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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(34)

まだ夢の途中 「名脇役」安宅忍さん


ムッシュ・ボケール・マダラーニさんの公演が今年も6月20日、21日の2日間、文京区春日のBXホールで開かれた。

私は初日の昼の部、つまり一回目に出かけた。客席には親しい顔も多く、マダラーニ氏の大熱演とゲストの割鞘憂羅(わりさや・うら)さんのフラメンコもすばらしく眼福、耳福大いに楽しい刻を過ごさせていただいた。

ムッシュ・ボケール・マダラーニ(まだらぼけ)さん。生粋の日本人である。実は東宝現代劇に籍をおく、安宅(あたか)忍さんの仮の姿なのである。

シャイで、粋で、洒落っけたっぷりの安宅さんは、俳優というより「役者」という言葉がぴったり合う人で、私もその魅力的な人間像にはまりこんでしまった一人である。

安宅さんは、北海道も北の果て利尻島―宗谷管内利尻町仙法志字マオヤニの老舗「安宅商店」の末っ子として生まれた。

小樽潮陵高を卒業し、上京して早稲田大学第一文学部に入学した安宅さんは、その在学中に演劇と出会うことになる。しかし、当時の安宅さんは、演劇を志す多くの学生たちが夢中になった左翼系演劇(新劇)には興味がなかったという。折しも舞台でのワキ役を育てる東宝現代劇(東宝演劇部)が菊田一夫の手で作られ、さらに当時全盛の東宝ミュージカルスでも、その研究生を募集していた。安宅さんは、ひそかに三木のり平さんを敬愛していたので、後者の研究生となり、昭和35年11、12月公演の東宝グランドロマン「敦煌」(作、演出・菊田一夫)で初舞台を踏んだ。この「敦煌」の主役は池部良さんが演じたが、映画と異なり、幕が開いたら「待ったなし」の舞台は映画俳優・池部良氏には向かず、池部氏は一週間ほどで役を降り、急遽東宝現代劇の井上孝雄さんに主役交替となり、そのためか2か月公演の予定が1か月となってしまった。

この交替劇は当時色々取り沙汰もされた。そして代わりにアチャラカ喜劇の極致「雲の上団五郎一座」(エノケン座長)の上演となり、これは宝塚劇場の2階、3階が笑いで揺れたという伝説まで生まれた。

私は昭和32年4月開場の東宝・芸術座の第1回公演「暖簾」(主演・森繁久弥)以来芸術座の大ファンとなり、「がめつい奴」「がしんたれ」をはじめ実に多くの舞台を楽しんできた。同時に「東宝ミュージカルス」も「雲の上団五郎一座」もほとんど観ているし、あの頃の三木のり平、有島一郎、八波むと志、宮城まり子…などの舞台の楽しさ面白さは今思い出してもわくわくしてくる。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

「ラ・マンチャの男」で松本幸四郎さん(左)とサンチョ・パンサ役で共演する安宅忍さん

▲「ラ・マンチャの男」で松本幸四郎さん(左)とサンチョ・パンサ役で共演する安宅忍さん

 

ちょっと話が脇にそれたが、安宅忍さんという役者に惚れ込んだのには、お人柄はもとより、私のほうでもそうした素地があったことも大いに関係している。

安宅さんの言葉によると、「50年前大学に入り、何故か横道にそれ、郷里の両親や姉兄をずっこけさせてから45年、私の錯覚の足跡は、これからも増えていくのであります。跳ねるように、踊るように、よたよたと、でも、きっと力強くなるぞと、夢を見ているのであります。二重人格なのか、二重構造なのか? 善と悪、陰と陽、長と短、緩と急、そして生と死。まさにセ・ラ・ヴィ!(これが人生!)であります」と書いている。

「香華」で共演した山田五十鈴さん(右)と安宅さん

▲「香華」で共演した山田五十鈴さん(右)と安宅さん

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300本以上の作品に幅広く

あんな面白さ空前絶後だった「東宝ミュージカルス」そのものもなくなり、東宝現代劇に編入され、その後の安宅さんは、時代劇、現代劇、ミュージカルとジャンルを問わず、その活動範囲は広く、菊田一夫の作品はもとより、小幡欣治、有吉佐和子の作品にも数多く出演し、「三婆」をはじめ、安宅さんのキャラクターを活かして書き上げてもらった役も多く、森繁劇団、三木のり平一座の常連にもなった。

前述の初舞台を踏んだ年の東宝演劇部の忘年会の席で新人賞を受賞し、幸先良いスタートを切った安宅さんだったが、有吉佐和子の二作品「山彦ものがたり」「真砂屋お峰」で第一回菊田一夫演劇賞も受賞している。

主な出演作品を挙げただけでも、「ラ・マンチャの男」(サンチョ)、「その男ゾルバ」(ミミユ)、「サウンド・オブ・ミュージック」(フランツ)、「キス・ミー・ケイト」(バプティスタ)、「マイ・フェア・レディ」(ジェミイ)はじめ「ローマの休日」など東宝で上演された初期のブロードウェイミュージカルのほとんどに出演している。

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さらに前述の「山彦ものがたり」「真砂屋お峰」「香華」「細雪」「三婆」「仁淀川」「とげぬき音楽隊」「蔵」「長崎ぶらぶら節」「放浪記」「犬神家の一族」「あかさたな」など合計すると、すでに300本以上の作品数にもなるという。

私もそれと知らず観てきた作品も多く、先年明治座で観た大地真央主演の「女ねずみ小僧」の長屋の大家役など記憶に新しい。

中でも松本幸四郎と組んだ「ラ・マンチャの男」で演じたサンチョ・パンサは安宅さんの本領を遺憾なく発揮。その年の演劇界の話題を独占した。現在、安宅さんは72歳。同年代の健康な俳優仲間のうち、現役活躍中は半数程度という。

再び安宅さんの文から―「何時の頃からか、楽屋内で、あたぽん―安宅ぽん―と呼ばれるようになり、何時の頃か―かなり前から―物忘れ、勘違い、記憶力の低下が進み、『いよいよまだらぼけかな…ボケール・マダラーニさんだ…』と呟いたことがあった。忘れもしない、私の住んでいる築地明石町の隅田川テラスの早朝ウォーキングの途中でした。早朝というのは、この年になっても、それなりに頭がクリアーになっているのでしょうか、時々面白いアイディア、発想、言葉が浮かぶものですが、家に帰るとほとんど忘れてしまいます。だがその日だけは、ボケール・マダラーニというネーミングが、しっかりと頭の中に住みついていたのです」―かくしてムッシュ・マダラーニは誕生した。事実最近の東京の演劇界は、若手中心のミュージカルが増える一方で、貴重なバイプレーヤーといえども、年配の役者が活躍できるシリアスな作品が激減している。

安宅さんは、そんな現状のなかで発奮し、マダラぼけの男による一人ミュージカルを創作しようということになり、ついには70の手習いで始めたばかりのヴァイオリンまで引っ提(さ)げての登場となった。

ボケも芸に 一人ミュージカル

本番の前夜遅くに舞台稽古を終えて帰宅したばかりという安宅さんからお電話をいただいた。「どうです。声枯れてないでしょ!」。それはむしろ自身に確認するような口ぶりだったが、私も初日の開演が楽しみになった。

終演後のパーティでは、寅さん映画のマドンナ1号の光本幸子さんほか賑やかな顔ぶれで、そういえば一昨年の会では、旧知の浅香光代さん夫妻や、ボニージャックスの代表・西脇久夫さんとお会いしたこともなつかしく思い出した(西脇さんとは一昨日も別の会でご一緒した)。今年は東京に続き、郷里北海道の札幌と仁木町での公演が企画され、各々大盛況だったことをお聞きし、わが事のように嬉しく思った。

つい先日、新宿にある私の馴染みの懐メロスナック「昔のうたの店」を貸し切りにしてもらい、いつも安宅さんの世話役を引き受けてくれている陰の功労者、グローバルシステムの島本健一氏の肝煎で黒須路子さん、作家の新井恵美子さん(雑誌『平凡』を創刊した故・岩堀喜之助氏令嬢)ほか、と言っては失礼な私にとって大事なメンバーで、紙数が許せばお一人お一人ご紹介したい仲良しグループでカラオケ大会を催した。

いつもの舞台でのシャンソンやミュージカルのナンバーではなく、私のリクエストで、安宅さんは「瞼の母」を熱唱。台詞が巧いの何のって! 続いて津軽弁での「津軽海峡冬景色」。そして最後に三木のり平さんがいつも十八番にしていたという「人生の並木路」をしんみりと情感たっぷり歌ってくれた。

昨年、表参道で私が展覧会を開いた折、安宅さんは、6月の本紙で紹介させていただいた大滝てる子さん(霧島昇・松原操さんの令嬢)や、この日の面々と一緒に来廊して下さった。

中村メイコさんからプレゼントされたという真っ黄色なソフトをかぶった安宅さんは、表参道のひとごみの中でも目立つ存在だった。それにしても、人との出逢いの不思議さ、面白さ―。そして、かなしさ、愛しさ、儚さと…。

最後に安宅さんの声で山本周五郎の作品から―。「人間、生きてせぇすりゃ、こうして会えるんだ。おらァ、これが嬉しくてしょうがねぇ。また会えるってことがよう…」。

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