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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(28)

巨大彗星・小林秀恒の輝き


文京区本郷にある弥生美術館で、本年1月3日から3月29日まで、「小林秀恒展」が開催されている。小林秀恒先生は、私の師の小松崎茂先生の師であり、ちょっと大袈裟だが画業の上で言えば、私にとっては親の親―つまり祖父にあたるような存在の先生なのである。(以下敬称略)

昭和戦前の大衆文芸の黄金時代は、そのまま挿絵の全盛時代でもあった。

その挿絵全盛の時代、岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」と呼ばれ、全国の挿絵ファンの目を楽しませた。

お互いにライバルとして覇を競いながら、反面この3人は大変に仲も良く、時として一緒に机を並べて仕事で夜を徹したこともあったという。

秀恒は文字通り彗星のように挿絵画壇に登場した。彗星というものは鮮やかな光芒をひいて、静止した群星のなかを一際目立って輝き、また稀に出現するというところが彗星の彗星たる所以である。

小林秀恒という彗星は、突然颯爽と現れて、現れた時には、もう群星を圧する大きな光を放っていた。

そして、一際輝いて、多くのファンを楽しませ、同時代の画家達に、その華やかな存在と秀抜な仕事振りに、限りない憧憬と羨望と嫉妬の念を抱かせ、アッという間に、宇宙の彼方に消え去ってしまった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

加藤武雄・作「新月の歌」『講談倶楽部』昭和13年7月増刊号口絵(個人蔵)

▲加藤武雄・作「新月の歌」『講談倶楽部』昭和13年7月増刊号口絵(個人蔵)

 

瑞々しい画才で鮮烈デビュー

小林秀恒(本名秀吉)は、明治41年4月、東京の下谷区二長町(現・台東区台東)に、父米二郎、母ひさの六男六女の六男として生まれている。文枝夫人の話では、兄弟は多かったが、夭折した人が多く、文枝夫人が嫁いだ頃は3人だけだったという。

若い頃から画家を志し、池上秀畝が主宰する池上伝神洞画塾で日本画を学んだ。

もっともその前にちょっとだけ鴨下晁湖にも教えを受けたようにも聞いている(鴨下晁湖―日本画家。文展、帝展で活躍。昭和初期から挿絵を手がけ、講談社の絵本等にもすばらしい作品を遺している。戦後手がけた柴田錬三郎作「眠狂四郎」の挿絵は名作として広く知られている)。池上塾時代の秀恒は、絣の着物に黒サージの袴がよくにあう美青年であったという。のちに美人画で有名な山川秀峰にも師事したというから、一つ年上の志村立美とは秀峰門下で同門ということになる。

 

仕事をする小林秀恒にお茶をいれる文枝夫人

▲仕事をする小林秀恒にお茶をいれる文枝夫人

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挿絵画家としての秀恒は、岩田専太郎を目標に雑誌『キング』からデビューしたが、長田秀雄「昭和血士録」(『国民』、昭8)を経て、菊池寛「貞操問答」(大毎・東日、昭9)を担当し、一躍人気挿絵画家として脚光を浴びることになった。

秀恒の鮮烈と言っていいデビューの様子は、当時を知る人の間でも伝説のようになっているが、同じ頃デビューした田代光(卓抜したデッサン力で独自の挿絵を開拓。山崎豊子の「白い巨塔」、安藤鶴夫の「巷談本牧亭」など多くの名作挿絵がある)の思い出によると前後して登場した新人群のなかで、秀恒のデビューは一番華々しく水際だっていたそうで、その瑞々しい画才の前に田代は自信を失い、挿絵画家への道を断念しようかと思ったほど―と生前よく私にも話してくれた。

読者が挿絵を楽しむ場合、絵を云々するよりも、この顔は好きだとか嫌いだとか、顔だけの好き嫌いで片づけてしまうことが多い。岩田専太郎が長く王座を占めたのも、このキーポイントを掴んで時代が要求する美女像の研鑽を怠らなかったところに大きな理由があるように思えるが、その専太郎美人に似た美女を描きながら、藍より出で藍より鮮やかといっていい秀恒の若さと性格から生み出された美女達は、読者に尚一層の魅力となって強く迫るものがあった。

 

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専太郎も秀恒も、ともに東京っ子であり、センスに共通するものがあったが、秀恒が専太郎とは異なった意味で人気を占めていたのは、秀恒の性格の明るさであって(林唯一談)、性格の明るさは絵の明るさでもあった。女を描く場合、専太郎の濃密な色気にはおよばなかったが、町娘などを描くと専太郎には出せない清純な可愛らしさがあった。

当時のモダンガールを描くにいたっては圧倒的な人気があった。池上秀畝塾の出身だけに筆が素晴らしく達者だった。

当時の人気挿絵画家のグループにあって、筆遣いで岩田専太郎を凌ぐ者はいなかった。鉛筆で下描きをとったか、とらないうちに筆が走って、複雑なポーズをすらすら描き出していく魔術としか思えない専太郎の仕事振りは他の追随を許さなかった。

しかし、小林秀恒がそのグループに加わることになって、その筆の達者なことに、先輩でベテランの専太郎をして「彼には適わん」と言わしめたそうで、凡そ秀恒の非凡さが想像される。秀恒の仕事振りを評して、「何しろ小林君は仕事をしている時に鼻歌を歌っているからね」と仲間が噂をし合ったそうで、たとえ仕事の早さで専太郎と秀恒が伯仲しても、鼻歌の分だけ秀恒の方に余裕があったという話が残っている。専太郎が、一日に挿絵を24枚描いたというと秀恒は「私は26枚できました」と笑って答えたという。

どうせ徹夜をするのなら机を並べて一緒に―ということで、2人そろって30時間以上描き続けたことも数多かったという。

専太郎は七つ年下の秀恒を弟のように可愛がったそうだが、仄聞(そくぶん)によると、物書きの性として、専太郎は恐るべき後輩に対して裏面で牽制したり、圧力をかけたりしたこともあったように聞いている。

秀恒の活躍は凄まじく、新聞、雑誌を席巻。大衆物の挿絵のみならず『少女の友』『家の光』などの表紙や口絵も数多く手がけ、『少年倶楽部』では江戸川乱歩の「怪人二十面相」も手がけている。戦前の講談社の絵本では「木村重成」を遺していて、この原画は全部絵絹に描かれている。

夭折の天才挿絵画家

昭和12年、「気の合った同士で時々遊ぼう―」ということで、当時30代の同志が集まり「三十路会」という会が発足した。

主なメンバーは、中野実、伊志井寛、岩田専太郎、林弘高、大江良太郎、志村立美、柳家金語楼、北村小松、守田勘弥、片岡仁左衛門(先代)、長谷川一夫、辰巳柳太郎、島田正吾、そして小林秀恒といった賑やかな顔触れだった。夫の守田勘弥に従って水谷八重子(初代)が入会を希望したところ、「女はダメ」と断られたとか、時代を反映して面白いエピソードだと思う。

「花形」という言葉がピッタリの好青年だった秀恒も病いには勝てず、昭和17年9月10日、入院先の順天堂病院で結核のため不帰の人となった。享年34。あまりにも若い死であった。病床を見舞った岩田専太郎に、「岩田さん、僕死にたくない。まだしたいことが沢山あるんだもの…」と訴えたという。

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講談社の絵本「木村重成」昭和12年7月1日発行

▲講談社の絵本「木村重成」昭和12年7月1日発行

弥生美術館で開催中の「小林秀恒展」のチラシ

▲弥生美術館で開催中の「小林秀恒展」のチラシ

27歳で未亡人となった美しい文枝夫人は、恒彦、弘隆の愛児二人を抱えて苦しい戦後を送った。長男の恒彦は電気関係に進み、二男弘隆は、秀恒のたった一人の弟子だった小松崎茂に弟子入りして絵の道に進んだ。

小松崎家で同じ釜の飯を食い、この兄弟は私にとっても特に親しい大事な友だったが、二男の弘隆は平成6年3月4日、肝臓癌で55歳の生涯を終えた。父秀恒より長生きしたとはいえ、長寿時代の現在、あまりにも短い人生だったように思う。人も羨むおしどり夫婦で、節子夫人の誕生日に亡くなったというのも何か因縁のように思われるが、その朝、大勢病院に見舞いに来て泊まり込んでいた弘隆を慕う友人達が病室を留守にした僅かの間に、愛妻節子夫人が右手、私が左手をにぎりしめている中で息をひきとった…。若くして夫秀恒を失った文枝夫人は、またもうひとつ大きな悲しみを背負うことになった。

前述の「三十路会」は戦後もずっと続けられたが、会員は相次いで世を去り、最後の一人になった島田正吾も今は無い。僅か10年の挿絵画家生活で世を去った小林秀恒。やっぱり秀恒は光芒一閃夜空を過ぎった大きな夢の彗星だった。

きょう8日午後2時より弥生美術館で、現在93歳の文枝夫人を囲んでギャラリートークが開かれ、私も同席する。また22日のNHK「新日曜美術館」のアートシーンでも、この展覧会が紹介される運びとなっている。

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