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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(37)

「幻劇団」に酔いしれた「染太郎」の忘年会


この季節になると、きまって私は川端康成の短篇『落葉』(昭6)を思い出す。

「風の音ではなかったが、雨が降りだした音のようであり、人間が忍び足で庭を歩く音のようでもあり、ふと耳を澄ましてみると、それは落ち葉の音であった。夜の落ち葉であった。目に見えない落ち葉であった」。若い頃読んだこの書き出しが好きで、深く頭に刻みこまれている。昨夜は本物の雨の音を聞いた。

朝起きると、猫の額より狭い粗末な庭に、いっぱいに散り敷いた落ち葉を濡らして、時雨が秋の名残を惜しむように降り続いていた。これも年のせいか、ふと淋しい気になった。

そろそろ忘年会の季節である。〈不況〉という言葉が定着してしまったような世相で、今ひとつ浮かれた気分になれない。

少し前までは、酒をまったく受けつけない下戸のくせに、断りきれない会が結構多く、11月末から12月へと毎年何のかのと言いながら10以上の会に出席していた。

流石に70歳も半ばを迎えると、付き合いもセーブせざるを得なくなり、近頃はかなり減らすように心掛けている。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

左から「染太郎」のご主人、御内儀さん、筆者

▲左から「染太郎」のご主人、御内儀さん、筆者

 

私にとって、忘年会というと、真っ先に思い出されるのは毎年開かれていた浅草「染太郎」の忘年会である。「風流お好焼染太郎」――御存知の人も多いのではないかと思う。北千住駅の中にも支店が出来ている。高見順の小説「如何なる星の下に」の舞台として広く知られ、芸人、文人の集まる店として、評判となっている店である。染太郎というのは今の社長の先代が林家染団次の弟子で音曲万才をしていた林家染太郎(本名貞次郎)で、その芸名を生かし、作家高見順が「風流お好焼」と頭につけ加えたという。

「染太郎」が評判になったのは、先代はるさんの人柄が大きく影響している。はるさんを慕い、その温かい下町人情を愛して、多くの人が集まっていた。「染太郎」に保存されている各界有名人の色紙や寄せ書き、スナップ写真の量は夥(おびただ)しい量で、昭和史を彩った芸人、文筆家、画家…等々目も眩むような顔触れがそろっている。ところで―ふだんお店に寄っている人達にも割と知られていない「染太郎」の裏手には、舞台つきの大広間がある。

その100人以上入る大広間を超満員にして毎年暮れに開かれていたのが「幻劇団」という一座の催しだった。実はこの劇団―平常歌舞伎座の檜舞台で活躍している女形の皆さん達がシャレで演じるために作られた急造の劇団で、出演者一同れっきとした歌舞伎俳優の皆さんなのである。

リーダー格の中村歌江さんは、故中村歌右衛門さんのお弟子さんで、現在も名女形として活躍しているお人で、幻劇団では何やら物々しい芸名をつけていたが、何とも楽しい催しだった。初めは人情ものの一幕物が上演され、これが皆さん汗だくの大熱演だが何分にも急拵(ごしら)えの舞台とあって、多少のずっこけがあり、客席は大爆笑―。そして僅かの休憩があって、いよいよひとりひとりの踊りが始まる。スピーカーからは、決して音質が良いとはいえない音で、美空ひばり、中村美律子はじめ数々の艶歌が流れ、女形の皆さんが一人ひとり思い入れたっぷり、お色気たっぷりに踊りまくる。客席からはファンの嬌声が飛び交い、舞台へ〈おひねり〉がばらばらと投げられる。踊りながら、それを避けながら、艶な流し目でお客を睨(にら)み返す―これは完全に大衆演劇の世界である。踊りながら舞台に散らばったおひねりを箒(ほうき)と塵取りで掃き集め、果ては掃除機まで取り出して、客席は大爆笑。色気たっぷりの各女形の演技に「あー私、女やってんのもう嫌になった!」という客席の女性の溜め息まじりの声を私は何回も耳にした。

 

中村歌江さんの妖艶な踊り

▲中村歌江さんの妖艶な踊り

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座頭中村歌江さんの形(声)態模写は圧巻だった! 故中村歌右衛門や先代片岡仁左衛門、先代中村勘三郎や先代坂東三津五郎…最後は先代水谷八重子や杉村春子…など、私は何回も見ているが、その度毎に感嘆し、芸に酔った。

「俳優祭」でもよく演じられるそうで、会場の人気を浚(さら)ってしまうと聞いた。

「染太郎」の御内儀は、いつも〈かっぽれ〉を踊るが、素人目の私にも、近年随分腕をあげて来たように思われる。

美人の若内儀も加わり、年配の男衆も加わっての〈かっぽれ〉も磨きがかかって来た。

フィナーレには、歌江さんのとっておきの至芸ともいうべき凄い演し物があり、涙が流れるほど笑いこけて、幕になるのだが、内容の紹介は、きょうは控えさせていただく。

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歌舞伎座の女形、SKDのスターも

今は亡き上方舞の吉村流四世家元、人間国宝吉村雄輝さん(ピーターの父君)も客席で一緒になったことがあった。「染太郎」の忘年会には、何年位通ったことだろうか? 染太郎の親類筋にあたる長いお付き合いの崎本平一郎さんの計らいで、友人、知人の多くを誘い、皆に喜ばれた。いつも特別に席を予約してもらって、7、8人でくりこんだ。

私の知人に瓜谷アウロラさんというスペイン人がいる。御主人は日本人で、茜さんという美しい一人娘がいる。アウロラさんはびっくりする位の歌舞伎ファンで、〈染太郎の会〉へお連れして大層喜ばれた。女形の皆さんをすべて知っていて、○○さん、○○さんと逆に説明されて驚いた。

娘さんの茜さんも歌舞伎通で母娘で団十郎のパリ・オペラ座公演はもとより、東京、関西を行ったりきたりの追っかけをしていて、〈染太郎〉の会には大感激してくれた。

元SKDのスターだった高砂久美さんらがゲストとして出演した年もあり、また大衆演劇のスターを逆にゲストとして迎えた年もあった。名前は失念したが、彼女(?)が出て来た時は客席がどよめき、多くの人がその美しさに感嘆の声をあげた。

毎年の行事のように出かけた〈染太郎の会〉に、私もしばらく行っていない-というより、女形さん達のスケジュールや、もろもろの事情で、今は中断しているように聞いている。

数年前、忘年会ではなく、銀座の「ライオン」で、昼間だったが、〈染太郎の会〉が開かれた。久々に歌江さんが出演して「瞼の母」を演じた。

話はちょっと脇に外れるが、数年前、国立小劇場で歌江さん達のたしか「皐月会」と言ったか公演があり、歌江さんの主演で「高橋お伝」の芝居を見た。その後で舞踊劇もあり、楽しい一日だった。幕間で旧知の-というほどでもないが、浅香光代さんと会って話し合ったのを思い出した。

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SKDの往年のスターも出演

▲SKDの往年のスターも出演

話を本筋に戻す-。歌江さんの「瞼の母」の番場の忠太郎を見て、やっぱり少しお年を召したなあーと感じた。

「瞼の母」のあとは、その日のメインイベントとして「有馬徹とノーチェクバーナ」の演奏があり、かつての楽団の中の4人だけでの 編成だったが、有馬徹さんが在世中のフルバンドによる演奏を何回か見ているので、なつかしかった。そう銀座「ライオン」でのその会には歌謡漫談の「ミュージカルぼういず」だったか、ボーイズ名はちょっと失念して確かではないが、出演していた。歌謡漫談に、歌江さんの「瞼の母」それに「有馬徹とノーチェクバーナ」の演奏。何ともちぐはぐな取り合わせだが、それがまた「染太郎」そして「下町浅草」の真骨頂でもあり、楽しい一日だった。

先日思いがけなく「染太郎」のある昭和10年代の「浅草田島町芸人横町」という地図を拝見した。この地図には東京の芸能界で活躍した著名な浪曲師、漫才師、コメディアン達の家も細かく記されていて、まさに芸人横丁と呼ぶに相応しい壮観さだった。

私個人としては、この一角にお住まいだった益田喜頓さんと二度ほどお目にかかっている。

田島町という地名は現在地図の上からも消えて、西浅草なんてことになってしまった。

朝夕めっきり冷えて来て、おでんや湯豆腐の季節になった。今年は訃報が相次いだ。「身の冬の、とどのつまりは湯豆腐の、あはれ火かげん、浮きかげん。月はかくれて雨となり、雨また雪となりしかな。しょせんこの世はひとりなり。泣くも笑うも、なくもわらうもひとりなり」久保田万太郎

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