「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(6)

作家も愛した名作挿絵 田代光

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

『サンデー毎日』連載 山崎豊子「白い巨塔」の挿絵▲『サンデー毎日』連載 山崎豊子「白い巨塔」の挿絵

平成5年秋、私の書き下ろし作品『異能の画家小松崎茂』の出版記念パーティーが上野池の端文化センターで開かれた。

当日は250人を超す参加者が集まり、私も大感激したが、その折、主賓としてお招きしたのが田代光先生だった。

田代先生はちょうど80歳になっていたが、身体はかなり弱っていた。スピーチが終わっても、そのまま立ち続けているので大勢のお客様もしーんとなって、しばらく間があったが突然「オシッコ!」と叫んだので満場大爆笑となった。

私の師小松崎茂先生は、戦前、『機械化』誌上で空想科学兵器を描いたりして人気を博したが、戦争が終わって「人物デッサンからやり直そう」と一念発起。デッサン力では定評のある田代先生のデッサン会の一員となった。以来、田代先生を「先生、先生」と慕い、大事にした。そうした縁で私も孫弟子として認めてくれて、田代先生は可愛がってくれた。

田代先生は、大正2年東京下谷のたしか練塀小路で生まれたようにお聞きしている。練塀小路─と聞けば真っ先に思い出されるのが「天保六花撰」の河内山宗俊だが、そういえば田代先生からは、どこか芝居で見る河内山的風貌も感じられた。昭和6年、18歳で雑誌『キング』に挿絵を描いてデビューを果たしたが、田代先生が挿絵界で大活躍をするのは、主に戦後になってからである。

余談になるが、田代先生は、昭和19年、31歳で海軍に応召され、横須賀海兵団に入団している。この団に集められた顔ぶれは、田代先生の他に画家の石川滋彦、漫画家の杉浦幸雄、抒情画で一世を風靡した中原淳一、歌手の霧島昇、評論家の吉田健一、その他、ムーランルージュの劇作家、書道の大家、東条英機の息子など多士済々の集団だったそうで、田代先生からこの不思議なメンバーによる軍隊生活のエピソードも色々お聞きしている

敗戦直後の浅草を描く

筆者の出版記念パーティーであいさつする田代光先生の写真▲筆者の出版記念パーティーであいさつする田代光先生

田代先生の挿絵界での名作は沢山あるが、私にとって最も忘れられないのは昭和23年の浜本浩作の「浅草の肌」で、これは創刊されたばかりの「東京日々新聞」(夕)に連載された。何と当時、田代先生は35歳の若さだった。そして我ながら驚くのは、私は中学生になったばかりのはずなのに毎日ドキドキ楽しみにして、この挿絵をスクラップしていたのだから、相当マセた子供だったと思う。

敗戦直後の「浅草」をこれほど見事に描いた作品を私は他に知らない。ちょうどその頃私は父母と弟の4人で浅草へ出かけているが、六区のひょうたん池の周囲には浮浪児が大勢群がり食べ物を漁っていて、母がやっとの思いで苦面して作ってくれた握り飯も取り出して食べる機会を逸してしまった程だった。田代先生の挿絵からは、ロック座の楽屋や当時ちっぽけな浅草寺仮本堂から六区一帯のむんむんとむせ返るような当時の浅草の猥雑な空気が伝わって来て少年時代の私は目も眩む思いだった。

「覚えているかえお月さん トチチリチンの姐ちゃんを…」

今でも時折口ずさむ昭和25年にヒットした竹山逸郎、服部富子のデュエット曲「浅草の肌」の歌詞にも「紅い胸当(ブラジャー)の 踊り子のなぜに涙を 誘うやら…」そんな歌詞に出会うと今でもドキドキしてしまう。

父母と同行した翌年、私は一人で(父母には内緒で)浅草へ出かけた。

浅草寺境内には香具師(やし)が沢山群がっていて、たとえば古本の叩き売り─。「さあこれから日本はアメリカさんと仲良くしなければいけない!英語も勉強しなくちゃいけない! この本には英語の読めない人のために、日本語でも書いてある。日本語も読めないという人には絵でわかるようになってる!」

売っているのは当時のカストリ雑誌の古本である。私はここで見事にだまされている。じゃが芋のふかしたのをすりつぶして、「さあこのじゃが芋にこの粉をまぜてよくかきまぜると餅になる。今年の正月だって餅を食えなかった人は大勢いるはずだ。ほら良い餅が出来あがったよっ!」私はこの啖呵売の口上に乗せられて、白い粉を買って帰った。後年香具師をしていたという人と知己になり、この話をすると、「ああ、俺もやったことがある。白墨の粉を使ったなァ」と聞いてびっくりした。要するにじゃが芋はよくこねると何も入れなくても餅状になるそうで、そういえば北海道料理の店で、その雑煮のような料理を出され、一人で思い出し笑いをしたことがあった。

田代先生の「浅草の肌」は評判となり、日本橋三越、新宿三越、浅草松屋で個展が開かれ、これも大きな話題となった。

晩年田代先生とこの話をすると、これ又代表作のひとつ安藤鶴夫先生の「巷談本牧亭」(昭37・読売新聞)とごちゃまぜな思い出話になってしまい、いつも私はその話に翻弄させられた。山崎豊子作「白い巨塔」、井上ひさし作「四千万歩の男」、長谷部日出男作「鬼が来た」、大仏次郎作「ゆうれい船」、安藤鶴夫作「三木助歳時記」、遠藤周作作「女の一生」…どれもすばらしい挿絵に圧倒される。

 

作家をその気にさせる画家

田代光、三船敏郎、早田雄二の写真▲左から田代光、三船敏郎、早田雄二(大正生まれの親睦会「大正会」で)

田代先生は骨相、人相も研究し、登場人物の性格まで理解して描き込んでいる。ここで内緒話をひとつ。詳しくは知らないが「少年王者」「少年ケニヤ」で知られる山川惣治先生とある女性を巡って三角関係みたいになったことがあったという。田代先生はその時連載していた挿絵に山川先生を悪役で登場させ、事情を知る人を驚かせた。その似ていること! 私の手許に残っているが、親しかった山川先生には同情を禁じ得なかった。

田代先生は身体が柔軟で、よく私の前でも直立して両手を床につけたり、両足を開脚して身体を前に倒したり自慢して見せてくれた。又、芸事が好きで謡いもよくし文士劇にも出演。又とてつもない声で、藤原義江の「出船の惓」などを歌い、ある時など同席した小松崎先生から、「おい圭ちゃん程々にやめてもらえよ。あんな声を出したら死んじゃうよ!」とささやかれたこともあった。その田代先生から「何か歌え!」と命令されて、仕方なく赤坂小梅さんの「浅間の煙」(昭・12)をアカペラで歌ってえらく褒められたことがあった。先生も若く、そして私も若かった。

作家の松本清張先生は田代先生をこう評している。「絵の入る小説では挿絵の効果でずい分違う。挿絵は、あまり小説のイメージに立ち入りすぎてもいけないし、離れてもいけない。このへんの呼吸がむずかしい。ベテランの田代さんはそこをよく心得ていて、しかも絶えず野心を試みて画風に新鮮さをだしている。私は筆の足らないところを田代さんの絵で助けられている。あまり、気の合わぬ画家と組むと、小説を書く前から変な気持ちになる。田代さんは、原稿に大いに気乗りさせてくれる画家の一人である。 松本清張」

田代先生は挿絵のみならずタブロー(本画)にも挑戦し、多くの大作も遺している。

昭和55年「不動明王御尊像」が成田山に寺宝として納められた。同様にロサンゼルス「高野山寺院」へ水墨画「紅梅白梅」も納められている。

田代先生は平成8年83歳で不帰の人となった。山梨県御坂町(現笛吹市)に「田代光記念館」が設立されることになり、館の設立に何年も努力して来たのが私も親しい鶴岡義信氏で、私も数回御坂へ応援のために出向いたりしたが、残念なことにこの計画は挫折してしまい、沢山の作品が宙に浮いたままになっている。

御徒町の昭和通りにある画材屋「金華堂」が新築落成した折、ビルの上の方の階の画廊で、まったく思いがけず、「浅草の肌」の原画展と巡り合い、狂喜したが、現在この原画の所在も不明となっている。

今私の手許に残る古い新聞の切り抜きからその頃の浅草を偲ぶのみである。「猥雑さが無くなった浅草なんてツマラネェ」。先日も電話口で畏敬する下町風俗資料館の松本和也初代館長もつぶやいていた。私も同感である。冒頭の私の出版パーティーへの出席が、田代先生の公の席への最後の出席となったという。孫弟子と認めて可愛がって下さった田代先生に心から感謝している。

 

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