「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(3)

紙製玩具で一時代を築いた小出信宏社

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

不時着した飛行機の前で小出社長(右)と筆者の写真▲不時着した飛行機の前で小出社長(右)と筆者

紙製玩具メーカーの小出信宏社という小さな会社を知る人は、ほとんどいないのではないかと思う。それが近頃ネット上で、この会社を調べる人が何人か現れて、先日も岐阜のKさん、北海道釧路のMさん、松江市のNさんと相次いで訪ねてきてくれた。

皆さん、驚くほど熱心に調べているが、各々持参したメモや資料は根拠のない想像や伝説に近いものが多く、釧路のMさんなどは自費で「こいでを訪ねて」という本まで作って持ってこられたが、内容はどこからどう調べたのか、びっくりするほど正確さを欠いたものだった。

最近、ファンやマニアの間でこうした人達が現れてきているのは、「こいで」という名もない会社が日本におけるマスコミ玩具を扱ったその先駆けとなった会社のひとつであったという事実によるものである。

さらに昭和40年代に入って、小出信宏社の営業部が独立し、「万創」という会社を設立させて、フジテレビで刊行して話題となっていた「とびだすえほん」の出版を引き継ぐことになった。3年程のほんの短い期間だったにせよ、「とびだすえほんの万創」は当時一世を風靡した。「万創」は昭和48年6月に倒産し姿を消し、小出信宏社も関連倒産しているが、全国のマニアの間では非常に気になる存在であるらしく、他にもいろいろ問い合わせが舞い込んできている。

万事一流好みの小出社長

年に一度集まる小出信宏社の元社員の皆さんの写真▲年に一度集まる小出信宏社の元社員の皆さん

私が小出信宏社を知ったのは昭和30年のことだった。師の小松崎茂先生のところへ「こいで」から「いろはかるた」の画稿依頼があり、その時初めてその存在を知った。

「こいで」の社長、小出信一氏は、会社は小さいのに万事一流好みで、「ぬりえ」でも「かるた」でも一流の童画家以外に依頼をしなかった。事実、社のマークにしても、人形をかたどったマークは、知る人ぞ知る童画界の大先達、初山滋先生のものであり、後年そのマークの周囲を飾ったのは「くるみちゃん」の漫画や、すばらしい童画で一世を風靡した松本かつぢ先生だった。ふとした縁で知り合った小出社長とは妙に気が合って、その後仕事が終わってから毎日のように私のところへ訪れるようになった。

ちょうど現在の国道6号線が開通したばかりの頃で、車の量も当時は少なかった。

社長はいつもオート三輪車の助手席に大きな身体を押し込んで座り、通ってきた。

そろそろラジオやテレビの人気番組をモチーフにした商品が出回りはじめた頃で、小出社長もそうした仕事は大先生方にお願いもできず、駆け出しの私にお鉢がまわって来るようになった。昭和33年、テレビに登場した大瀬康一主演の「月光仮面」は大ブームとなり、同年、日本で初の長編カラーアニメ「白蛇伝」が東映動画で制作、公開されて、私は否応なくテレビキャラクターのグッズ用のイラスト制作に没入していった。参考用に各テレビ局のスタジオへ撮影に通うこともしばしばだった。

私はそれまでサラリーマン生活の経験が全くなかったので、社長の厚意で社員旅行にも客分として同行させていただいたり、草野球の小出チームにも入れてもらった。

3年前から、毎年「小出信宏社の集い」が開かれるようになり、今年も5月22日に、19人の元社員が金町駅近くの小料理屋に集まった。

 

初めてのサラリーマン生活

「こいで」のぬりえ (C)小学館(C)虫プロの写真▲「こいで」のぬりえ (C)小学館(C)虫プロ

その頃の小出信宏社にまつわる思い出は、それだけで一冊の本ができてしまう程だが、昭和40年春、事情があって企画室長の六郷僚一氏が、できたばかりの「タツノコプロ」(「科学忍者隊ガッチャマン」「みなしごハッチ」など)に事実上引き抜かれることになり、後任に私を…ということで、小出社長から幾日にもわたって口説かれることになった。結局他の社員の人達からも温かく誘われ、何と2か月分の給料を「お支度金」としていただき、「一年間だけ」という条件で、初めてのサラリーマン生活を味わうことになった。

家族をはじめ、周囲の友人達からは「一週間ぐらいしかもたないだろう」と冷やかされたが、会社の居心地は悪くないし、往復のラッシュにもすぐに慣れた。その頃小出信宏社は社長の人望と経験を買われ、「鉄人28号」の版権窓口を引き受けていて、紙製玩具製造の多忙さ以外にも忙しい毎日を送っていた。

入社の際、「一年間だけ」という条件の他に暮れにはアメリカに旅行させてくれる、という話もあったが、会社の経営の苦しさもよく分かっていたので当てにはしていなかった。

それが11月の末、経理を担当していた社長夫人に社長室に呼ばれ、「やっと都合ができました」と言って渡航費用として100万円の小切手をいただいた。昭和40年のことである。今だといったいいくらくらいになることだろうか? 1ドルは360円で、闇ドルを買うと500円だった。日本円の持ち出し金額の限度が十数万円。日航ももちろんジャンボ機時代の前の話で、アメリカの東海岸への直行便はまだ運行されていなかった。機種はDC・8でハワイで給油と入国手続きを終えてロサンゼルスへ向かった。日本では「オバQ」が爆発的にヒットしていた頃で、小出社長との二人旅の私達はディズニープロ、ハンナ・バーバラプロ(ほのぼの家族他)、キング・フィーチャーズ・シンジケート(ポパイの版権元)を訪ねて実りある2週間近い旅をしたが、最後にサンフランシスコからハワイへ向かった機が洋上で左エンジンからの出火で炎上。オークランドに不時着して九死に一生を得た。お蔭で楽しかったアメリカでの思い出が一気に全部吹っ飛んでしまったような大事故だった。

50年近い歳月を経て集まったメンバーとの思い出話から様々の出来事が心によみがえってきた。気が付くと、集まった人達の中でいつの間にか私が最年長になっていて、「こいで」を研究しているマニアの人達にも、客観的にかつ正確にお話しできるのも私だけになってしまったようで、折を見て昭和30年代から40年代にいたるテレビキャラクターの全盛時代を書き残すように色々な人に薦められてもいる。しかし、かって安藤鶴夫先生が山川静夫さんに与えたという色紙の「知ったかぶるな、たかぶるな、同じぶるなら阿呆ぶれ」という言葉を改めて思い出し、少し逡巡している。

小出信宏社は、寅さんで有名な葛飾柴又の隣り、京成高砂駅の近くにあった。社屋はもと銭湯の跡だそうで、奥の工場内にはタイルの浴場の跡も残っていた。

程なくして、営業と私達企画室は日本橋の人形町近くのビルへ移った。一年だけという約束は果たしてもらえず、結局6年在籍してしまい、「とびだすえほん」の最盛期を見届け、強引に退職した。退職時、日本テレビ、TBS、フジテレビ、東映他の窓口担当者から受けた大きな温情は、今も心の底に深く深く残っている。「とびだすえほん」で共に苦労したフジテレビの横沢彪さん(ひょうきん族等でたけしさん、さんまさん達を育てた)も次の会う機会を約したのに一足先に彼岸へ渡ってしまった。昭和40年代後半、私は最後の小出信宏社の社員となり、仕事上では「小出」と「万創」の2枚の名刺を使い分けていた。

集まった19人は、社員全体からすればほんの一部の人だが、改めてひとりひとりに感謝の言葉を心から申し上げる次第である。皆ありがとうネ!

お詫び

松戸よみうり第741号(5月22日発行)3面、「昭和から平成へ 第3部 夢見る頃を過ぎても(1)フランス映画の輝きと秘田余四郎」(根本圭助著)の中見出し『「不実なる美女」の乱舞』以降の文章の中で、高三啓輔氏が著した「字幕の名工・秘田余四郎とフランス映画」(白水社)の中の表現とほぼ同じ表現の文章が6か所そのまま掲載されている、また、秘田氏にまつわる基本的な情報についても出典が書かれていない、との指摘が著者の高三氏からありました。

根本氏は文中で高三氏の著書を読んだことに触れてはいますが、引用の表記が明確ではなく、根本氏本人の文章のようになってしまっています。これは、高三氏の著作権を傷つけるもので、高三啓輔氏に心よりお詫びいたします。

 

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