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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(32)

「昭和の歌声」霧島昇と松原操

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6月2日は気持ちよく晴れた。地下鉄の表参道駅で下車し、南青山の骨董通りをぶらぶらと10数分、高樹町の信号角の富士フィルムビルを左折した正面に大本山永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)という立派な寺院がある。

広大な境内の中に建つ大仙閣(通称仏堂)でめずらしい会が開かれた。招いてくださったのは大滝てる子さん。大滝さんは、昭和の戦前、戦中、戦後を通じ一世を風靡した歌手霧島昇、松原操(ミス・コロムビア)夫妻の三女であり、オペラ歌手として活躍中のお人である。

大滝さんはかねてより、ご両親の眠る菩提寺である長谷寺で、追善コンサートを開きたいという宿望を胸に秘めてきた。その夢が実現されることになったのである。

早く着いたので、関係者の皆様と、子供の頃から大ファンだった霧島、松原ご夫妻の墓参をすることができた。

ちなみにこの墓地には、明治洋画壇を代表する黒田清輝の墓所や、喜劇王のエノケンこと榎本健一さん、また、昭和60年8月12日夕、群馬県上野村御巣鷹山へ墜落した日航機事故の犠牲となった坂本九さんや、「太陽にほえろ」で活躍し、後に自殺してしまった沖雅也さんの墓所もあり、若い僧の案内で、手を合わせることができた。何だか色々な人に巡り合った心持ちになった。

仏堂の堂内には懐かしい霧島、松原ご両人の歌声が高らかに響き、格調ある鼓の音(ね)にのって登場した大滝さんが、ご両親の思い出話を交えながら、ご両親の歌声とともに、ヒット曲を歌いあげた。

霧島さんが生涯に吹き込んだ曲数は3千曲にも及ぶと言われ、文字通り昭和の歌声として没後25年を経た今でも私たちの心に強く刷り込まれている。

「愛染かつら」で一世風靡

霧島昇(本名・坂本栄吾)さんは、大正3年、福島県―現在のいわき市大久町に生まれた。ボクサーを志し上京。その夢は実現しなかったが、苦学しながら東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に学んだ。昭和11年、コロムビアから「赤城しぐれ」でデビュー。

一方の松原操さんは明治44年、北海道小樽市で生まれた。東京音楽学校(現・東京芸術大学)在学中、コロムビアにスカウトされた。しかし、当時はそれが発覚すると退学処分になるので、顔と身分を秘し、ミス・コロムビア(覆面歌手)として昭和8年、「浮草の唄」でデビュー。同年、松竹映画「十九の春」の主題歌が大ヒット。美貌と美声を兼ね備えたコロムビアの看板娘として不動の人気を得た。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

 

 

 

 

 

 

霧島昇・松原操夫妻(松原操引退の翌年)

▲霧島昇・松原操夫妻(松原操引退の翌年)

昭和13年、お二人は松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」でデュエットし、これが空前の大ヒットとなり、〈愛染コンビ〉とも呼ばれ、昭和14年12月17日、音楽界の大御所である作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌により、帝国ホテルで結婚式を挙げた。巷(ちまた)では、人気歌手、霧島さんとミス・コロさんの結婚を円盤(レコード)上の恋と呼んで、大きな話題となった。

「愛染かつら」は日本映画史上空前の大ヒットとなり、前・後・続・完結篇と合計4本も作られ、その主題歌も各篇毎に前述の「旅の夜風」に始まり「愛染夜曲」「愛染草紙」…とお二人のデュエット曲は一世を風靡し、その他映画の中で歌われたミス・コロさんの「悲しき子守唄」、同じく「朝月夕月」(「続・愛染かつら」)、ミス・コロさんと二葉あき子さんの「荒野の夜風」(完結篇)と「愛染かつら」関係の歌は各々記録的なヒットとなった。

その他お二人のコンビによる「一杯のコーヒーから」の大ヒット。「新妻鏡」は霧島さんと二葉あき子さんで、これも大ヒットしたが、同映画の「目ン無い千鳥」は愛染コンビお二人のこれまた大ヒット曲となっている。

霧島さんはミス・コロさん以外の女性歌手とのデュエット曲も多く、晩年は冗談でそれを自慢していたという話も、てる子さんから伺ったが、たしかに「純情二重奏」(高峰三枝子)、「蘇州夜曲」(渡辺はま子)、「相呼ぶ歌」(菊池章子)、「リンゴの唄」(並木路子)…等々書ききれない程のヒット曲がある。代表曲のひとつ「誰か故郷を想わざる」は今もって多くの人に愛唱されている。

一方のミス・コロこと松原操さんもヒット曲を挙げだしたらきりがない。「気まぐれ涙」(昭8)、「秋の銀座」(同)、「並木の雨」(昭9)、「光の王座」(昭10)、「おもかげの歌」(昭14・伊藤久男)、「兵隊さんよありがとう」(昭14)、「愛馬花嫁」(昭15・菊池、渡辺)、「大空に祈る」(昭18・菊池、三原純子)…等々大げさでなくヒット曲の題名だけで紙数が尽きてしまう。

戦後も復興したレコード界で霧島さんは、前述の「リンゴの唄」(昭21)を皮切りに、「麗人の唄」(同)、「旅役者の唄」(同)、「胸の振り子」(昭22)…とヒットを飛ばし、戦後の苦しい生活にあえぐ人々の心を慰めた。

霧島昇(右)と松原操

▲霧島昇(右)と松原操

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昭和23年、お二人のデュエットで大ヒットした「三百六十五夜」のレコーディングを最後に、生来身体が丈夫でなかったことと、子育てのため松原さんは歌手生活にきっぱりと別れを告げた。そして、松原さんは家庭人として4人のお子さんを育てた。霧島さんの歌手生活は続き、「サムサンデー・モーニング」(昭25)、「赤い椿の港町」(昭26)、「石狩エレジー」(昭28)、「湖畔のギター」(昭29)他ヒット曲を続いて送り出したが、昭和56年の「夕月慕情」が最後のレコードとなった。同じ年、霧島昇歌手生活45周年を記念して発売された「妻よ」に松原さんは台詞を吹き込んだ。実に30数年振りのレコーディングだった。健康には人一倍気をつけていた霧島さんだったが、病魔には勝てず、昭和59年4月24日、胃癌により不帰の人となった。天籟院秀峰淨霧居士。享年69歳だった。昭和54年に紫授褒章。同59年に勲四等旭日小授章を受章している。

 

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その頃、他の病院に入院していた松原さんは霧島さんの入院先に駆けつけ、「パパ置いていかないで。私も連れてって!」と白い割烹着姿で少女のように泣きじゃくって遺体に取りすがっていたと、てる子さんから伺っている。病身の身をおして葬儀を執り行った松原さんは、夫の七七日の法要を終えた一週間後の6月19日、夫の後を追うかのように天国へ旅立った。桂月院雅心淨操大姉。享年73歳。松原さんは娘のてる子さんに「お前は絶対に歌をやめてはいけない」と、そう言い続けていたという。

父母の心を歌い継ぐ

母の遺志を継ぎ、大滝てる子さんは、声楽家として数々の演奏活動に追われている。

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スペース 著者(左)行きつけの田端「セルポアブル」にて大滝てる子さんと

▲著者(左)行きつけの田端「セルポアブル」にて大滝てる子さんと

 

東京音大卒。同研究科(オペラ科)修了。13年間母校で後進の指導にあたったが、数々の音楽会で入賞、受賞をくり返し、昭和56年にはウィーン留学。ヒルデ・ツァーディック氏に師事。帰国後も数々のコンサート活動を続け、平成7年にはウィーン・コンツェルトハウス(シューベルトザール)にて、ベーゼンドルファー・日本航空・講談社の後援で「日本の心を歌う」と題したコンサートを開き、現地の音楽関係者から絶賛された。現在は日本の歌を中心にコンサート活動をしているが、そのレパートリーは、オラトリオ、オペラからポピュラーまでと幅広い。近年は「霧島昇・松原操父母の心を歌い継ぐ」と題し、両親のヒット曲を歌うリサイタルも各地で展開している。

先日お会いした折、大滝さんから、こっそり携帯電話の画面を見せていただいた。そこには動く画像で、大滝さんの部屋に自由に出入りする10数羽の雀が写されていた。

いつの頃からかそんな状態になっているとお聞きしたが、「私はほんのちょっと雀語が分かるんです」と楽しく微笑む大滝さんの笑顔から、改めて心の広い温かいお人柄が垣間見られ、快いカルチャーショックを受けた。

追善コンサートで大滝さんは、お母さんがかって舞台で着た振袖を洋装に仕立て直したドレスを何回も衣装更えして熱唱してくれた。

会の終わり近く大滝さんは、これもまた新しく決意した思いを吐露してくれた。偉大な両親の足跡を大切にし、改めて「松原操」という名を継ぐことにしたという…。集まった観客の大きな賛同の拍手は、なかなか鳴りやまなかった。

バラの花びらに露が光り、濃緑の木下闇にアジサイの花が浮かびあがる。

「紫陽花(あじさい)に父母のほほえみ歌供養」。そして「夏暁や母のぬくもり残りをり」。二句ともに両親を追慕してやまない、てる子さんの句である。新生「松原操」さんに幸多かれ! そして激動の昭和を生きたすべての人々に夢とロマンを与えて下さった霧島昇、松原操お二人の霊位に心からの感謝の合掌を捧げる次第である。

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