「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

松戸よみうりロゴの画像

>>>私の昭和史バックナンバーはこちら

夢見る頃を過ぎても(5)

昭和文化史の語り部 塩澤実信

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

左からルイ・アームストロング、塩澤さん、江利チエミの写真▲左からルイ・アームストロング、塩澤さん、江利チエミ

日頃から親しくさせていただいている作家・塩澤実信(みのぶ)さんが、またまた嬉しい本を上梓した。『昭和の流行歌物語』(展望社)。―佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ―というサブタイトルがついているが、流行歌でつづる昭和史は、話題満載。実に楽しく懐かしく、沢山挿入されている写真からも過ぎにし昭和が強烈な説得力を伴って胸に迫ってくる。

昭和を愛し、唄を愛する塩澤さんは、昭和5年長野県に生まれている。私より5歳年長である。

戦後間もなく大ヒットした雑誌『ロマンス』の編集に携わり、後に某有名週刊誌の編集長を10年余りつとめた塩澤さんは一時レコード大賞の審査員にも名を連ねている。

羨ましいほどの多彩な経歴の持ち主だが、今や、ノンフィクション作家として、数多くの著書を世に送り出している。シャイな塩澤さんは過去の編集長時代のことに触れるのをあまり好まない。おそらく、これは現在活躍している作家としての矜持(きょうじ)からくるものかもしれない。しかし、話しの折節に、戦後の出版界の修羅場をくぐり抜けて来た塩澤さんからは強靱でしたたかな鋭い光が瞳の奥から感じられることがある。

その交友の広さ、雑学的知識は幅広く、そして深く、戦後の政界、出版界、芸能界とボーダーレスである。

塩澤さんの頭の中には、色々な人達との様々なエピソードがぎっしり詰められて居り、時としては活字に出来ぬような事柄も数多くあって、お会いするたび話はそれからそれへと盡きることなく、いつも時を忘れて話し込んでしまう。此の度の『昭和の流行歌物語』は昭和懐旧の世相の風の中、まったくタイムリーな出版で、マスコミにも色々取りあげられ、すでに版も重ねたように聞いている。

『週刊読書人』には私も親しい作家の新井恵美子さんが熱っぽい書評を掲載(8月19日)。又、9月4日付の朝日新聞書評欄にも大きく取り上げられた。この欄で書評を書いたのが、これ又、私にとっては旧知の画家・横尾忠則さんで、各々書いた人、書かれた人も親しい方ということで、私はダブル、ダブルの喜びを味わった。

たまたま塩澤さんと横尾さんは面識がないとのことで、塩澤さんに頼まれて、横尾さんにお礼の電話をお掛けした。横尾さんは、「どうもうまく書けなかった…」と謙遜していたが、お陰で久々に横尾さんとも話が出来て嬉しかった。

塩澤さんには『昭和のすたるじい流行歌』『歌は思い出を連れてくる』『愛唱歌でつづる日本の四季』など思い出の歌に関する著書も色々あるが、何といっても出版界に関する著作が多く、『出版社の運命を決めた一冊の本』(流動出版)、『雑誌記者池島信平』(文芸春秋)、『出版その世界』(恒文社)、『売れれば文化は従いてくる』(日本経済評論社)、『昭和ベストセラー世相史』(第三文明社)、『ベストセラー作家その運命を決めた一冊』(北辰堂出版)、『出版社大全』『戦後出版史』(論創社)、『活字の奔流』『ベストセラーの風景』(展望社)…等々数が多くてここでは到底紹介しきれない。

これらはすべて戦後の出版界の荒波をくぐりぬけてきた塩澤さんならではの著書ばかりでおそらく戦後文化史の貴重な資料としても、後世まで残る著書も多いことと思う。

ノンフィクションでありながら、それらはドラマを超えたドラマであり、後輩ながら同時代の空気を吸って来た私にとっては、一冊一冊がまさにドキドキの連続である。

多彩な話題と手料理のもてなし

左から塩澤さん、小沢一郎氏、小泉純一郎氏の写真▲左から塩澤さん、小沢一郎氏、小泉純一郎氏

新宿通り。伊勢丹を左に見て、新宿三丁目の交差点を渡り、すぐ先の小路を左へ折れると賑やかな飲食店街の先に新宿末広亭がある。その数軒先、靖国通りへ出る手前のマンションの一室に塩澤さんの仕事場がある。

天井まで堆(うず)高く積まれた本に囲まれ、その中で埋まるような感じで執筆を続けて居り、塩澤さんは毎日東村山の自宅から、この仕事場へ通って来ている。

塩澤さんで驚かされるのは、訪れたお客様には手料理で御馳走してくれるという大特技を持っているということである。先日伺った折も、まるでマジシャンのような感じで、冷蔵庫や電子レンジから次々と手料理を取り出して、あっという間に7、8品の料理が卓上に勢揃いした。

このシリーズでは何回か記したが、私は52歳の折に妻を癌で亡くし、娘は嫁いだ直後だったが、両親と長男、二男を抱え、10年程主夫生活を送った。料理作りにも慣れ、父母の親しい年寄仲間や、近所のお世話になった奥さん達を招いて手料理で御馳走したこともあった。

余談になるが、このシリーズでも紹介したドリフターズの高木ブーちゃんの家は私の家の斜め前で、すぐ下にブーちゃんの長姉が住んでいた。私の母と親しく、長男は私と同年だったが共稼ぎで昼間不在だったので、毎日のようにわが家へお茶を飲みに来ていた。

昼時になると、両親の分を用意するので、「おばさん食べていく?」と聞くと、幾分遠慮しながらも「毎日で悪いネ。御馳走になって行こ」と喜んで食べてくれた。「おいしい。おいしい。何よりもこの家の料理にはだしの他にたっぷり愛情が入っているから…」(最近こんなコマーシャルをテレビで見たがこれはずっと昔のはなし)と調子よくヨイショを言われたが、私も今は一人暮らしになり、面倒な料理もすっかり忘れ去ってしまった。それが塩澤さんの所では色々と出てくる。正に塩澤さんには脱帽で、ひとつひとつ材料と調理方法を解説され、先日も楽しく舌福を味わった。残念なのは私がまったくの下戸なので、塩澤さんも相手としては不満だろうなーと思いながら、すっかり馳走になり、帰りにはわざわざ取り寄せているのだという小豆島産のだし醤油と梅酒をいただいて帰って来た。

話題が豊富なので、話はあちらへ飛び、こちらへ移り、生前親しかったという作家の団鬼六さんが自費で制作したという「団鬼六東海林太郎を歌う」というCDも聞かせていただいた。団鬼六さんという作家のイメージが私の中で見事に変わってしまった。

歌といえば、塩澤さんは小柄ながら声量豊かで、カラオケでは、「イヨマンテの夜」や「長崎の鐘」を朗々と歌いあげる。歌への愛情と造詣の深さで、前述のように、レコード大賞の審査員をつとめた。作曲家・吉田正さんや、遠藤実さんとの交流秘話や、ルイ・アームストロングが来日した時の話等々とにかく面白い話ばかり。

 

塩澤さんからのメッセージ

『昭和の流行歌物語』(展望社)の表紙の写真▲『昭和の流行歌物語』(展望社)の表紙

昭和の語り部の一人として塩澤実信の存在は今後ますます大きくなると私は信じている。塩澤さんに御登場いただくことになったら、何と塩澤さんからお返しの文が届いた。

今月はぜいたくにも、その塩澤さんから私宛のメッセージで稿を閉じることにした。甚だ面映ゆく不遜なことだが、原文のまま載せさせていただくことにする

 

畏敬する根本圭助氏から、身にあまる月旦(げったん)評をいただき、顔から火の出る思いである。見たところ、根本氏こそ博覧強記と幅広い交友関係の持ち主で、私の遠く及ぶところではない。

氏の交友の広さ深さを示す格好の資料が私の手もとにある。『年賀状にみる小さな美術館』(北辰堂出版刊)がそれだ。同書には、小松崎茂、手塚治虫、石ノ森章太郎、里中満智子、藤子不二雄A、水木しげる、やなせたかし、山川惣治、中一弥、田代光、椛島勝一、梁川剛一、川上四郎、武井武雄などと、氏がとり交わした857通のカラフルで絢爛豪華な賀状が収録され、簡単な解説が付されている。

同書を読ませていただくと、その顔ぶれの華麗さに加えて、畏敬する友の誠実な交友ぶりが明らかになり、氏が昭和から平成時代にかけての童画、挿絵、イラスト、漫画、芸能と、クロスオーバー文化に通暁(つうぎょう)した俊才であることがわかる。

どんな人達と賀状をとり交わしているかで、その人物像がわかるというのは、信州の山猿のアフォリズムのひとつ。

根本圭助氏がいかなる人物であるかは、おわかりになっていただけるだろう。

塩澤実信

 

▲ このページのTOPへ ▲