忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(22)日劇MHのトップスター小浜奈々子さん |
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日劇ミュージックホール(MH)は有楽町日劇の5階にあった。 5階の窓から見下すと、はるか下に見える数寄屋橋の上を仲睦まじく腕を組んで歩く恋人たちの姿がよく目に入った。 小浜奈々子さんは、行き交う恋人たちを眺めながらいつも「ああ恋をしたい。一度でいいから好きな人と私もあのように腕を組んで歩いてみたい―」と羨望と淋しさの入り混じった思いを投げかけていたという。 |
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。 |
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小浜奈々子(本名森井=渡辺歌子)さん。 浅草などで大ブームとなっていたストリップとは一線を画した、上品なヌードの殿堂として有名だった日劇ミュージックホールの言うなれば第二期黄金時代(昭32〜47頃)をトップスターとして君臨し、その世界の歴史に輝ける足跡を残した大スターである。トップスターであるが故に、休暇もとれず、自由も与えられず、色白の光り輝くばかりの肢体を保持するために、想像を超える節制を強いられた青春の日々を送っていた。 日劇ミュージックホールの全盛戦争が終わって、あらゆる抑制から解放された大衆は、昭和22年1月の新宿帝都座5階劇場で幕を開けた『額縁ショー』と称する『額縁入りの裸婦(静止したまま)』の舞台に殺到。それがヌードショウの嚆矢(こうし)となり、ストリップショーとなって全国に広がっていった。それは文字通り、戦争の時代が終わったというその時代相を象徴するようなものであった。 同年4月14日、日劇小劇場で「東京レビュー」旗揚げ。「院長さんは恋が好き」で、鈴木好子のベリーダンス、白河エミーのアクロバットなどエロチックシーンが話題を呼び評判を呼んだ。このショーには桜むつ子、堺駿二(堺正章の父)らも出演していた。 昭和24年8月頃には、エキサイトショー「女の楽園」にメリー松原、ミス池上、ヘレン滝ほか当時のスターをずらり並べ、平日でも120パーセントの大入りが続いた。 昭和26年9月、東宝の創設者である小林一三らが『追放解除』になって東宝の社長に返り咲いた。蛇足を承知で若い読者のために『追放』について記しておく。 戦後の民主化政策のひとつとして、昭和21年1月、GHQの覚書にもとづき、議員、公務員、その他政界、財界、言論界の指導的地位から軍国主義者、国家主義者などを追放。27年4月、対日講和条約発効とともに自然消滅した。 小林一三社長は、「有楽町からハダカを追放しろ! 日劇小劇場を抜本的に改革しろ!」と号令をかけた。 |
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その一言で都内随一のストリップ劇場「日劇小劇場」は、昭和27年1月の「女の門松」公演を最後に昭和21年から始まった劇場史を閉じることになった。ストリッパーのストライキ騒ぎもあり、ジプシーローズ、ヒロセ元美、ミミー柳ら、当時のスター達の涙、涙で幕を閉じた。 そして面目も新たに劇場名も「日劇ミュージックホール」と改められ、昭和27年3月17日、越路吹雪を中心とした「東京のイヴ」で幕を開けた。劇場関係者の間では、『看護婦さんの総見日』という言葉があるそうで、これは劇場の指定席は白のカバーで覆われていることから、お客さんが不入りの日、舞台から客席を見ると、白衣の看護婦さんがずらりと並んでいるようで、劇場の不入りの日の表現として使われるのだという。
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東京では浅草を筆頭に「日劇ミュージックホール」が開場する前年の昭和26年頃からストリップの全盛時代を迎えていた。 しかし、新しい日劇ミュージックホールは、連日『看護婦さんの総見日』が続き、仕方なく場内改装という名目で4月1日から閉場。4月25日「ラブ・ハーバー」で再開。ニンフの称号でハダカ娘がちらほら出演して来た。小林社長のヌード追放の厳令はあったもののショーとしての品格を落とさなければ良いはずだとして、企画の総帥でもあった丸尾長顕氏は、大人の劇場として本場パリの劇場と比肩し得るショー作りを心がけ、上品なヌードの殿堂として再出発。新しいスターも集まり、観客も一気に増えていった。 ちょっと余談になるが、劇場でギターを弾いていた桃原清二が深沢七郎という本名で『楢山節考』を書いて、中央公論新人賞に選ばれた。 小説面では丸尾長顕氏に師事したこともあり、その縁もあって出版記念会が日劇ミュージックホールで開かれた。昭和32年の2月25日のことで、谷崎潤一郎、正宗白鳥、火野葦平、舟橋聖一、三島由紀夫、武田泰淳、堀田善衛ら、そうそうたるメンバーが集まり、これら作家の先生達の多くはファンとして楽屋へもよく出入りしていた。小浜さんの楽屋にもファンとして谷崎潤一郎はじめ多くの文士が出入りしている。 |
昭和32年1月、東宝社長を辞任して相談役になっていた小林一三氏が他界。不幸は続いて現役社長の小林冨佐雄氏も他界した。一方ミュージックホールでは、この頃ジプシーローズ、奈良あけみ、そして大姉御と言われた伊吹まりまで昭和33年1、2月公演の「日本髪の恋愛選手」を最後に引退した。実はこの公演から私のミュージックホール通いが始まっている。 この折は浅草から丸の内へ進出した渥美清、旗六郎がコントを演じていた。 17年も続いた「小浜時代」大スターの多くが去ったミュージックホールは関係者に危機感を抱かせていたが、当時女性で大学卒が珍しかった頃、大学出の『インテリヌード』として劇場の救世主のような形になって小川久美が人気者になった。しかし、彼女は34年春にあっさり「結婚する」といって退団してしまった。このインテリヌード人気がはじまる少し前、一人の新人ヌードが登場し、じわじわと人気を盛りあげていった。それが本編の主人公小浜奈々子さんである。 |
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小浜さんのデビューは浅草座だった。ここに原みどりというストリッパーがいたが、これが小浜さんのお姉さんだった。たまたま作家の村松梢風氏が銀座のクラブに出演中の原さんに一目ぼれし、ミュージックホール応援団を自認する村松氏の推せんで丸尾氏に紹介した。契約の日、原みどりさんが連れてきた妹を丸尾氏は姉以上に気に入ったという。色白でまるぽちゃの少女―それが小浜奈々子さんだった。 原さんは前出の小川久美が出現する少し前結婚して舞台を去った。裕福な家に生まれながら、父の死で生活が一転した小浜さんはまじめで身持ちも固く、徐々にスター街道をのぼって行った。その小浜さんの楽屋に中学に通っていた妹さんが、弁当を届けに来たり、まめまめしくお茶を入れたりしていた。これが後に西崎ぼたんという芸名で同じ舞台に立つようになる。更に小浜さんの姪の女の子も舞台に出たいと言いだし、この姪は両親を早く亡くして小浜さんの家にひきとられて苦労した少女時代を過ごしてきた。この少女が後の朱雀さぎりとなり、看板スターとなるが、さぎりは、恩人として『クイーン』という愛称で親しまれた小浜さんの黄金時代をともに支え続けた。関西から加わったアンジェラ浅丘とともに、今やその世界の歴史に残る『19歳のデビュー以来の小浜時代』は17年の長きに及んだ。 引退後、昭和48年1月、小浜さんは11年の恋愛の末、北海道小樽市出身の渡辺裕之さんと結婚した。恋愛といっても冒頭に記したような状態だったのでほとんど電話が主だったという。裕之さんは、『ザ・ハーモナイザーズ』に属し、坂本九や、朝丘雪路のバックコーラス等で活躍した。 御主人裕之さんは平成17年8月に惜しくも他界された。今小浜さんは、余暇にフラダンス教室を開いて忙しく過ごしている。ヌードスターのみならず、岡田真澄、泉和助、ミッキー安川、トニー谷、立川談志(小ゑん時代)空飛小助…多くのタレントが彩ったミュージックホールの舞台だった。小浜さんから直接聞いたカルーセル麻紀と一緒に楽屋風呂に入った話とかエピソードの数々…、ミュージックホールの終焉まで書くつもりが紙数が尽きてしまった。 悩ましく廻り梯子をくだりゆく/春の夕べの踊り子のむれ(北原白秋) なやましく春は暮れゆく/踊り子の金沙の裾に/春は暮れゆく(柳川降之介=芥川龍之介のペンネーム) 「女性がみてもいやらしく思わない芸術的エロシチシズム」をテーマに発足したミュージックホールも今はない。まさに昭和恋々である。 |