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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(39)

ラジオ番組から生まれた なつメロ仲間


FM実験局が正式にラジオ局「FM東京」として発足したのは昭和45年4月のことだったという。

当初は、歌謡曲を扱った番組は無かったが、「FM東京」となって、番組面でも歌謡曲を扱うようになった。この「FM東京」で、昭和40年代の後半「日本のうた」という番組が放送されていた。月曜から金曜日までの毎日、午後1時半からの30分番組だったと記憶している。毎週金曜日が、番組愛聴者からのリクエスト特集ということになっていて、戦前、戦中、戦後の流行歌が曲にまつわる思い出とともにリクエストされるということになっていた。めずらしい歌も多く、なつメロファンにとっては、たまらなく楽しい番組だった。

私がこの放送を聴きはじめて三人目の司会者が武藤礼子さんだった。

その武藤さんの一回目のリクエスト放送が偶然、私のリクエストだった。曲目は―ま、それはそれとして、武藤さんは、新司会者としての挨拶のあと、感情をこめて、私の拙文を読みあげてくれた。

司会の武藤さんは、エリザベス・テーラーやグレース・ケリー、ジュリー・アンドリュース等の声の吹き替えや、「ふしぎなメルモ」のメルモ役、「ムーミン」のノンノン役で知られる声優さんだった。

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根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

 

「山伏会館」にて昭和53年6月。前列中央・大国阿子さん(津村謙夫人)、右隣・三條町子さん、左隣・照菊さん、後列左端・幅屋氏 ※山田絹子さん提供の写真

▲「山伏会館」にて昭和53年6月。前列中央・大国阿子さん(津村謙夫人)、右隣・三條町子さん、左隣・照菊さん、後列左端・幅屋氏 ※山田絹子さん提供

 

さらに私とは同年で、私が東葛高校でクラスメートだったHさんが東京の高校へ移り、転校先で武藤さんと親友同士になったという話を伝え聞き、私もこの放送の後、武藤さんと親しくなった。私の企画したコンサートに協力してもらったり、また、武藤さんが企画したなつメロファンの集まりのお手伝いもさせていただいたりした。

話がちょっと脇へ外れたが、金曜日のリクエストの定連の人達はお互いに連絡を取り合い、いつしか親しくなり、世田谷の唐沢利実さんをはじめ、川口のNさん、足立区のTさん…コレクターで知られる所沢の佐藤孝夫さん等々なつメロ仲間の輪も口こみで広がっていった。そうしたなつメロファンが私の家へも集まるようになり、私の家は一層賑やかになった。

「羽織の紐」に込められた想い

船橋市の新井馨さんも熱心ななつメロファンのお一人だった。

新井さんは、戦時中陸軍の騎兵隊に属し、その厳めしい風貌から、往時はさぞ立派な「兵隊さん」だっただろうと想像された。

しかし、新井さんは黄河流域の激戦のなかで、右腕を失う不幸に遭い、身障者用の車で、左手一本で運転して私の所へ通って来た。

初めて私の家へ来てくれた折、私がコーヒーを淹れていると、「すみません。私コーヒーはいただきません」とのこと。「お嫌いですか?」と訊くと、「大好物なんですけどネ」と言うので、何か願掛けでもしていて、コーヒー断ちをしているのかと思い、日本茶に淹れ直した。新井さんは、お茶を美味しそうに飲みながら、「根本さんというのは不思議な人だなァ。初対面なのに…」と断りながらぽつりぽつりと自分から思い出を語りはじめた。

新井さんには、かって愛する許嫁(いいなずけ)の人がいたそうで、赤紙が届いた時二人で川崎大師へお詣りし、帰途、喫茶店でコーヒーを飲み、別れを惜しんだという。彼女は、「きっとよ。きっと帰って来て!」と目に一杯涙をため、突然意を決したように着ていた羽織の紐をむしり取って新井さんに手渡した。新井さんは、それを何物にも代え難いお守りとして胸に抱いて兵営の門をくぐった。

中国大陸での転戦また転戦。新井さんの唯一の心の支えは、その「羽織の紐」だったという。

そして前述の不幸。新井さんは重傷を負ったまま、内地へ送還された。戦局も悪化、東京駅八重洲口のカンカン照りの下で担架に乗せられたまま、かなり長い時間放置されていた苦痛の時間を新井さんは目を潤ませながら話してくれた。

「野戦病院で生死の境をさまよった時は、血だらけになった羽織の紐をこの左手にしっかり握りしめていたんですが、日本へ着いた時は、どこへいってしまったのか、なくなっていたんです」。

―新井さんの話は続く…。やっと落ちついて、許嫁の消息を調べてもらったところ、何と許嫁のその人は空襲で亡くなっていたという。「川崎大師の帰り、二人で入った喫茶店。私はあの日のコーヒーを最後に、コーヒーを断ちました。あの日から私はコーヒーを一滴も口にしていません…」。

 

番組の司会を務めた武藤礼子さんと筆者の写真

▲番組の司会を務めた武藤礼子さんと筆者

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新井さんの顔はくしゃくしゃになっていて、溢れ出る涙を左手で拭いつつ、顔を伏せて嗚咽していた。

しばらくして落ち着きを取り戻した新井さんは、「初めてお伺いした家で、何でこんな話をしてしまったんだろう。女房にも誰にも一度も話したこともないのに…」と言って淋しそうに笑った。

それ以来新井さんは、かなり頻繁にわが家へ訪れてくれて、私のコレクションの中から好きな歌を夢中で選んで、持ち帰っていた。

新井さんは、もっぱら戦前、戦中の歌ばかりで戦後の歌には目もくれなかった。

私の集めていたテープの量に驚き、私が聞かれる質問に色々答えたので、以来私を冗談で「校長せんせい」と呼ぶようになった。

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「全国なつメロ愛好会東京支部」

新井さんをはじめ、なつメロファンの輪はどんどん広がって行き、SPレコードのオリジナル音源にこだわって集めたテープも膨大な数になった。

当時若年で熱心ななつメロ研究家だった郡修彦さんと昨年久し振りにお会いしたが、現在は拓殖大学の図書室に勤務しながら愛宕山のNHKの放送博物館や武蔵小山のライブハウスで、定期的に「なつメロ」の蘊蓄(うんちく)を語っているという。

地下鉄日比谷線の入谷駅で下車し、昭和通りを上野方面に向かい、すぐ左へ入った路地の奥に「山伏会館」という大きな古い建物があった。その2階の舞台つき畳敷きの大広間で毎月最終日曜日の午後、「全国なつメロ愛好会東京支部の集い」という、何ともクレージーな会が開かれていた。

武藤礼子さんや、FM東京の「日本のうた」の担当をしていた幅屋三樹さんに強引に誘われて私も出席するようになった。人前で歌うなんて私には想像も出来ず、かなりためらったが、この会では普段聴けないめずらしい歌を聴くことが出来るので思い切って出席した。各自昼食持参、手製のカラオケテープ持参で、カラオケのない人にはアコーデオンの伴奏者も控えていた。大体戦前から昭和35年頃までの歌―という決まりみたいなものがあり、常に50人位の人が集まってのどを競い合っていた。

昔、ラジオから流れた「今週の明星」のテーマ曲に乗って、幅屋さんの「今週の明星!」というアナウンサーの口調も昔のままに、一同の大合唱で幕開け。続いて「なつメロ愛好会の歌」の合唱。さらに最近物故された歌手のヒット曲を3曲程メドレーで歌って喉ならし。それから受付順に思い思いの歌が続くという流れだった。

私は当初「聴くだけ」という約束で参加したが、武藤さんや幅屋さんに舞台へ文字通り引きずりあげられて、仕方なく赤坂小梅さんの「浅間の煙」を冷や汗ぐっしょりで歌った。「馬子唄を入れますか?」係の人に言われたが、何とシャンシャンと馬の鈴まで用意されていたのには正直ギョーテンした。

昭和58年12月30日、その日の東京は霏霏(ひひ)として雪が舞っていた。新井さんと他にお二人。私達は銀座の並木座で、戦前の映画「蛇姫様」と「エノケンの法界坊」を観た後池袋へ廻って、私が親しくしている手打そばの「一栄」で年越そばを食べた。前述の幅屋さんと、中学時代の恩師W先生もお招きしたのを覚えている。しばらくして新井さんは不帰の人となった。通夜の席で、長い交流だったのに新井さんの奥さんに初めてお会いした。

「根本さんですか?私はずっと根本さんに嫉妬してました。根本さんから電話というと、『ほいほい』と言って長い夫婦生活に私には一度も見せたことのない笑顔で受話器を取るんですもの…」。ちょっと恨めしそうな笑みをふくんだ眼で話しかけてくれた。

程なく幅屋三樹さんも逝き、武藤礼子さんも平成8年10月29日急性心不全で71歳の生涯を終えた…。

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