おれがガソリンをかけて焼き殺してやろうか」などと息巻いたことも何回かあったという。

それにつけても、少し翳(かげ)のある水上氏のハンサムぶりは、当時文学を志す女性陣のハートをくすぐり、随分女性にはもてたそうで、ずっと後年、色々な噂も伝え聞いた。

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矢切駅前に建つ水上勉氏旧居跡の碑

▲矢切駅前に建つ水上勉氏旧居跡の碑

水上氏と志村氏、そして小松崎茂。この三者で表だった諍(いさか)いこそなかったが、各々胸の中には何やらもやもやしたものがあったのも事実である。後年、志村氏が『ある武田武士の生涯』という書を上梓した折、内輪だけの出版記念会が開かれた。たしか上野の風月堂だったか…。この折、小松崎先生のお供で私も同行して三人が顔を合わせた席に同席したが、笑顔の中にちょっと醒(さ)めたところもあり、小松崎先生も早々と帰宅してしまった。

昭和20年代の終わりころ、「姉さんにはすっかり世話になったから…」と小松崎先生は言って、水商売好きの姉・富美子さん(前出)のために、上野広小路−現在の「アブアブ」の近くの路地裏に、しゃれた小料理屋を出してあげた。私も上京の度に寄っては、食事を馳走になったが、その店で水上氏とも会っている。しかし、何せこちらは青二才。どんな話をしたかも記憶にない。

文学を愛した志村夫妻

同人誌『塔』は後に廃刊となったが、昭和30年代後半のころ、志村氏夫人・博子さんの手で女性ばかりの同人誌『木綿』として復活した。

そして、表紙と中のカット一式を私が受け持つことになった。創刊号の巻頭には、「二十四の瞳」の作者・壺井栄さんがお祝いの文を寄せてくれたのを覚えている。

志村夫妻は浦和市に転居していたが、志村氏自身十数年前に胃を全摘出。闘病生活を送ることになった。博子夫人は夫の看病を続けながら、主宰する季刊誌『木綿』を出し続けたが、何と博子夫人の方が数年前に逝去。現在は夫の志村氏が、博子夫人の遺志を継いで、病身の身で発行を続けている。

勝林寺の現在の住職・窪田知良さんとは、私も長い付き合いで、お互いに「トモちゃん、圭助さん」と呼び合う仲で、先日も箱根行きを誘われた。この寺には、先年下田で水死した太地喜和子さんの墓もあり、今も墓参に訪れる人も多いと聞くが、不思議なもので、その折、葬儀一切を陰で仕切ったのが、当時文学座の経理に籍を置いていた福谷達子さんだった。福谷さんとは、かつて劇団四季に在籍したころ、本シリーズ9・10回で書かせていただいた国電・三河島事故で散った親友・海老原三夫君の紹介で親しくなり、私も独身時代から、さっぱりとした知的なお姉さんとして随分お世話になった。今は職も離れ、御主人の看病生活の毎日だそうで、先日も久々に電話で懐かしい声を耳にした。

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スペース 絵はがきプレゼント

ところで水上氏は、昭和32年(38歳)、文京区富坂から松戸市下矢切に転居してきた。

下矢切での生活は2年1か月程だったが、洋服生地の行商などで辛うじて糊口をしのいでいたそうで、相変わらず生活は恵まれたものではなかった。

そのころ、東葛高校定時制の教師をしながら作家活動をしていた川上宗薫(そうくん)氏と親しくなり、交流するようになった。

川上宗薫氏−いや宗薫センセイ、実は、私の東葛高校時代の恩師なのである。

昭和26年春、宗薫先生は英語の教師として東葛高校へ赴任してきた。当初は定時制教師ではなかった。私が高校2年生になった新学期のことであった。

ちょうどその少し前の春休みに師の小松崎先生が柏へ移ってきたので、私は小松崎家へ入り浸りになり、学業はそっちのけで成績は急降下。そうした中での宗薫先生との出会いだった。文壇の一部では有名な話だが、水上氏と宗薫先生の確執、宗薫先生と私との交流は、次回にまた書かせていただくことにして−。

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