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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(25)

「大和撫子」芙美子姉さんが
    敬愛した本間雅晴中将

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芙美子姉さんが密かに敬慕していた本間雅晴中将

▲芙美子姉さんが密かに敬慕していた本間雅晴中将

 

韓国のソウルから、わざわざ昭和ロマン館へ来てくださった金鍾凾ウんに熱望されて、靖国神社から渋谷の懐メロスナックへ御案内した件りは前回に書かせていただいた。

もと校長先生をしていたという金さんは年こそ70歳を越えていたが大柄な堂々たる体躯の男性で、戦時中は日本兵として戦場で戦った経験を持ち、かつての日本陸軍の内部組織にも精通し、類い稀な親日家で日本側に立った熱烈な憂国の志士といった人であった。

軍歌、戦時歌謡を聞きたい、歌いたいという金さんを伴い、渋谷の雑踏の中を、「昔のうたの店」へ案内すべく、道玄坂を上って行ったが、多くの若いギャルたちを見て、金さんは仰天し、「この女性たちはどうしたんですか? 日本女性は世界一で、私たちの永遠の憧れだったのですが、あの憧れの大和撫子(やまとなでしこ)たちは一体どうなったのですか?」と大声で叫んで周囲の通行人を驚かせた。大和撫子―なつかしい言葉である。大和撫子というと、私には忘れられない一人のお姉さんの面影が脳裏に浮かんでくる。ここで一寸時代を終戦直後へ遡行させていただく…。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

秘密組織「本間機関」に勤務

東京大空襲ですべてを失い、母と私と弟妹の4人は農家である父の実家を頼って柏町へ疎開。そこで終戦。私は国民学校(小学校)5年生だった。昭和20年10月、柏の町の中で、やっと探し当てた木造2階建てのアパート。部屋は六畳一間で、台所もトイレも共同。戦災で別々の生活を強いられていた父も戻って親子5人。これが私たち一家の戦後生活のスタートとなった。

このアパートで私は生涯の友ともいえる福山広重さんと巡り合った。

福山家は6人家族で、広重さんは末っ子だったが私より3歳年長だった。アパートの大家さんは福山家の親類筋だったので、福山家では部屋も二間分借りて、管理人を兼ねていた。

たった六畳一間だったが、苦しい飢餓の日々でも親子が揃って生活出来る幸せをしみじみ感じる毎日だった。

広重さんも全く同様で、疎開先の苦労から解放された私たち二人は兄弟のように親しく交際し、それは今に続いている。

今月の主人公福山芙美子さんは広重さんのお姉さんで、吉田松陰を信奉する典型的大和撫子だった。姉を追慕する広重さんのメモには、通称「ふみちゃん」。負けず嫌い、頑張り屋。読書家。皇国史観による国枠主義的傾向の強い姉貴だった―とある。戦前は服部時計店「和光」に勤務。戦後は教師となり、茨城県取手小学校井野分校で教壇に立ち、その後松戸市北部小学校に転じ、特殊学級を担当したが激務のため病に倒れ退職。その後は母親ゑちさんの介護に献身的に専念した。芙美子さん自身、晩年は病で長く苦しい毎日を送ったが常に温かい笑顔で人に接し、何か強く心に期する所があってか生涯独身を貫いた。

広重さんもお姉さんの影響を強く受けているが私もお姉さんとは親しくさせていただき、長い親交のなかで色々と教えられることが多かった。実は後年、芙美子姉さんには、家族にも固く秘していたもうひとつの別の顔があったことが判り、私も少なからず驚かされた。

細かい経緯は不明だが、太平洋戦争末期、時の小磯内閣から鈴木内閣の総理大臣官房秘書官室に勤務(本間機関業務)することとなり、とにかく終戦後まで勤務していたという。本間機関とは、日本の終戦工作を行っていた秘密組織で、上司の大多和氏(2・26事件の生き残り幹部の一人)から、「仕事の内容については、親兄弟といえども一切口外してはならない。もし一寸でも漏らしたら命を貰う」と厳しく言われていたという。

昭和20年8月15日夜、決起した青年将校達が鈴木総理大臣の家にガソリンを撒いて焼き打ちした光景も目撃したという。

敗色濃厚な昭和20年2月号の『少年倶楽部』の表紙は「マレーの虎」こと山下奉文大将だった

▲敗色濃厚な昭和20年2月号の『少年倶楽部』の表紙は「マレーの虎」こと山下奉文大将だった

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鈴木総理の文京区氷川下町の家と大原町の本間中将宅とは直線距離で300メートル程の近さであり、芙美子姉さんは双方の私的連絡係みたいなこともしていたらしい。総理官邸で見知っていた何人かの将校が自決したのも目撃したという。本間機関は本間雅晴中将の関連機関で、本間中将は、「マレーの虎」と称された山下奉文(ともゆき)大将とともに戦後「戦犯」として処刑された悲劇の将軍であった。

有名なシンガポール占領の際の「イエスかノーか」の山下奉文とパーシバルの会見とか、名将、知将として名高い第14軍司令官本間雅晴中将のことは、私たち当時の軍国少年世代にとっては忘れられない存在として、頭に強く刷りこまれていた。芙美子姉さんが、いつも手を合わせていた吉田松陰の肖像と並んでひそかに祀ってあった軍人の写真が、本間雅晴中将のものであったと知るのは、お姉さんと知り合ってしばらくしてからのことであった。

刑場に消えた本間雅晴中将

『リーダースダイジェスト』昭和57年2、3月号には「マッカーサーの復讐・山下・本間裁判の不当性をつく」と題して、ローレンス・テイラーが、「この2将軍の処刑に至る裁判のやり方は報道関係の傍聴席やアメリカ最高裁をも仰天させるもので、検事側は2人の日本人の将官を有罪とするに足る証拠を一片たりとも提出することができなかった」と書いている。

昭和21年2月23日、山下奉文はマニラにおけるフィリピン人虐殺行為の罪を負って絞首刑になっている。

 

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一方、本間雅晴中将は、「バターン死の行進(※)」の責任者として、終戦直後の9月15日、米軍に逮捕され、12月12日日本からマニラに移送されて軍事裁判にかけられた。昭和21年2月7日、彼の妻富士子さんは証人として出廷し、「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か、それを述べて下さい」という質問に、「わたくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」と、毅然として答え、さらに「わたくしには娘が一人ございますが、いつか娘が結婚するときは本間のような男性に嫁がせたいと心から願っております」と答え、被告席の本間のみならず法定に居並ぶ相手方の多くの人にまで感動を与え、後々まで「大和撫子の鑑(かがみ)」として語り継がれている。

マニラに連行されて以来3か月の間に、本間は待遇のせいもあろうが、別人のように痩せ衰え、やつれ果てていたが、4月2日の日没時、カンルバンの収容所から、刑場ロス・バニョスに運ばれた時の本間は、日本の将軍としての威厳をとりもどしていたという。

刑執行の前、彼はビールと、ビフテキとサンドイッチを要求し、さらにコーヒーを注文した。そしてトイレに行き、「ビールとコーヒーだけはアメリカに返した」と笑ったという。

「目隠しはいらない」と本間は言ったが、強引にかぶせられた。黒い袋をかぶせられたまま、「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」と三唱し、日本の方角へ向かって最敬礼をした。

本間の心臓部には4インチの白い標的がつけられた。この時米軍の軍医は、本間の心臓が、平常通りの速度で鼓動していることを知って驚いたという。

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スペース 戦後は北部小学校でも教鞭をとった芙美子姉さん

▲戦後は北部小学校でも教鞭をとった芙美子姉さん

 

「さあ、来い!」と本間は叫んだ。12の銃口が火を噴いたのは4月3日午前零時58分30秒であった。12発のうち4発は空砲で、2発は外れ、6発が命中していた。それはバターンの米軍を降伏させたバターン第2次攻撃が開始された日から4年目にあたる日であったという。本浄院殿洪徳雅晴大居士。59歳であった。私は本間中将の長女尚子(ひさこ)さんに一度だけ柏駅西口の駅前でお逢いしたことがある。芙美子姉さんに紹介された尚子さんは、品の良い美しい奥様だった。

尚子さんの悲願であった将軍の慰霊碑が、将軍終焉の地であるロス・バニョスの刑場跡に建立され鎮魂の旅が、昭和49年3月24日から27日まで当時第14軍の参謀であった6名の方を招待し行われた。芙美子姉さんから再三お誘いをいただきながら同行出来なかったのが今となっては口惜しい。もと教え子だった方から「二十四の瞳」の大石先生そっくりの良い先生だったと聞かされたことがあった芙美子姉さんは、平成5年1月20日68歳で没した。恵光文秀信女。今は八柱霊園で静かに眠っている。それにしても時移り大和撫子や益荒男(ますらお)の姿は今いずこ? 戦争の日々も遠いものになった。

(一部敬称略)

※「バターン死の行進」=昭和17年4月、本間中将率いる日本軍がフィリピンのバターン半島を攻略。米比軍の捕虜と難民約10万人を徒歩で移動させたため、1万人を超す死傷者が出たとされる事件。しかし、事実関係については早くから異論が出ていた。

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