「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(41)

「昭和天皇画帳」と、うしおそうじ

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

「昭和天皇画帳」を描いた画家たちの写真 ▲「昭和天皇画帳」を描いた画家たち(前列右うしおそうじ、後列右端筆者、右から5人目小松崎茂)

昭和天皇の御容態が良くないというニュースが、毎日のようにテレビで報じられていた。

そうした中へ、うしおそうじ先生から至急会いたいという連絡が入って来た。

うしおそうじ先生─本名鷺巣富雄。大正10年、東京は芝の生まれ。チャキチャキの東京っ子である。

戦前の昭和14年東宝映画に入社し、円谷英二さんの下で特撮を、大石郁雄さんの下で動画を学んだ。戦後の昭和23年、有名な東宝争議が起こった。2千人の武装警官に米占領軍も出動し、戦車、騎兵が待機。「空には飛行機、陸には戦車。来なかったのは軍艦だけ」と世間を騒がせたこの大争議を機に、うしおさんは東宝を退社。画才を生かして児童マンガ家に転進してその世界で大活躍をした。代表作は、「朱房の小天狗」「おせんち小町」「チョウチョウ交響曲」「どんぐり天狗」…などなど。

うしおさんの描く緻密な時代物マンガは多くのファンを獲得。一時は、手塚治虫先生と人気を二分する勢いだった。そして、そのうしおさんには、本名の鷺巣富雄さんで活躍したもうひとつの顔がある。

昭和35年、映像製作会社ピープロダクションを設立。TVアニメ「0戦はやと」「ハリスの旋風」(ちばてつや原作)「マグマ大使」(手塚治虫原作・実写版)「宇宙猿人ゴリ」そして、「快傑ライオン丸」…などを製作した。

これらの作品は昭和レトロの風にも乗って、現在再評価され、熱心な研究家も出現している。私は、漫画家うしおそうじ先生は読者としてよく存知あげていたが、個人的なお付き合いは、Pプロ設立時頃からだったかと思う。

時間との闘い。16画家が結集

「昭和天皇画帳」の表紙 ▲「昭和天皇画帳」(ノーベル書房)

さて、そのうしお先生から至急に─という連絡をいただき、先生と二人新宿で待ち合わせ、ノーベル書房へ出向いた。

ノーベル書房は、新宿歌舞伎町のど真ん中にある古いビルの一室にあった。何でも戦後「肉体の門」で大ブームを起こした田村泰次郎先生が建てたビルのひとつと聞いたが、かなり老朽化というか荒廃化しており、とっくに立ち退きを迫られているのに入居者が(ノーベル書房を含め)立ち退きに応じないので、ビルの管理会社はビル掃除を一切放棄していたので、トイレを覗いて、その汚さに吃驚してしまった。

用件というのは、うしお先生が、昭和天皇の一代記をマンガで執筆するので、せめて表紙は、重みのあるイラストで飾りたく、その表紙絵を私に描いてもらえないか─という依頼の話だった。

ノーベル書房の山本一哉社長は、ユニークというかかなり個性的な人で、うしお先生と山本社長は前々から親しい間柄だったようで、この日は三人で大いに話がはずんだ。

さて肝心の用件は、私が「昭和天皇のマンガはすでに店頭に出ていますよ」と言ったのでお二人も驚き、豪華写真集と同時発売という予定も聞き、これも私が「新聞社から写真を借りるんでしょうが、凄い割高になり、第一時間的にも新聞社に敵いっこないでしょう」という反問に、お二人はしょんぼり。しかし、話の途中で私の頭に急にひらめいたものがあった。ちょっと余談になるが、イラストレーターとしては大先輩であり、かねてより憧れていた沢田重隆先生がいた。その沢田先生がナショナルの松下幸之助の一生を描いた『画伝松下幸之助 道』というすばらしい画集があった。発行は昭和56年5月5日。松下電器産業株式会社刊という非売品の画集で、沢田先生ならではの大労作で、私も大切にしている本であった。

代表作のひとつ「どんぐり天狗」の写真 ▲代表作のひとつ「どんぐり天狗」

「昭和天皇の一生というか、昭和史を全部イラストで仕上げてみたら…」。とっさの思いつきで至極無責任な発言をしてしまった。うしお先生と山本社長は私の提案を物凄く喜んだが、この画集をお二人ともに御存知無かったので、翌日本を持って再びノーベル書房へ─。即決定されたのは良かったが、248頁に及ぶ大冊を一身に引き受ける羽目になってしまった。

天皇陛下の御病状も逼迫している。時間がない! その上予算もない! しかし、言い出してしまったのは私自身だし、やり甲斐のある仕事でもあるので、私はそうそうに社を辞して家へ飛んで帰った。時間が限られているので、手分けをしなくては間に合わない。安い画料で引き受けてくれる優秀な人を選ばなくてはならない。

編集長の篠原氏が作った昭和史の流れをもとに私の戦争が始まった。

師の小松崎先生が二つ返事で引き受けてくれたのを始めとして、仲間、友人、先輩…私が選んだ人達は皆快諾してくれたが、資料はほぼ全点私が揃えなくてはならない。私は書庫に閉じこもって、文字通り無我夢中の毎日を送った。勿論私自身も一員として頑張って描かなければならない。

イラスト協力者は私を含め全部で16名。皆熱心に取り組んでくれて、時間切れで不満が残る作品もいくつか混じったが、どうにか間に合った。予め御大葬用の頁を空けておいたので、これも一晩で仕上げた。

昭和天皇の誕生から始まり、大正天皇の崩御─そして長い昭和の歴史を駆け足ではあったがイラストで綴り、最後は皆様の御記憶にもあると思う小渕官房長官(当時)が捧げた「新元号は〈平成〉です」の場面でしめくくった。

発行は平成元年3月30日、定価は2万8千円という豪華本に仕上がった。

うしお先生の「昭和天皇」というマンガ本の話から端を発し、こうして「昭和天皇画帳」は完成した。私はこの題名が不服で、「昭和史」を強調してくれるように頼みこんだが、サブタイトルに「イラストで綴る昭和の歴史」と入ったが、題名は社の方針に強引に寄り切られてしまった。

うしお先生の出番が無くなってしまいそうだったので、私は戦前と戦後の間に、「漫画詩・子供の遊び昭和史」という頁を作り、「昭和初期の子供たち」「露地うらの子供たち」「田舎と子供たち」「焼け跡と子供たち」「駄菓子屋と子供たち」「露店と子供たち」「物売り大道芸など」─という12頁の力作を描いていただいた。東京っ子のうしおさんからは、「田舎の子供の生態が判らない」と言って泣き言めいた電話が入ってきたりした。協力者の一人森態猛先生は、ずっと後になっても、「楽しい仕事だったなァ。あんな仕事はもう無いだろうなァ」といつまでも懐かしがっていた。

手塚治虫の伝記が絶筆

絶筆となった「手塚治虫とボク」の写真 ▲絶筆となった「手塚治虫とボク」(草思社)

うしお先生は今までの自分の生涯で忘れ得ぬ人として4人を挙げ伝記4部作を書きあげるのを夢としていた。第一が東宝時代世話になった映画監督の山本嘉次郎さん。そして特撮監督の円谷英二さん。更に漫画家仲間だった手塚治虫さん…。しかし、三人目の手塚治虫さんを執筆中に力盡きて急逝してしまった。未完に終わった手塚先生の伝記は、うしおさんの没後、何人かの人の協力で「手塚治虫とボク」という本となり、平成19年草思社より出版された。

うしおさんは、4人目の三船敏郎さんの評伝を書くのを何よりも楽しみにしていた。親友であり、戦友でもあった三船さんへの熱い思いを私は何回も直接伺っており、その取材で映画監督の谷口千吉さん宅へも伺っていた。近々改めてお伺いする時は、ぜひ同行してほしいと誘われていた。「奥様の八千草薫さんは本当に良い奥さんですよ。ぜひご一緒しましょう」と何回も誘われた。

うしおそうじ─鷺巣富雄、平成16年3月28日永眠。享年82歳だった。通夜の席で私は手塚先生の奥様の悦子さんと隣同士になった。

未完の手塚治虫伝(当時)。そして下準備で終わってしまった「三船敏郎伝」。うしおさんのやり残した仕事への無念さを思い、暗然とした気持ちを胸に帰路についた。

 

 

 

 

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