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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(26)

高木ブーさんの恋多き青春時代

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最近お会いした数人の人から、「ボク達(私たち)はドリフ世代です!」という言葉を聞いた。「ドリフのことなら何でも知っています」という人もいた。

私自身の実感では、ドリフの全盛時代といえば、つい先日という思いが強いが、どうしてどうして、思い返すと、すでに40年近い歳月が経っていることに気付いて改めて吃驚している。

今や伝説となっている「8時だョ! 全員集合」がスタートしたのは昭和44年10月のことで、この番組は、早々に20パーセントを超える高視聴率をたたき出した。そして、あれよあれよという間に30パーセント、40パーセント、ついには50パーセントを超すという信じられない数字をたたき出すようになっていった。

昭和45年、TBSの土曜夜の「全員集合」は、10月の第2週から連続して7週間、視聴率40パーセントを超している。1回や2回ではない7週間も連続し、まだまだこの先続きそうだとなれば、これは怪物番組といっても過言ではない−当時私も仕事で時折通っていたTBSの編成部でも専らその噂で持ちきりだった。

昭和45年と言えば、戦後四半世紀が過ぎ、3月には大阪万博が開かれ、日本の人口の6割強にあたる人々が入場して経済大国の姿を誇示する一方、「よど号」乗っ取り事件とか全学連の内ゲバ事件があったり、11月には、三島由紀夫の割腹事件があった年である。

かつて、「8時だョ!全員集合」に熱中した世代が、それなりの年齢に達していてもちっとも不思議ではない。

そのドリフターズで大活躍をし、今もウクレレを奏でつつ、「ニューハロナ」または「こぶ茶バンド」の高木ブーとして多くの人たちに愛されている高木ブーちゃんに今月は登場していただいた。

前回に記したように、私達一家は、六畳一間のアパート生活から戦後の生活に入り、昭和25年3月、建築中で未完成のままの一戸建てを柏町明原に購入した。父の話では、建て主の人が戦後復興の波に乗って、柏という田舎では商売にならないほどの好景気に恵まれ、未完成の家を手放して都内に移ったそうで、縁起の良い家だということだったが、屋根は杉皮葺きのまま。壁は荒壁。畳も建具も未だ入っていないという家だった。取りあえず畳を入れ、壁に紙を貼って、入居した。すぐ裏手に高木さんという家があり、その家の末っ子友之助さんが、後の高木ブーさんである。何年かして市の区画整理が終わり、私の家の裏にどうにか車一台が通れる道が作られ、高木さんと私の家とは斜め前で向かい合うことになった。兄が3人、姉が2人の末っ子だった友之助さんは、6番目ということで、近所からは「ロクさん」または「友ちゃん」という愛称で親しまれていた。ここでは久々に懐かしい「ロクさん」という名で話を進めさせていただくことにする。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

 

 

ドリフの一員として活躍し、今も「ニューハロナ」で知られる高木ブーさん

▲ドリフの一員として活躍し、今も「ニューハロナ」で知られる高木ブーさん

ロクさんは私より2歳年長だったが、高木家も私の家同様に豊島区巣鴨で戦災に遭い、柏に移って来た、いわば罹災者同士だった。

ロクさんは何故か柏の学校には転校せずにまだ電化される前の柏から汽車で日暮里か上野へ行き、そこから巣鴨まで出て更に白山まで都電でという毎日を送っていたという。ロクさんの自著『第5の男』(ドリフでは5番目の男という意味)によると、ウクレレやガールフレンドという楽しみがあったから続いたんだと思うと書いている。この頃、同じ柏から巣鴨の十文字高校へ通う大久保通子さんという女性と知り合い、その人が初恋の相手となったという。ただし、ガールフレンドは他にも何人かいて、著書では実名で記してあり、ロクさんは結構モテモテで、ロクさんによると、これを「第1次内閣」と名付けたと書いている。私がロクさんと親しくなるのは、ロクさん流に言えば「第2次内閣」あたりからになる。

 

若き日の高木ブーさん

▲若き日の高木ブーさん

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いかりや長介さんにスカウトされて、新生ドリフターズに加入するまで、ロクさんは、「高木智之とハロナ・セレナーダス」「ハロナ・リズムコーラス」また、「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」に在籍したこともあった。

美人だった隣の玉ちゃん

「ハロナ・リズムコーラス」の時代、私は頼まれて何回かポスターを描いたりもしている。そしてロクさん「第2次内閣」には私もラブメッセンジャーを勤めたこともあった。その一人、Y子さんは恩師小松崎茂先生の姪御さんで父親(小松崎先生の義兄)は大変厳格な人だった。「楽隊屋なんかとつき合ってはいけない!」と頑としてロクさんとの交際を認めなかった。私はどうしてか絶大な信用があったので、よくY子さんの呼び出し役をお二人から頼まれた。何げなくY子さん宅へ寄って、Y子さんを誘い、松林の中で待っているロクさんにバトンタッチする訳だが、二人のいそいそとした後ろ姿が今もまぶたに焼きついている。もう一人、松木玉枝さんという女性がいた。新宿伊勢丹に勤めていた彼女は大変な美人で、ロクさんの家の奥隣りといった所に住んでいた。もう昔の話だから書いてしまうが、その通称「玉ちゃん」はお母さんの連れ子で、義父にあたる清水さんと言う人は本職のヤクザ屋さんだった。

時折賭博の軍鶏(しゃも)の蹴合い(けあい)をさせていて、何人かの同業の人が集まっていたが警察の手入れがあったりすると、私の家のトイレに逃げ込む人がいて、長時間トイレが使えず困ったことが数回あった。そうした環境で生活して来た玉ちゃんは鉄火肌の気っ風のよい女性だった。

 

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小松崎家へ原稿を取りに来る編集者が、電車の中で彼女を見染めて、ストーカーよろしく後を尾けたら、私の家の近くで見失ったという話が出て、「それは玉ちゃんだ!」と教えたら、しつこく紹介を頼まれて困ったことがあった。この玉ちゃんも、ロクさんの「第2次内閣」の一員だったらしい。

ロクさんがドリフで有名になった頃、あるテレビ局の「初恋談義」でロクさんから出演を依頼されたが、「主人が良い顔をしなかったので、悪いけど断ってしまった…」と私の所へ来て玉ちゃんが話していったことがあった。

ある時期、深夜になると私の家へきまって訪れる男性客の2人連れがあった。その頃私は庭に六畳と四畳半、トイレに玄関のみという小さな別棟を祖父に建ててもらって四畳半を仕事場にしていた。

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スペース 筆者(右)のパーティで高木ブーさんと

▲筆者(右)のパーティで高木ブーさんと

 

母屋で入浴を済ませた後、台所がないので魔法びんにお湯を入れて、深夜の来訪者を待つようになった。一人はロクさん(ドリフ前)で、もう一人は同級生で仲の良かった黒沢明君で、「黒沢明とロス・プリモス」で「ラブユー東京」の大ヒットを飛ばす前のことだった。終電帰りで、黒沢君は結婚前の彼女を自宅に送ってから私の所へまわって来た。

この2人は、その後、スター街道をまっしぐら…。順風満帆といった生活に入ったが、黒沢君は全盛期に倒れて長い闘病生活に入ってしまったのが親しい友として何とも痛ましく口惜しくてたまらない。ロクさんからよく結婚相手の人選の話も聞かされたが、結果として、ロクさんにとって、いちばん良い伴侶を得たと思っている。

私の方は、信じられぬ程長い間ぐずぐずごたごたした結婚話に苦労していて、情けない状況だった。恥を書いてしまうと私の方は高校時代からそんな話が持ちあがり、私の弱さのため何と10年近くも決着がつかず、一度手を握り合って涙にくれたという超プラトニックラブを経験して終わっている。ロクさんは昭和36年2月福本喜代子さんという素敵な伴侶を得、一足遅れて私も昭和39年11月に結婚した。結果としてお互いにとって最良の女房を持ったようだったが、私は昭和63年5月に癌で妻を失い、ロクさんも平成6年3月愛妻喜代子さんを脳腫瘍で失った。喜代子さん58歳。私の妻美代子は49歳の若さだった。先年2人で話し合った時も「人生うまくいかないなァ」と嘆き合った。

かつて私が仲をとり持ち、ロクさんとY子さんは松林の中へ消えて行ったが、「あれからどうなったの?」と思い切って聞いたところ、ロクさんは照れながら、「オレ達もあの頃は純情だったなァ…」と遠くを追うような目でつぶやいていた。思えば、ロクさんも私も恋多き純情青年だったようだ。

好漢ロクさん! 今後の活躍と健康を心からお祈りしてますョ。

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