「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(43)

井上徳之助さんとジャズの芦田ヤスシさん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

左から世良譲さん(ピアノ)、芦田ヤスシさん(テナーサックス)、光井章夫さん(トランペット)の写真 ▲左から世良譲さん(ピアノ)、芦田ヤスシさん(テナーサックス)、光井章夫さん(トランペット)

井上徳之助―通称徳さん。旧い友である。

徳さんは昭和32年秋頃から、集英社発行の雑誌『おもしろブック』の編集アルバイトとして、私の師小松崎茂宅に原稿を受け取りに通って来るようになった。これが、徳さんとの出会いとなった。

昭和32年と言えば、まさに映画「三丁目の夕日」の時代である。ちなみに月刊誌『おもしろブック』は山川惣治の「少年王者」を柱に昭和24年9月の創刊で、徳さんがバイト中の昭和35年1月に『少年ブック』と改題され、昭和44年4月に廃刊となった。

しかしこの流れは週刊誌時代の『少年ジャンプ』へ移行され爆発的大人気を呼んだのは周知の通りである。小学館を母体に、全員で7人の会社。『おもしろブック』は4人で始めたそうで、今や大出版社になっている集英社のルーツになったのが、『おもしろブック』だった。徳さんはこの編集部で昭和36年までバイト生活を送った。

徳さんは在学中からボディビルの世界に入っていて、作家の三島由紀夫氏とはかなり親しい交流を続けていたという。ボディビル仲間として、三島家にも親しく出入りし、三島由紀夫をめぐっての知られざるエピソードを私は沢山聞かされている。紙幅の関係で省略せざるを得ないが、豪放に見えながら、実は繊細な神経の持ち主の徳さんは三島氏に当時大変可愛がられたらしい。

その後の徳さんは、スポーツクラブを経営したり、ボディビル協会や、スキー教室…等色々な仕事に携わった。

徳さんの人生に大きな影響を与えたのが母方の伯父中村弘さんの存在だった。

中村さんは、イベント関係の仕事で幅広く活躍。芸能会に多くの知己を持っていた。

 

楽隊を率いて颯爽と渋谷の街を行進する井上徳之助さんの写真 ▲楽隊を率いて颯爽と渋谷の街を行進する井上徳之助さん

後にプロのブラスバンドとしては日本で唯一と言われた16人編成の後楽園音楽隊を設立し、初代隊長として、後楽園遊園地を中心にデパート、上野動物園などのイベントで演奏会を行った。当時インドネシアのスカルノ大統領が来日した折、羽田空港で歓迎の演奏も行ったという。その中村氏が昭和44年後楽園遊園地で仕事中に倒れて他界。徳さんはその後を継いでマネージャー、2代目隊長を経て井上音楽事務所を設立。昭和48年1月より、呼称も「東京吹奏音楽隊」と改め、隊長となった。東京の街々はもとより、徳さん率いる華やかな音楽隊のパレードは、東京近郊の町でも活躍。柏市でも丸井、そごう、高島屋、イトーヨーカ堂など各開店時のイベントには来柏して盛大な演奏を行った。

抱腹絶倒の芦田さんの話

お互い住む世界が異なったので、しばらくの空白期間があったが、ジャズが好きで寄席に詳しく、無類のオールド映画ファンの徳さんとは会えばいつも喧喧諤諤。時を忘れて語り合っている。その徳さんからサックス奏者の芦田ヤスシさんを紹介された。十数年前のことである。

私はジャズの世界はあまり詳しくないが、サックス奏者としては、「松本(英彦)か芦田か」と言われた程のビッグな存在で、世界的サックス奏者サム・テイラーさえ来日した際芦田さんの演奏を聞いてまわったという伝説を耳にしたことがあった。私も徳さんを通して、師小松崎茂の傘寿の会、そして没後の一周忌、三回忌などにも協力していただいた。演奏はもとより、魅力的な人柄、話題豊富な芦田さんとは、すっかり親しくなった。芦田さんはかって「芦田ヤスシとメローノーツ」のバンドリーダーとして活躍。来日したミルス・ブラザースや、トリオ・ロス・パンチョスと共演したり、戦後のジャズと軽音楽界をリードして来た貴重な存在である。戦時中は自宅のある大井町から南千住汐入の航空高専まで通学したという。南千住生まれの私にとって汐入は思い出深い地で、その一事からも嬉しく懐かしく、初対面からとんとんと話がはずんだ。

芦田さんの話はどれもこれも面白く聞き流してしまうのが勿体ないくらいの話ばかりで、例えば―予科練へ入った友人からの話。その友人の仲間が自宅へ出した手紙が上官の目にとまり、予科練の名折れだと言って往復ビンタを食らった話―。彼は両親宛の手紙に「憧れの七つ釦(ぼたん)は桜に錨(いかり)の予科練に入り…」という書き出しだったが、釦が鉛(なまり)に、錨を猫(ねこ)と書き間違えていたという話。また終戦直後冬の北海道へ演奏旅行に出かけた折、深夜に大きな駅へ停車したので窓ガラスを拭って駅名を見た一人が、「あっチャンゲヘレだ!」と叫んだが、聞いたことがない駅名なので、確かめてみたらCHANGE HERE(のりかえ)の間違いだったという話。こうした抱腹絶倒な話が後から後から出てくる。

10代歌手としてデビューした3人娘、水谷良重、東郷たまみ、朝丘雪路は、親の七光りということで七光り3人娘と言われたが、朝丘の父日本画家伊東深水、東郷の父洋画家東郷青児が「娘をよろしく」と日劇出演中の芦田さんの楽屋へ挨拶に来たそうだが、「そんな偉い人だと知らなかったので、軽くあしらって帰ってもらった」という話も面白い。

石原裕次郎の映画「嵐を呼ぶ男」のドラム合戦の景でも芦田さんは活躍している。

小野満とフォー・ブラザーで、白木秀雄といっしょに、美空ひばりのツアーでジャズをやったり、昭和32年、白木秀雄クインテットの創立に参加して、コンサートをさんざんやった後、同34年、赤坂のホテル・ニュー・ジャパンのオープンと同時に、ニュー・ラテン・クオーターが開店して、ビッグ・バンド「メローノーツ」を作って専属となった。

赤坂には、既にコパカバーナが出来ていて、エリザベス・テーラーや、マリリン・モンローも遊びに来て評判だったという。

徳さんの話から少し横道にへ外れすぎたが、ジャズメンとして、サックス奏者としての芦田さんの全盛時は物凄かったそうで、エピソードも豊富できりがない。

患者仲間の「ガイライズ」

徳さんから、大井町の駅に近い東芝中央病院でジャズのコンサートがあり、芦田さんも出演するというので友人を誘って出かけることにした。このコンサートは今も時折開かれているそうだが私が出かけたのは、手許の記録によると平成15年6月18日―とあるから、もう7年も前のことになる。「ガイライズ」という楽団名は東芝病院に入院しているか外来患者のジャズメンで構成されているのでこの名を付けたそうで、洒落っけたっぷり。各々知る人ぞ知る錚々たるジャズメンだった。入院中で点滴をしながら登場したピアノの世良譲(ゆずる)さんは、「看護婦さんに『茶色の尿瓶(しびん)』をリクエストされた」と冗談を言いながらグレンミラーの「茶色の小瓶」を軽快に演奏してくれた。

その世良さんも、会の翌年(平成16)2月17日、71歳で他界している。

その日ボーカルを担当した芝小路豊和さんも今年3月不帰の人となった。ちなみに芝小路さんの伯父にあたる芝小路男爵が、明治後期アメリカからジャガイモを導入したが、それに由来して「男爵薯」の名が付いたのだという。

病院の患者さんが帰った後での一階ロビーでのジャズコンサート。楽しかった! 終演後芦田さん達との二次会も楽しかった!

先日、徳さんと柴又で待ち合わせ、帝釈天参道の川千家で鰻を食べながら、時を忘れて昔話をしゃべりあった。私のことを陰で「寅さん」と呼んでいる人がいるが、独身を通した徳さんもまさに愛すべき寅さんで…。

この日、二人の老いた寅さんは時を忘れてオシャベリに興じた。力道山はじめ多くの芸能人達との出会いや、特に伯父の中村さんと出かけた当時多くの人が憧れた原宿のセントラルアパート。越路吹雪邸での思い出話は圧巻だった。

芦田さんは先頃最愛の奥さんを亡くし、今悲しみの底にいる。昭和4年生まれ。航空高専5期生。近く徳さんと3人で会おうと約しているが、芦田さんのサックスをゆっくり聴きたいと思っている。芦田さん頑張って!

 

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