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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(31)

「母の日」に想う河目悌二の母像


きょう5月10日(第2日曜日)は御存知「母の日」である。さて、「母の日」の起源について周囲の人に尋ねてみたが、だれからも確答を得られなかった。広辞苑にも簡単にアメリカから伝わったとしか記載されてなく、講談社発行の日本語大辞典では「…カーネーションなどを贈る。1914年にアメリカにはじまり、日本には第2次世界大戦後に伝わって定着した」とあったが、どうもしっくりこない。

さらに手もとの歳時記で調べると、「…北米ウェブスター町のメソジスト教会の一女性アンナ=ジャーヴィスがこの日、母の追憶のため一抱えの白いカーネーションを持ってきて、教友たちに分ったのに始まり、1908年、多くの人の協賛を得て、この日を国際母の日として全世界に提唱し、日本の新教教会や日曜学校でも大正2年以来行われている…云々という記載があった。

これで少しは納得したが、もう少し他の資料で調べてみた。昭和6年、この年大日本連合婦人会が発足。3月6日、地久節(皇后の誕生日の旧称)を母の日と定め、各地で母の日を開催した―という記述を見つけた。これが言わば官製の母の日という訳だが、同年民間による母の日(第2日曜日)の催し第1号として、「母をたたえましょう」という街頭行進が東京で行われ、全国に広まった―という記事も見つけた。

しかし、私たちが実感として母の日と呼んでいる催しは、戦後の昭和24年5月8日(5月第2日曜日)に発足している。この日が初めての「母の日」という記録を確認した。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

『キンダーブック』(発行年不詳)より。河目悌二・画

▲『キンダーブック』(発行年不詳)より。河目悌二・画

 

昔ながらの家族の団欒(だんらん)が徐々に影を薄くし、核家族化が進んだ頃から母の日も商戦に利用されるようになり、年々活発化していって定着したように私自身は感じている。

「おかあさんありがとう」といって親孝行の真似ごとが出来る日だが、この「おかあさん」という呼称の語源も今は割と知られていないようだ。「おかあさん」という呼び方は、昔の江戸や東京には無かった。

明治の末、小学校国語の教科書で初めてお目見えした言葉で、それまで東京の町では士族階級では「オカカサマ」、町人階級では「オッカサン」と呼んでいたが、そのミックスで生まれた言葉が「おかあさん」であった。馴染みの薄いこの呼び方は当時の東京の人たちには不評で、その国語読本は「おかあさん読本」と蔑称されたという。東京下町育ちの谷崎潤一郎の随筆「東京をおもふ」には、関東大震災後の東京の姿を批判して、東京弁を「忙(せわ)しなく、そそっかしく、蕪雑…」とけなし、「おかあさん」式呼び名の流行も批判し、純東京の下町言葉の変化を嘆いている。

 

筆者が模写した河目悌二のおかあさんの絵

▲筆者が模写した河目悌二のおかあさんの絵

 

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懐かしい「昭和のおかあさん」

前置きが長くなったが、「おかあさん」というと、私には忘れられない一冊の絵本がある。昭和27年11月、講談社発行の「おかあさん」という絵本。河目悌二先生の絵で、そこにはあたたかく懐かしい昭和のおかあさんの姿が活き活きと描かれている(戦後間もない昭和22年にも河目先生の手がけた同名の絵本が企画社から出版されているという)。

私はこの絵本に描かれているおかあさん像に若いころからずぅっと憧れ続けてきた。

童画家の河目悌二先生とは残念ながら拝面の機会を得られなかったが、若い頃から憧れ続けてきた先生の一人だった。

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ここまで書いてきて、郵便屋さんが来た気配がしたので、郵便物を取りに出てみると、前に恩師小松崎茂先生の全国巡回展でその第一会場としてお世話になった愛知県刈谷市立美術館からの来信があり、開封してみると、何と何と今まさに書いている河目悌二先生の展覧会が本年7月から9月まで開催される由、あまりの偶然に思わず絶句! 早速巡回展以来親しく交流している学芸員の松本さん、神谷さんのお二人から詳細を伺った。

憧れの河目悌二先生が刈谷市出身ということも初めて知った。河目先生の存在が胸のなかで一際ふくらみ、絵本「おかあさん」が一層身近なものになった。河目先生は、戦前の「少年倶楽部」誌上の滑稽和歌の挿絵でよく知られているが、戦前から戦後へと楽しく、明るい画風の童画を沢山遺してくれた。昭和33年没。68歳の生涯だったという。

かって女性の理想像は〈サシスセソ〉型だったと何かで読んだことがある。つまり、裁縫、躾(しつけ)、炊事、洗濯、掃除がうまくなければならず、そういえば、この絵本に描かれている昭和のおかあさん像とぴったり一致する。

それが現在は〈カキクケコ〉型に変わったそうで、つまり管理能力が要求され、機智に富み、工夫をこらし、健康で、交際上手と言う訳だそうだ。主婦の理想像、「おかあさん」像も実態、内容ともにすっかり様変わりしてしまったようだ。

5月のつらいジンクス

突然話は変わるが―

5月の夕暮れの光は特に緑を神秘的に見せるようで、木々の緑が何ともいえない艶を帯びて潤んで見える。源氏物語にも衣更(ころもがえ)の頃は「空の気色などさへ、あやしう、そこはかとなくをかしきに」とあり、一年のうちで最も良い季節の代表のように感じている人も多いと思うが、私にとって5月という月は、悲しいというか、つらい思い出がいっぱい詰まっている月で、別に5月病という訳ではあるまいが、何となく心が沈みがちな日が多い。

というのも、私の今までの人生で、特に深い関わりを持った大事な人の多くを5月になくしているからだ。私を溺愛してくれた祖父。このシリーズにも登場した親友の海老原三夫君(彼は昭和37年の三河島事故で)、小松崎一門の兄弟子・秋田県湯沢市出身の岩井川峻一さん(昭和30年・自裁だった)。そして、私の妻も5月に旅立っているし、特に親交のあった人だけでも20人を越える。

健康だけが取り柄だった私も市内での小さな講演会の席上、突如解離性大動脈瘤で倒れ、救急車の中で「あーやっぱり私も5月で終わるのか―」と一時はあきらめたが、幸い紙一重で命を拾った。8年前のことである。

直接言葉を交わしたのは2度程だったが、全盛時代から舞台を見続けた岡晴夫さん(昭45・54歳)、やはりファンだった由利徹さん(平11・78歳)、藤山寛美さん(平2・60歳)、池波正太郎先生(平2・67歳)、「サザエさん」の長谷川町子さん(平4・72歳)、ちょっと不思議な出会いが何回かあった清川虹子さん(平14・89歳)と富永美沙子さん(昭和50年、支笏湖で心中死・42歳)…何となく5月という月に逝った人をメモしてきたが、数えるとその数は数十人にのぼっている。

私自身の思い込みによる単なるジンクスと承知していても、私にとって5月はやっぱりあまりうきうきできない月なのである。

私が企画したコンサートにゲストのひとりとして来てくださった「里の秋」、「みかんの花咲く丘」で知られる童謡の川田正子さんも5月に鬼籍に入ったお一人で、しかも私と同年だった。

椿山荘で開かれた野口雨情の会で同席したのが最後だった。

「おかあさん」の話からとんだ脱線をしてしまったが、そういえば、みかんの花の咲くのも5月から6月頃である。この文を書いたのを機に、つまらないジンクスなど払拭(ふっしょく)すべきだと自分自身に言い聞かせてはいるが…。

おかあさんの話に戻ると、戦後、昭和20年代には映画で「母もの」というのがブームになったことがあった。「母恋星」、「母紅梅」、「母燈台」、「母千鳥」…〈三倍泣けます〉という「母三人」とか、友人に調べてもらったら、母と名のつく母物映画は想像を超える数で、100本近くもあり、びっくり。歌にいたっては、数えきれず、母を慕うというテーマは洋の東西を問わず、小説、詩歌、映画、舞台、音楽等々枚挙にいとまがない。

今月は脱線の連続になってしまった。脱線ついでにもうひとつ。きょう5月10日からは、たしか愛鳥週間(バードウィーク)もスタートする。初夏の鳥でタマシギという鳥がいるそうで、美声で鳴くのはメス。巣づくりからヒナを育てるまで一切はオスの仕事でメスは知らぬ顔…。産卵後は別のオスを求めて家出するそうで、そういえばそんなタマシギ風奥様の噂を、近頃あちこちで耳にする。

河目悌二先生描く、あたたかい昭和のおかあさんの姿が、改めて懐かしくなる。この切ないまでの憧れは、私もやっぱり時代遅れの年寄りになったという証かもしれない。

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