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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(18)

舞踊家・藤間藤人さんとの「再会」


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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

私は昭和10年2月4日、東京荒川区南千住で生まれた。2月生まれ ― つまり早生まれ組なので昭和9年生まれの人達と同級生ということになる。9年生まれには『昭和9年会』という会があるそうで、長門裕之、愛川欽也、藤村俊二、坂上二郎、玉置宏…といった賑やかなメンバーが顔を連ねている。

10年程前、町田市で玉置さんの会があり、本シリーズ2回目に書かせていただいた「九段の母」の塩まさるさんを会場までお送りしたことがあった。その日のゲストは、塩さんの他に二葉あき子さんと、「トンコ節」の久保幸江さんの3人だった。

楽屋でパイプたばこをくゆらす玉置さんは、テレビ等で見る顔とかなり印象が違って見えたが、「私も9年組の一人です」と言うと、途端に表情を和らげ、「そうですか」と親しい笑顔になった。しかし、「10年の早生まれですが…」と言うと、急に表情が変わり、「10年生まれは関係ない!」といって態度を一変されびっくりしたことがあった。

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藤間流名取りの日。右から藤間勘右衛門(先代尾上松緑・ のちに人間国宝)、藤間藤人、藤間藤子(のちに人間国宝)

▲藤間流名取りの日。右から藤間勘右衛門(先代尾上松緑・ のちに人間国宝)、藤間藤人、藤間藤子(のちに人間国宝)

 

ところで私達の学年は珍しい年まわりに生まれ合わせたもので、唯一、小学校を卒業していない人達として先日新聞のコラムに書かれていた。― というのは入学したのが昭和16年春のことで、この年4月から国民学校令が施行され、全国的に小学校が〈国民学校〉と改称された。つまり「サイタ サイタ サクラガサイタ」の時代から「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」の時代に変わったのである。

そして戦後の昭和22年の卒業時は国民学校のまま卒業しているので〈小学校〉は卒業していないという珍しい学年なのである。

戦後の22年4月、新学制の実施で、国民学校は再び『小学校』の名称にもどり、新しく六、三、三、四という学制が施行され、私たちは、新制中学1年生の1期生として新しい時代へ船出したのである。

舞台で「時雨西行」を演じる藤間藤人さん

▲舞台で「時雨西行」を演じる藤間藤人さん

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記憶の中の「幻の女」

前置きが長くなってしまった。私がその国民学校の2年生になった折、母校(区立第二瑞光国民学校)の講堂で恒例の学芸会が開かれた。演目が進み、6年生による「天の羽衣」が上演された。その折、天女役を演じたのが今回の主人公片田(当時・現在は石原)暉子(あきこ)さんだった。

下町育ちで早熟な子供だった私は、その天女役のお姉さんに魂を奪われてしまった。

そのお姉さんが私の家からは程近い能登屋という大きな薪炭問屋の末の娘さんであると祖母に教えられたが、その後、お姉さんは卒業してしまったし、太平洋戦争も激化。東京大空襲で家も罹災。私たち母子も父の実家を頼って柏へ疎開した。そして、過酷な戦中、戦後の生活のなかで、いつしかこの『幻の女(ひと)』は記憶から遠のいていた。

戦後、その御一家が北小金に疎開しているということを母から知らされ、どんなお姉さんになっていることかと北小金を通る度に気にかけていたが、それからも長い歳月が過ぎてしまった。

あれは何年ぐらい前のことだったろうか…我孫子市の『イースト情報』という地元紙に我孫子在住の藤間藤人(ふじまふじひと)さんという舞踊家が大きく紹介された。舞台姿の写真が添えられてあったが、荒川区南千住生まれという紹介記事がちょっと気になった。その頃私は請われてその『イースト情報』に小さな連載をしていたので記者の女性に何気なく「生まれが私と一緒だけど、どんな人なのだろう」と聞くと、すぐに先方の電話番号を教えてくれた。

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電話に出た藤間さんに、「私も南千住生まれですが、何丁目のお生まれですか?」と尋ねると、「5丁目です。大黒湯(現存)というお風呂屋さんと背中合わせの炭屋でした―」という答えが返って来た。私はここで絶句してしまった。生まれた土地が一緒だということで、何ということなく気軽にお電話したのだが…「もしかして、二瑞(母校名)の学芸会で『はごろも』を演じませんでしたか?」という私の問いに、今度は電話口の藤間さんが絶句―。「そ、そうです。でもどうして?」ということで、私の幼い日の思い出にぽっと灯りがともされることになった。

程なくお会いする機会を得て、私は我孫子市白山の藤間邸へ、『イースト情報』の記者さんとともにお伺いした。

幼い日のとぎれとぎれの記憶が、思いがけなくやっとひとつの糸になってつながったような思いがした。

「人間国宝」に師事

藤間さんは私より5歳年長のお姉さんで、前に記したように能登屋という大きな薪炭問屋に四男四女の末っ子として生まれている。

幼い頃から芸事が好きだった藤間さんは5歳で日本舞踊を習い始めたという。

私が「はごろも」でショックを受けた後、藤間さんは桜蔭高女に進んだが、戦災で北小金へ転居。

現在の東漸寺さんの裏手にお住まいになったそうで、敷地は7百坪もあって野菜作りもしていたという。学校も松戸高女へ移り、ここでも演劇部の部長を務めたという。

18歳で正式に藤間流藤間藤子(のちに人間国宝)に師事した。家元である藤間勘右衛門(先代尾上松緑)ものちに人間国宝になった名優である。こうした大御所に師事した藤間さんは、昭和26年21歳で藤子先生取立ての名取りとなった。結婚を機に北小金から現在の我孫子市白山に居を移したが、現在お住まいの場所も、かつては講道館の嘉納治五郎の農場跡だそうで豪壮な邸宅の2階には大きな鏡がかかった24畳ほどの稽古場がある。公認会計士として多忙だったご主人が藤間さんが仕事を持つことに反対したため、師匠として看板を揚げたのは、ご主人がお亡くなりになってからという。

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スペース 筆者(右)と藤間藤人さん

▲筆者(右)と藤間藤人さん

藤間さんと巡り会った後、我孫子市の湖扇会という日本舞踊各流派の集まりの会で、トリをつとめる藤間さんの「時雨西行」を見る機会を得た。

江口の里で雨に逢い、一夜の宿を求めた西行が目を閉じると普賢菩薩が現れ、目を開くとそこには遊女の姿。遊女と菩薩の姿を踊り分ける藤間さんの舞台に魅了された。

思えば国民学校の学芸会で「はごろも」の天女から此の度の「時雨西行」までの間には半世紀―いや60年近い歳月が流れている。

改めて人との出会いの不思議さを感じざるを得ない。先日も我孫子駅近くの小料理屋で夕食をともにしたが、美味しそうに盃を口許に運ぶ藤間さんは、京言葉の「はんなり」という言葉がぴったりの美女である。

「踊りの中で毎日恋をしているので淋しく思ったことなんてありません」ときっぱり話す藤間さんの目許から艶然とした笑みがこぼれた。その笑顔から私の脳裏には、はるか昔の戦前の街の姿や、人々との関わりなどが走馬燈のように駆けめぐった。

余談になるが、これも数年前胡美芳さんの会に招かれた際、食事をしている時突然誰かが私の肩に手をかけ、「貴方今恋をしてます?」と声をかけられた。びっくりして振り向くと声の主は二葉あき子さんで、「恋をしていなくっちゃだめよ」とにこやかに話しかけられ、私もその言葉に大いに共鳴したが、少し考えこんでしまった。その二葉さんも耳が遠くなり、歌もやめて郷里の広島へ帰ってしまった。

脱線ついでにもう少し書かせていただくと「トンコ節」の久保幸江さんとは、久保さんが私の所属する日本出版美術家連盟の忘年会に出席してくれた際、シャレで義姉弟の縁を結んだ。「根本さんのために、心をこめて『船頭可愛や』の歌を吹き込んでお送りするわ」ということで、私は今、精一杯、鼻の下と首を長くしてテープの届くのを待っている。

今年も3月10日がやってくる。藤間さんも二葉さんも、久保さんも、みんなみんなあの劫火、あの時代をくぐりぬけて生きのびて来た人たちばかりである。勿論私もその一人であり、こうした人々との出会いや別れからはある意味で無常感みたいなものを感じるとともに、私自身のちっぽけな人生に愛しさも感じたりしている。

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  昭和ロマン館地図

昭和ロマン館

入館無料。館長・根本圭助の師・小松崎茂の作品を常設展示するほか、懐かしい昭和の雑誌や挿絵などを企画展示している(本文と展示品は直接関係しませんので、ご注意を)。場所は小金清志町にある浅野工務店本社の1階。午前10時〜午後5時開館(入館は4時30分まで)。日曜・祝日休館。問い合わせは、1341・5211昭和ロマン館。