「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(4)

義太夫「藝阿呆」と安藤鶴夫

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

安藤鶴夫先生の写真(村瀬博撮影)▲安藤鶴夫先生(村瀬博撮影)

私は、安藤鶴夫先生の熱烈といっていい愛読者の一人で、先生の著作物はほぼ全冊書架に並んでいる。作家として、演劇評論家として、時には自ら義太夫を語り、小唄を唄い、ラジオ(ラジオエッセイ良かったなア)、テレビ、映画にも出演するという多彩な活躍をした安藤鶴夫。今年はその安藤先生の生誕100年に当たるという。

それを記念してか、作品が新装版として次々に発行されていて、お嬢さんのはる子さんから、そのうち何冊かを御恵送いただいた。

第50回直木賞(昭39)を受賞した『巷談本牧亭』も新しい文庫(河出文庫)となって、書店に並んだ。はる子さんから送っていただいたこの新しい文庫を、先夜久々に読み返し、挿絵がいっぱい載っている豪華で楽しい初版本(昭38刊)も取り出し、なつかしい昭和30年代から40年代の東京の空気に浸り、「あんつる節」に気持ち良く酔った。

この『巷談本牧亭』は、昭和37年1月4日から6月28日まで、約半年にわたって読売新聞の夕刊に連載された。挿絵を描いた田代光先生の作品がこれまたすばらしく、私は毎日楽しみにスクラップに興じた日々がなつかしく思い出され、このスクラップはもちろん今も大事に手元に保存している。

先日はる子さんから、「これは本当にすばらしいものです」と推薦されて、義太夫の「藝阿呆(げいあほう)」というCDが送られてきた。私は見たり聞いたり、何にでも興味を持つほうだが、義太夫、常磐津、浄瑠璃といった分野は、歌舞伎や文楽を通してのごく浅い知識きり無かったが、送っていただいた「藝阿呆」を早速に聴いて、強烈な衝撃を受けた。

「藝阿呆」は第15回芸術祭音楽部門参加として、昭和35年11月24日ラジオ(文化放送)を通じて発表され、見事昭和35年度「芸術祭賞」に輝いた作品という。安藤鶴夫作・演出、竹本綱太夫、竹澤彌七作曲・演奏によるもので、名人と言われた三代目大隅太夫の芸道に苦闘する姿が見事に語られている。

感動の名作「藝阿呆」を薦めてくださった安藤はる子さんに心から御礼を申し上げ、「藝阿呆」との出会いに深く深く感謝している。

大阪弁の魅力、絶妙な言葉の間(ま)。感銘した「藝阿呆」のすばらしさをここで文字や言葉で表現することはできっこないが、当時この「藝阿呆」はジャンルを問わず、そうそうたる人々を感動させ、例えば、「市川崑、今藤長十郎、大木正興、尾上鯉三郎、岸辺成雄、杵屋六左ヱ門、木下順二、島田正吾、田辺秀雄、中村勘三郎(先代)、西川鯉三郎、長谷川一夫、町田佳聲、都一中、宮薗千之、山根銀二、山本安英、吉田幸三郎、芳村伊十郎…他の皆様が名を連ねている。歌舞伎や舞踊にも採りあげられ、現在に至るまで、人々に愛され続けている名作となった」(日暮怜司)。CD「藝阿呆」に添付されたパンフレットから一部を引かせていただいたが、本当に素晴らしいものを聞かせていただき、感謝、感謝である。

『巷談本牧亭』の多彩な人物

「巷談本牧亭」の挿絵(田代光画)▲「巷談本牧亭」の挿絵(田代光画)

再び『巷談本牧亭』にもどるが、私が初めて本牧亭に通いはじめたのは、服部伸の講釈を聞きたいためであった。父親ゆずりで浪花節が子供の頃から好きだった私は、伝説になっている浪曲の「節の奈良丸(吉田)、啖呵(たんか)の辰雄(一心亭)、声のいいのが雲右衛門(桃中軒)」という、その一心亭辰雄が浪曲師から講釈師に転向して、服部伸という名で本牧亭に出ているということを知り、本牧亭へ出かけたのが最初だった。

『巷談本牧亭』には若僧だった頃の私の知る名が実名でどんどん登場するので、連載中は毎日が興奮だった。

作中に登場する湯浅喜久治は渋谷の東横ホールを主催し、「東横寄席」の企画、演出を手がけ、4年連続で芸術祭奨励賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名をとった名プロデューサーで、数々の奇行も耳にしていたが、29歳の若さで大量の睡眠薬の服用が原因で亡くなっている。

はる子さんの話では、始終(しじゅう)安藤家に出入りしていたようで、『巷談本牧亭』の中でも、「湯浅喜久治という男は、なんとも寸法のいい男で、近藤亀雄(作中で安藤先生は自分にこういう名前を使っている)が、こんな日にこねえかな、と、ふと、思ったりすると、『実ァすねえ』といっちゃァ近亀の茶の間へやってくる。そろそろ帰らねえかなァ、と思うと、そう思うか思わないうちに『じゃァ…』といって、帰っていく。なんとも間のいい男である。だから近藤亀雄は湯浅と話をしている時は、たいていいつも機嫌がよかった」と記している。

劇化された『巷談本牧亭』(前進座)の舞台も中村翫右衛の桃川燕雄がすばらしく、公演中は3回も新橋演舞場へ足を運んでいる。

あれは、昭和何年頃のことだったか…。東横ホールで「湯浅喜久治を偲ぶ会」というのがあった。冒頭、前列近くに座っていた安藤先生がくるりと向きを変えて、満員の客席に向かって深々と頭を下げ、偶然私の近くに座っていた湯浅喜久治さんの御両親を紹介した。

私にとって、その時が安藤先生の姿を見た最初で最後だった。

 

幻に終わった安藤&小松崎本

CD義太夫「藝阿呆」の写真▲CD義太夫「藝阿呆」発売元=日本ウエストミンスター株式会社、販売元=コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社

実は安藤先生のファンといったら、私の師小松崎茂先生は私にも増して安藤先生のファンだった。

後年、若い時代(昭和11年)に描いた東京のスケッチを安藤先生に見てもらいたいと言って写真に撮り、アルバムにしてお送りしたことがあった。自他ともに「カンドウスルオ」と称したほどの安藤先生からすぐに電話がかかってきた。なんでもスケッチの中に、安藤先生にとって忘れがたい思い出の家が描かれていたそうで、「二度と見ることができない風景を見ることができた!」と大層喜んでくれて、電話を代わった私に、「今度なんとかこれを本にしよう」と言ってくれた。

小松崎先生と私は天にも昇るような思いで連絡を心待ちにしたが、連絡がないままに訃報に接した。興奮した電話でのやりとり…。これが私にとってたった一度の安藤先生との直接会話だった。ご縁がなかったというか、この不発に終わった出版話はいまだに私の中で尾をひいている。

このスケッチは昭和52年に平野威馬雄先生(平野レミさんの父君)の文で毎日新聞社から「懐かしの銀座・浅草」という題名で単行本化されたが、見開き頁がすべて頁が逆といった乱丁本でがっかりした。

戦災を免れたこのスケッチは、平成7年の失火による小松崎家の全焼で灰燼に帰した。

平成17年、ちくま文庫から『小松崎茂 昭和の東京』として私の編で出版されたが、その時も安藤先生がご存命だったら…とまた改めて悔しさが甦った。

柏時代の私の家は家族も多く、恥ずかしいが建坪が74坪もあった。私の仕事場兼応接間は2階にあり、元気な頃の小松崎先生は犬の散歩の途中よく寄ってくれた。長靴姿が多かったが、下駄履きの時もあり、「居るかいっ!」と大声で玄関を入り、泥だらけの足で犬とともにどしどしと2階に昇ってきた。帰りには必ず安藤先生の本を本棚から取り出し、「また借りるよっ」と言って、犬を引き連れ部屋を出て行った。先生も犬も土足同然(犬は当たり前だが)。帰った後は部屋も廊下も階段も泥だらけ。亡妻が「またあ!」と苦笑しながら拭き掃除をしていたのをなつかしく思い出した。

入院して最期を迎える数日前までも枕元には私が持参した安藤先生の「雪まろげ」「古い名刺」「わたしの寄席」があり、貪るように読み返していた。

「降る雪や明治は遠くなりにけり。さよでござります。ほんに、明治は遠くなりましてござりまする…」。『藝阿呆』は竹本綱太夫の絶妙な大阪弁のこうした言葉から始まる。

私にとっては、すでに昭和も遠く感じることが多くなった。実は、お嬢さんのはる子さんとは手紙と電話だけで、未だ直接お逢いしたことがない。お互い写真で顔は知り合っているが、まだお逢いしていない。それでいて、最近はお互いにびっくりするほど忌憚なくプライベートな事柄を話し合っている。

安藤先生の随筆や、娘時代の写真なども拝見しているが、安藤はる子さんは私にとって現在も「幻のひと」である。

 

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