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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(21)

詩作一筋に生きた三越左千夫さん


いのち −りすとくり−

おちばの うえの/くりを ひろって/りすは しあわせ

りすの しらない/おちばの したの/くりは しあわせ

たべなければ/いきられない/たべられたら/いきられない

りすです/くりです/いのちです

詩人として、すぐれた童謡作家として、詩作一筋にその全生涯を貫いた三越左千夫さんの前掲の「いのち」という詩碑が、三越さんが生前こよなく愛した郷里−千葉県佐原市大倉側高(そばたか)の森の近くに、支持者や関係者の尽力により建てられている。平成7年3月26日に除幕式が行われたが、実弟隆治さんにより、私家版として前年(平成6)刊行された『三越左千夫全詩集』が詩碑の完成した同年6月30日に日本童謡協会賞特別賞に選ばれた。

しかしこの詩集も、遺された資料があまりにも膨大な量で整理不足による不備な点が多かったそうで、生前親交のあった国土社OBの細木二郎氏を中心に全面的に大改訂が施され、平成9年11月に、改めて『三越左千夫全詩集』として再発行された。厚さ6センチ近いこの大冊を私は座右宝としていつも大事に身近の書棚に置いている。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

酒を愛し少年のように純粋

三越さんとの出会いは私が東葛高校在学中(昭27頃)に溯る。前にも記したが、師の小松崎茂先生が柏へ移って来て、それ以来私は毎夜小松崎家へ押しかけて徹夜のおつき合いをしていた。泊まり込みで原稿を取りに来ている各社の記者連のなかで、講談社のアルバイトで藤沢君という明大生がいて、私達は親しくなった。

その藤沢君から、「近所に住んでいる三越左千夫さんという詩人が、新しい詩集を出したから買ってくれないか−」と持ちかけられた。その時の詩集が『夜の鶴』(昭29刊)で、当時練馬区小竹町にお住まいの三越さんとの知遇を得、長い長いおつき合いになった。

いやここまで書いて来て、自分の記憶にも間違いがあったことに気が付いた。三越さんと初めて会ったのは『夜の鶴』が出版されるもっと前で、紹介してくれたのは当時講談社『少年クラブ』の編集者楢橋国武氏の紹介だったことを今おぼろ気ながら思い出した。楢橋氏は当時腰塚姓で、私にとっては生涯を通しての恩人であった。三越さんと楢橋さんは詩友であり、楢橋さんは、前述の藤沢君のアルバイトのいわば雇用主という関係であった。楢橋氏は昭和20年代から40年代にかけて組合運動の激しかった時代、出版労連の委員長として約20年の長きにわたって活躍してきたので出版関係に携わったお方で、少し古い方なら、その名前を御存知のお方も数多いと思う。

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第3次「きつつき」を創刊した頃の三越左千夫さん

▲第3次「きつつき」を創刊した頃の三越左千夫さん

 

昭和ロマン館の企画についても一番お世話になった人で私の人生の大恩人でもあったが、先年惜しくも他界された。

三越さんは酒を愛し、一滴も飲めない私に対していつも「根本さんが(酒を)飲めたらなァ…」とこの言葉を何回聞かされたか判らない。しかし、それにも慣れて、私を前にしていつも独酌で酒を楽しみ、私はお茶を飲みながら、時を忘れて話し込んだ。かなり酔った折りなど、遠い日を目で追いながら昔の恋の話になったことも再三、再四あったが、いつも最後はごまかされてしまった。

少年のように純で温かいお人柄だったが、その全身からは時折ふっと寂寥(せきりょう)感みたいなものが漂って来るのが感じられた。事実、どんな過去の想いを抱いていたか、とうとう判らずじまいだったがその夢を大切にして一生独身を貫いた。

ある時三越さんから「友人の娘さんで素敵な美少女がいるから紹介したいのでぜひ一緒に出かけてみよう」と何回もしつこく誘われた。しかしその機会は逸してしまった。何年かして三越さんから、「あの娘、女優になっちゃったよ」と多少がっかりした口調でささやかれた。三越さんの親しい友というのが劇作家の栗原一登氏で、その美少女というのがのちの栗原小巻さんである。めずらしく、くどい程誘われながらお逢いするご縁に恵まれなかった話だが、もちろんこの話、栗原小巻さん自身は全然知らない話である。

三越さんは、叙情的な作風の詩と童謡で知られ、読売新聞の夕刊紙上では、長く童謡の連載を続け、児童詩の選者も務めた。

『キンダーブック』『母のくに』をはじめとする幼児関係の雑誌への執筆も多く、気に入った作品が出来るとよく私にも送って下さった。校歌や園歌等も沢山手がけている。

著者の手許に残る三越さん主宰または関係した同人誌など

▲著者の手許に残る三越さん主宰または関係した同人誌など

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戦場でも詩心を失わず

大正5年三越さんは佐原で生を受けた。

昭和13年(22歳)7月6日応召。陸軍野戦重砲兵第三連隊の補充隊に入隊。12月に中支戦線へ配属されたが、昭和15年(24歳)7月帰還。そして召集解除。昭和19年(28歳)再度応召されて陸軍野戦重砲第十六連隊第二中隊に所属。台湾・高雄近くの石頭営に駐屯した。そして、昭和21年(30歳)3月に復員している。

戦場でも詩心を失わなかった三越さんだったが帰国後は教師への道を勧められたりもしたが、それを辞退し、新しい時代に向けて『新少女』を発刊する。終戦直後のきびしい世相のなかで、粗末な本ではあったが、三越さんの新しい時代へ向かう少女達への夢と期待への目差しには熱いものがあった。

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昭和25年(34歳)第1次「キツツキ」創刊。童謡復興に情熱を注ぎつつ、昭和20年代には『文学十人』や『風と光と象(かたち)』等の同人誌で詩友達と仲間を組み、昭和も30年代に入ると、NHKをはじめ詩作や脚色の仕事など、仕事の分野も広くなっていった。

苛酷な時代を懸命に駈けぬけたすばらしい先輩として私は三越さんの大ファンとして兄事した。

酒を飲めない私を前に、三越さんはきっと大きな不満を抱き続けたことと思うが、戦後のラク町(有楽町)でカストリを呷(あお)りつつ詩作について仲間達と時として激論もしたという焼け跡、闇市時代の青春放浪談などは静かな口調ながら、愛(かな)しく切なく私の胸に深く沁み込んで来た。

三越さんは晩年流山によく来られたそうで、流山市在住の旅行作家の山本鉱太郎先生も、「私は三越さんの弟のつもり−」と言っておられるが、静かで温かく、誰からも愛されるお人柄であった。一度NHKのドラマで三越さんが実名で登場したことがあり、演じた俳優さんは忘れてしまったが、一緒にテレビを見ていて、「私はあんな良い男じゃないよ」と言って杯を手に嬉しそうに照れていた顔が忘れられない。

三越さんとは後に絵本を8冊作り、文章はすべて三越さんにお任せした。二人して「なぞなぞカルタ」を作ったこともあった。

持ち重りのする全詩集の中に「江戸川の春」と題する詩がある−

川岸でねこやなぎが/やわらかな銀の指先で/春にさわっています

ちょうちょうは/はにかみながら/春とダンスをはじめました

江戸川は冷たい心を解いて/水をぬるませ水鏡に浮き雲の春をうつしています

捜してごらんなさい/何処かですみれが/春に微笑みかけています/春に微笑みかけている/あなたも人のすみれです(昭62・2月号「流山わがまち」より)

平成4年4月13日、三越さんは、入院加療中の千葉県立佐原病院で胃ガンのため76歳の生涯を終えた。

憲徳院幸章文瑛居士

三越さんから何回も耳にした言葉だが、人のいない荒れた利根の河原で、一升瓶を傍らに、一人ゆっくり酒を飲みたい…そう話す三越さんの心の奥には、きっと周囲の人には測り知れない深い哀しみが秘められていて、それが誰にでもやさしい心遣いとなって表ににじみ出ていたように私には思えてならない。

冬ざれの利根の川原へ一升瓶をぶらさげて歩いて行く三越さんの後姿を私は何回も夢に見た。

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