忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(24)天性の美声…歌手・美ち奴さん |
平成8年5月29日、東京深川にある社会福祉法人・むつみ会の特別養護老人ホーム「むつみ園」で、不遇ともいえる晩年を過ごしていた久保染子さんがひっそりと亡くなった。78歳だった。 久保染子―天性の美声、その個性的な歌声で、昭和時代を代表する往年のスター歌手美ち奴(みちやっこ)さんその人である。 前回、戦後活躍した歌手のひとり、西村つた江さんを取りあげさせていただいたが、きっぱりと芸能界を引退し、現在幸せな毎日を送っている西村さんのことを書いていたら、逆に不幸な晩年を迎えた多くの歌手の方たちに思いが行ってしまった。今回の美ち奴さんはそうした中のお一人である。 晩年の幸、不幸は当然の事ながらすべての人に当てはまることだが、過去の栄光が華やかであればあるほど、その華やかだったことを知る者にとっては、「あの人が―」と切ない思いにとらわれる例を数多く見聞きしている。 私たち、普通の女の子に戻ります」という名セリフを残して昭和53年にグループを解散したキャンディーズ。また、昭和59年「普通のおばさんになりたい」と言って、一度はステージを去った都はるみ。スポーツの世界や芸能界などの人気稼業には数多くのドラマや伝説が誕生し、様々な人生模様を形成している。 「あゝそれなのに」で一世風靡さて今月の美ち奴さんだが、大正6年北海道は浜頓別に生まれた。父親は徳島県の出身で明治末から大正の初めにかけて歌舞伎の旅一座を率いて、四国周辺をまわっていたという。本名久保百合太、役者としての芸名は中村玉二郎。その後流れ流れて中村玉二郎は北海道浜頓別に辿りつき、この町で呉服屋を営んでいた百合太の姉の助言で一座を解散。地元の木工所の娘と世帯を持った。 長女の染子(のちの美ち奴)をはじめとして4人の子供をもうけた百合太だったが、その後時代の潮流にのって樺太へ渡ってしまう。 |
根本 圭助 昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
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長女の染子は、昭和6年、高等小学校を卒業と同時に、父や弟達と別れて上京。浅草で芸者屋「美ちの家」を営んでいた従姉妹を頼ってのことだったが満15歳で「美ちの家」から芸者に出ている。父親ゆずりの歌舞音曲の才能が役立ってか、たちまち売れっ妓となり、御披露目をして、4年目には自ら看板を買って「染美ちの家」という芸者屋を構えるまでになったという。浅草花柳界のある象潟(きさがた)2丁目。現在の浅草3丁目の辺り。昭和初期この界隈には芸者屋が約100軒。芸者衆はお酌(半人前の芸者)を含めて約750人も居たという。 そうした中で美ち奴さんは、美声を買われて昭和8年頃からキングレコード、日東レコードなどで歌謡曲のレコードを吹き込み、昭和11年にテイチクレコードから発売された「ああそれなのに」は空前の大ヒットとなり、美ち奴さんはたちまちにしてスター歌手の仲間入りを果たした。 昭和初期には、藤本二三吉(祇園小唄)、小唄勝太郎(島の娘)、市丸(天龍下れば)、赤坂小梅(浅間の煙)、新橋喜代三(明治一代女の唄)、豆千代(夕日は落ちて・松平晃と)、日本橋きみ栄(曽根崎心中)、新橋みどり(大陸の妻)…花街出身鴬芸者の歌手たちが、のどとつやを競い合っていた。 ♪空にゃ今日も アドバルーン さぞかし会社で 今頃は…… 当時19歳の美ち奴さんの歌う「あゝそれなのに」は文字通り一世を風靡した。作詞星野貞志、作曲古賀政男。星野貞志―これはサトウ・ハチローのペンネームである。その他美ち奴さんのヒット曲としては、杉狂児と歌った「うちの女房にゃ髭(ひげ)がある」(これも星野・古賀のコンビ作)「吉良の仁吉」「仁吉男の歌」「霧の四馬路(すまろ)」「軍国の母」「身代り警備」「娘浪曲師」「街道石松ぶし」…など沢山あり、戦後の「炭坑節」や「ツーレロ節」などのレコードも懐かしく思い出される。
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我が懐かしの美ち奴姐さん平成4年の7月、古い友人のS君からお誘いがあり、浅草の雷5656(ごろごろ)会館へ出向いた。山本ひさしさんが主宰する「むらさき座」の公演にS君が出演し、有名な「婦系図(おんなけいず)」の湯島境内の場のさわりに声色屋(こわいろや)で登場し、最後の演し物「荒神山・吉良の仁吉」では、女剣劇で鳴らした中野弘子の仁吉、S君は敵役の安濃徳を演じた。その折思いがけず美ち奴さん御本人に紹介され、私は少なからず興奮した。幕間に美ち奴さんは舞台にあがり、「吉良の仁吉」を歌って満員のお客さんの大喝采を浴びた。冒頭に記したように、その頃美ち奴さんはすでに老人ホームで生活していて、過去に大きな苦労も重ねて来たので、「昔の人達には逢いたくない」ともらしていたが、本シリーズ2回目に記した「九段の母」の塩まさるさんにこの日のことを話すと、塩さんはすぐに美ち奴さんを訪ね、旧交を温めた。「美ちゃんもとっても喜んでくれた…」と言って剛直な塩さんが目をうるませて私に報告してくれた。
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もうひとつ。平成12年頃、開館して間もない昭和ロマン館に、「日本からの読売新聞でロマン館の開館を知りました―」と言って、はるばる韓国のソウルから金鍾凾ニいう方が訪ねて来た。もと校長先生をしていたという金さんは日本語も堪能で70歳の大柄な男性だったが、信じ難い程の親日家で、名刺には韓日文化交流増進協会とあり、また日本懐メロ特別会長とも記されてあった。戦時中、日本兵として戦ったという金さんの希望で、私は靖国神社へ同行したが、激情家らしい金さんは人目もかまわず靴を脱いで神殿に向かってうやうやしく正座して額を地にすりつけ、感極まって大粒の涙をぼろぼろこぼし、私もその姿に「こんな人も居るんだ!」と目頭を熱くした。その帰途渋谷へまわり、私の行きつけの「昔のうたの店」へ御案内し、集まっていただいた親しい仲間とともに、思い出の軍歌と戦時歌謡で楽しい時間を過ごした。 興奮した金さんは、「美ち奴の(軍国の母)を知ってますか! 一緒に歌いましょう」と朗々として歌い、あまりにも当時の歌に精通していて同席の人達を驚かせた。新松戸のホテルに3泊して金さんはソウルへ帰ったが、「良い冥土の土産が出来ました」と大層喜んでくれて、日本人より日本人らしい気持ちを持っている金さんとの出会いは、私にとってもすばらしい思い出となった。 女の友情と弟・深見千三郎ところで― 晩年、生活に困窮していた美ち奴さんに救いの手をさしのべ、熱心に区役所へ通って老人ホームへの入所運動につくしてくれたのが、前述の女剣劇の中野弘子さんだった。 二人の女同士の友情は今や事情を知る人の間で美談として語られているが、美ち奴さんの葬儀委員長をつとめた中野弘子さんは2か月余り後の平成8年8月3日、後を追うように鬼籍に入った。東京は深川の片隅で、かつての歌謡界の大スターと女剣劇界のスターのお二人はそろって静かに人生の幕をおろした。 |
昭和ロマン館…小松崎茂の常設展ほか昭和の挿し絵などを展示。10時〜17時開館。日曜・祝日休館。 |
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最後に余談をひとつ―。 美ち奴の末弟七十二(なそじ)は、父と一緒に一度は樺太へ渡ったが、長姉の華やかな活躍ぶりを伝え聞き、一足先に上京していた兄の八百二(やおじ)を追って、美ち奴さんを頼って上京している。昭和13、14年頃という。 全盛時を迎えていた美ち奴さんには随分厄介をかけた七十二だったが、後に深見千三郎という芸名で浅草で活躍することになる。 戦後、この深見の直弟子になったのが、東八郎であり、ビートたけしさんだった。 しかし、「あれが典型的な浅草芸人」(由利徹談)と慕われた深見は、昭和58年2月2日早朝、泥酔した上の寝タバコの火が原因で浅草のアパートで焼死してしまう。59歳10か月の人生だった。ビートたけしさんは師匠の死を、「オレたちひょうきん族」の録画撮りの最中に聞き、一瞬絶句した彼は、何を思ったかクルッと踵(きびす)を返して部屋の隅に行き、壁に向かって無言のままタップを踏みはじめたという…。 (一部敬称略) |