「私の昭和史(第2部)―忘れ得ぬ人びと人生一期一会―」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和という時代を振り返ります。

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忘れ得ぬ人びと 人生一期一会(48)

月1回、懐かしい人たちとの“再会”

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

「秋田・西馬音内盆踊り」(筆者画)の写真▲「秋田・西馬音内盆踊り」(筆者画)

本シリーズは平成16年(2004)5月9日の「異能の画家小松崎茂と私」という表題で始まりました。現在は月2回発行のうち、1回分を私が担当しておりますが、当時は毎回の連載で、結局平成17年6月26日、26回をもってひとまず終了させていただきました。

しばらくの休みのあと、編集部の戸田さんの御要望に甘えて、第II部として現シリーズを手がけることになり、平成18年(2006)8月6日よりスタートしました。

1回目は来春早々満100歳を迎える「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の挿絵でお馴染みの中一弥先生と林家木久扇さんになる前の木久蔵さんのお二人の思い出話から始まりました。

以来毎月1回、私が出会った様々な分野の方達を順不同で思い出すままに書き連ねて参りました。そして今回は48回目を迎えました。

その間新年の特別編として「いろはカルタ今どこに」(平・17)、「年賀状に見るあの人の思い出」(平・19)、「失われた風景をたずねて」(平・20)、「小金原に昭和がやって来た」(平・21)等の特集も掲載しました。

これらの連載で苦労したのは、著作権法等により、図版や写真が手許に有っても自由に使用出来なかったことで、口惜しく残念に思ったことが何回もありました。

しかし私は毎月一回懐かしい人との思い出に浸り、本当に楽しい日々を過ごしました。

私は昨年暮れ、お茶の水の順天堂医院で心臓の大手術を行いました。8年程前に解離性大動脈瘤で講演中に倒れ、以来血圧計を傍らに、オドオドした生活を続け、月に1回松戸駅近くの新東京病院へ通院して来ましたが、昨年2月、大動脈瘤の大きさが危険数値を大きく上まわってしまい、手術ということになりました。循環器内科の金沢明彦先生には8年間もお世話になり、この大恩人金沢先生との出会いはこの上ない僥倖であり、先生には、執刀医に順天堂の天野篤教授まで選んでいただきました。

心臓の大動脈、冠動脈、心臓の弁と、10時間に及ぶ大手術でしたが、痛みひとつなく、むしろ楽しい入院生活で、順天堂の病室から新年の初日の出を拝しました。

“主夫”生活と4軒の家

左から筆者、矢口高雄、水木しげる、小松崎茂(平成5年)の写真 ▲左から筆者、矢口高雄、水木しげる、小松崎茂(平成5年)

私は53歳の時、妻を癌で失い、ちょうど10年余り両親と(長女は早く嫁ぎましたが)長男と二男を抱え、主夫生活を送りました。

私は大した稼ぎでもないのに今までに4軒の家を建てました。

2軒目の家は当時家族も多かったので、建坪74坪の家になってしまい、この家で妻を見送りました。その後柏の奥の方に60坪の土地を購入し、64坪の家を自分で設計して建てました。

もともと大好きだった父を喜ばすための家でしたが、地鎮祭の日に父が倒れ、癌ということで入院。そのまま旅立ってしまいました。

その上建築資金の不足分を他人任せにしたのが誤りのもとで、簡単に家を騙し取られてしまいました。

私はすってんてんの中で仮住まいの家へ移り、母を見送りました。

それでもノーテンキな故か、自分の甘さと不明を愧(は)じたり、悔いたりもありましたが、これも運命と割り切って、周囲の人達の御芳情に感謝しつつ明るく過ごして参りました。

長女、長男、二男も各々家庭を持ち、孫達にも恵まれ、3人とも自分の家を持ちました。まあ外見(そとみ)には、子や孫達に囲まれ、幸せなおじいちゃんといったところですが、長女からは、

「親がだらしないと子供はしっかりするものよ」とガツンと皮肉を言われています。

私は家内亡きあと、一人で長く主夫生活を送ったので、子供達に対しては男親というより母親感覚みたいなものが強いようです。

今住んでいる家は、親しくなった女性の友人Aさんに檄を飛ばされ、まさか今更と思いながら、また一軒家を新築しました。

2階に彼女一家が住み、1階に私という完全な二世帯住宅を建てました。─そんな次第で、私の今までの人生は住宅ローンを払い続ける人生だったように思われます。Aさんの娘2人は、この家から嫁ぎ、その後Aさんは実母を引き取ることになり、広々とした家がほしいと言って、すぐ近くにもう一軒中古住宅を求め実母と暮らすことになりました。

その実母は昨年2月に急に他界してしまい、彼女も病が悪化、「来年はまた私の家の2階に戻りたい」と言いながら、昨年10月急逝してしまいました。

私も病後の身体で、暑かった今年の夏の最中、童謡の絵本を一冊描きましたが、自分が思っている以上に体力が落ちていて苦労しました。無我夢中の人生でしたが今は気儘な一人暮らし。毎日来客と雑事に追われています。

昨日はTBSの取材で「昭和ロマン館」で朝10時から夕刻まで掛かってしまいました。放映される時間はほんの僅かと思われますが、ちょうど本日28日の深夜TBSで1時20分から「別冊アサ ジャーナル」という番組で放映される予定です。

夜更かしされる方は御覧になってください。

 

まだ書いておきたい人あれど

「踊り子とオゴオゴ」(筆者画)の写真▲「踊り子とオゴオゴ」(筆者画)

このシリーズに書いておきたい人はまだまだたくさんいらっしゃるのですが、随分長く続いたのでひとまず区切りをつけさせていただくことにしました。例えば、今年NHKの朝ドラで評判となり、文化功労者に選ばれた水木しげるさんなど懐かしい思い出がいっぱい有ります。親しくさせていただいている作家の新井恵美子さん。この方は雑誌『平凡』を創刊した岩堀喜之助氏のお嬢さんです。類い稀な描写力で活躍している洋画家の葵國華(ツァイ・ゴー・ファー)さん。この方の作品には一期一会の想いを実感しましたが、先日も再会して嬉しく思いました。葵さんの作品を定期的に展示している京橋の金井画廊主の金井充氏は、たしか松戸市在住と伺っております。折を見てまた書かせていただく機会に恵まれればと思っております。

本紙の連載を通じ、新しい知人も増えました。特に北区在住の黒須路子さんのお力で、札幌の方まで読者層を広げて下さっています。感謝、感謝です。再度お目にかかるまで、皆様の御多幸を心よりお祈り申しあげます。

最後に上州名物「八木節」をもじって─

「ハァーもっとこの先書きたいけれど、上手で長いはまた良けれども、下手で長いは読者の邪魔よ、やめろやめろの声なきうちに、ここらあたりで段切りまするがオーイサネー」

本当にありがとうございました。

※「私の昭和史」第・部は、テーマ、内容、開始時期ともに未定ですが、準備中です。しばらくお待ち下さい(編集部)。

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