「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(47)

コンバットの帝王 上田信の結婚

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

上田信氏が描いた田宮模型のプラモデルのボックスアートの写真▲上田信氏が描いた田宮模型のプラモデルのボックスアート

池袋発「志賀高原行」の夜行高速バスに乗り込んだ時、一行6人の中の一番年長者だった大西將美さんは、「これはちょっとヤバイナ」と思ったという。

大勢のスキー客にまじってこの6人は、ちょっと異様だった。6人はミリタリー姿で身をつつみ、手持ちの軍用ザックからは銃身や銃床がはみ出ている。

実は、この一団のリーダーが上田信氏だった。モデルガンを使って、雪山でコンバットごっこをして写真を撮るという目的の雪山行だった。到着した日の夜、翌日の撮影に備えて銃の手入れをしていた一行の行動を覗き見て、宿の従業員が腰をぬかした。早速110番通報。更に驚いたのは、長野県警だった。僅か3年前の昭和47年2月に起こった浅間山荘事件を含む連合赤軍の大騒動が一段落したばかり。「すわ!」ということで緊急出動となった。

何も知らない一行は翌朝に備えて早寝しようとした矢先、部屋の電話が鳴り、受話器をとったと同時に、完全武装した長野県警の機動隊が、どっと部屋に雪崩れ込んで来た。

あっという間に6人は1人1人に分けられ警察の鋭い訊問が始まったという。私の家へも上田信氏の身元確認のため池袋警察署から連絡が入った。「雪山へ行って来ます」という報告だけを聞かされていた私は、「遭難?」と思い、慌てて問い返したが、警察側は答えてくれず、同じように留守を預かる新妻の妙子さんからもすぐに心配して電話が入った。

 

コンバットごっこで軍装した上田氏の写真 ▲コンバットごっこで軍装した上田氏(左)

結局、これは誤報による警察の勇み足と判明したが、窓の外には本物のスナイパー(狙撃手)の銃口がずらり。決死の機動隊員の数はもとより、報道陣も多く駆けつけて大騒ぎとなった。警察の要望で大新聞への報道は回避されたが、地方紙には大きく報道されてしまった。6人はかなり油を絞られたという。

ミリタリーファン。またはコンバットファン。軍装、兵器、特に銃器のファンは全国的に、いや世界的にも数多く、私自身にはその世界は全く理解も出来ないが、今や上田氏は陰で「コンバットの帝王」とも呼ばれ、その道のファンの間では偶像的存在になっているそうで、韓国や、特に台湾では著書のサイン会などで訪台した時など、会場でも待ち受けた多くのファンに囲まれて「老師」と呼ばれ大きな存在になっているという。

聖地「弥生荘」の生活

結婚の報告に郷里青森へ向かう上田信・妙子夫妻の写真 ▲結婚の報告に郷里青森へ向かう上田信・妙子夫妻

実は、上田氏も前出の大西氏も私とは小松崎茂一門での同門であり、文字通り同じ釜の飯を食った─という仲間である。

特に上田氏とは、彼の中学時代からの付き合いで、何しろその半世紀近い歳月には思い出がずっしり詰まっている。

上田信氏は、昭和24年3月青森市に生まれた。少年時代から小松崎茂に憧れ、昭和39年から内弟子として住み込んだ。以来昭和44年まで、数多い小松崎一門の中でも一番長い住み込みの書生生活を送った。利発な信少年は師の小松崎先生からも、ことのほか可愛がられた。

小松崎家から独立して、2年程モデルガンメーカーのMGCに籍を置いたことがあった。

ちょうど大阪万博が開かれた頃で、世はまさに高度成長期の真っ只中だった。

私はテレビキャラクターのキャラクター商品用のイラストの仕事に忙殺されていた頃で、器用に何でもこなし、仕事も速い上田氏には片腕となってもらい、大いに助けられた。

当時彼への感謝として北陸へ旅したことがあった。昭和48年、アルペンルートを通って宇奈月温泉に一泊。金沢を観光して、能登まで足を延ばし和倉温泉に泊まって、ハイヤーで能登を一周した。その途中「縁結びの神様」として名高い気多神社に参詣した。普段特別信仰心のない上田氏が奮発して賽銭を投げ入れたのを見て驚いたが、霊験あらたかというか帰京後すぐに、今の妙子夫人と巡り合っている。上田氏の義姉の紹介で、スケッチのモデルとして出会った二人はすぐにお互い一目惚れ。「彼女と会ってほしい」という上田氏からの連絡で、半信半疑有楽町駅で妙子さんと初めてお会いした。あれよあれよで私は上田氏を伴い、厳格だという妙子さんの御両親に挨拶に行くことになった。

長髪を短めにし、服装も整えた上田氏を伴い、清野家(妙子さんの実家)へ緊張して出かけた日が懐かしく思い出される。

出かける前、妙子さんから「父は田舎者で怒ると手を出しかねないから失礼があったらお許しください」と言われ、内心はびくびく。私にすべてを任せきった上田氏より私の方が初めは緊張でこちこちになっていたようだった。

お逢いした御両親は温かいすばらしい方達で私は本当に嬉しかった。

それにしても、たしか某大銀行の秘書室に勤務していた美女と、何の保障もない浮草稼業の若者との出逢いと結婚は、「縁」という言葉以外他に言葉は見付けられず、私は能登の気多神社のご利益と、今も深く信じている。

結婚式は、昭和49年5月青学会館で行われ、もちろん晩酌人は私共夫婦がつとめさせていただいた。上田氏は今まで住んでいた池袋高松の古いオンボロアパート(失礼!)弥生荘に妙子さんを迎え入れた。

沢山のドイツのヘルメットや軍服(全部本物)に囲まれ、その仕事場は数多いミリタリーファンの聖地ともなっていた。

手塚治虫をはじめ、多くのマンガ家が住んだ「トキワ荘」は後に有名になったが、上田氏の「弥生荘」もジャンルこそ異なるが、彼の膨大なコレクションとともに、ミリタリーファンにとってはあこがれの部屋であった。

上田氏はその後昭和59年に行徳に移り、更に昭和62年に浦安に移った。

ミリタリーファンのメッカ「弥生荘」に上田氏は通算10年程住んだが、10人程のシンパが集まって「弥生荘のサヨナラパーティー」が行われたのが平成20年のことで、アパートはその直後に取り壊され、姿を消した。

私にとっても懐かしいアパートだった。

 

「故郷に錦」の展覧会

プラモデルの箱を模した故郷・青森での展覧会の案内の写真 ▲プラモデルの箱を模した故郷・青森での展覧会の案内

上田氏は還暦を越したが、今も現役でバリバリ仕事をしている。今年は彼にとって正に良いことづくめの年となり、3人の子供も成人し、印西市に家も新築。郷里の青森県立美術館で開かれた「ロボットと美術展」に作品が展示されたほかに、郷土出身画家として「上田信展」が別に併設され、評判となった。彼の代表作60点余りが展示され、8月15日には講演会も開かれた。

文字通り「故郷に錦」を飾った訳である。

余談になるが、青森の「ロボットと美術展」は本年7月10日から8月29日で終わり、現在は9月18日から11月7日まで静岡県立美術館に巡回中で、この後11月20日から明春1月10日まで島根県立石見美術館に巡回する予定となっている。

「機械×身体のビジュアルイメージ」と副題がついているが、「鉄腕アトム」「鉄人28号」「機動戦士ガンダム」「グレートマジンガー」…等々テレビアニメのキャラクターも取りあげられており、上田氏の作品とともに、私の「イデオン」他数点も加えられている。

上田氏は無類の愛妻家であり、同時に妙子夫人はこれもちょっと類を見ない献身的な美しい奥様で、シニアで野球を続けている上田氏に手づくりのお弁当を持って応援に行くという─新婚のアツアツ時代が今も続いている。

紙数の関係で、今回は前述の大西將美氏に触れられなかったが、大西氏はタミヤのプラモデルの箱絵をはじめ、全国に多くのファンを持ち、あの「宇宙戦艦ヤマト」の松本零士氏も熱心なファンの一人と聞いている。

二人は同門の仲間として友として、良きライバルとして、今も競い合っている。

実は新聞記事なので上田氏などと書いたが、私は昔ながらに今でも「信ちゃん」と親しく呼んでいる。優秀な後輩2人(単に私が年上だというだけの話だが)は私のひそかな自慢であり、愛しく思っている。

 

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