「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(8)

“ウルトラマンになった男”古谷敏さん

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

小松崎茂が描いた昭和30年代の汐入の絵▲小松崎茂が描いた昭和30年代の汐入

旧臘23日、恒例となった「蕎麦打ち会」が友人の主催で開かれた。場所は荒川区南千住のマンション。かつて汐入と呼ばれた地に建てられたマンション群の中の一棟だが、ハイカラな横書きのマンション名で、汐入も変わったものだなあーと様々な感慨にとらわれた。

この友人と親しくなったのは、私の著書「異能の画家小松崎茂」の中で汐入に触れていることから興味を持って連絡して下さったのが切っ掛けだった。数年前の話である。私は確かに荒川区南千住の生まれだが、これは国民学校(小学校)4年生までのことで、昭和20年3月10日の大空襲で罹災し、5年生からは千葉の柏へ疎開して柏の住民になってしまっている。荒川区には思い出と懐かしさが一杯つまっているといっても空襲までの幼い日の思い出が中心となってしまう。私の家はJR南千住駅と三の輪とのちょうど真ん中辺りに位置し、再三紹介して来たように、師の小松崎茂先生の生家とは60メートルぐらいきり離れていなかった。これは荒川区の主催で「下町の空想画家・小松崎茂」展が開かれた折り、区の職員の人が再確認してくれた。その時は講演を頼まれ、幼時から少年時代までの南千住での思い出を話させていただいた。当日は、親しい林家木久扇さんも遊びに来て下さって盛り上がったが、この件りは本欄の第2部に書かせていただいたのでここでは省かせていただく。

汐入という土地は、これも何回も紹介させていただいたが、師の小松崎先生にとって特別な思いのある土地で、同時に私にとっても一緒に育って姉と呼んでいた母の従姉の嫁ぎ先であり、戦後も戦災を免れたその姉の家へはよく遊びに出掛けていたので思い出一杯の地なのである。

しかし、様変わりしたなんてものではなく、汐入は再開発により、街の全貌は全く別の知らない顔となってしまった。
  話は変わるが、コーンフレークなるものが初めて国内で発売された際の箱絵6種類は私が若い頃描いたもので、発売元が偶然この友人の勤める会社だった。たまたま私の手元に見本刷りが残っていたが、同社には現物が無いということで請われて寄付させていただいた。そうした縁もあり、この友人とは急速に親しくなった。彼は蕎麦に凝っていて、山形、福島、妙高に自分の蕎麦畑を持ち、同好の士が集まり、蕎麦を打ってその場で食べる会を続けているという訳である。

今回は医療ジャーナリスト松井壽一先生も加わった。松井先生はユニークなお人で、寅さんファンクラブの会長という顔も持ち、毎月浅草木馬亭で開かれている橋達也が座長の「浅草21世紀」の公演にも「ケンコウ奉仕」という名で医事漫談で舞台に立っている。浅草喜劇の灯りを守り続ける座員の猪馬ぽん太さん。同じ座員で今は亡き関敬六さんの弟子の関遊六さんも加わり賑やかな蕎麦打ち会になった。

この集まりでは、一昨年も御一緒した古谷敏(さとし)さんとも親しくなった。通称音読みで「ビンさん、ビンさん」と多くの人に愛されているが、この古谷ビンさんこそ誰あろうあの「ウルトラマン」として活躍した「ウルトラマン」さん本人なのである。最近出版された『ウルトラマンになった男』(小学館刊)は古谷さんの初の回想録として今大きな話題を呼んでいる。

 

過酷なスーツアクター

古谷敏さん(右)と筆者の写真▲古谷敏さん(右)と筆者

身長180センチ。その体型に惚れこまれ、スーツアクターとして、「ウルトラQ」でケムール人を演じ、また「海底原人ラゴン」も演じた。

「スーツアクター」という単語も、古谷さんと知己になり初めて知ったが、その実績を買われて、円谷プロのメインデザイナーだった成田亨氏の熱い要望から、主役の「ウルトラマン」をシリーズを通して演じきった。

当時はマスコミにも知られぬよう「ウルトラマン」の中に入っている古谷さんの存在は極秘になっていて、陰の人としての古谷さんの苦労は並大抵のものではなかったようだ。しかもこのスーツアクターとしての仕事は危険度も高く、当初「ウルトラマン」の全身の型どりからアクション場面の撮影まで想像を絶する苦労の連続だったことを私もこの度の回想録により初めて知ることが出来た。ハードな撮影中、死を意識したことさえあったように聞いている。

そうした事実も知らず、私にとって「ウルトラマン」は大恩人で、当時「仮面ライダー」「ひみつのアッコちゃん」とともに随分稼がせていただいた。

現在各地で開かれている「ウルトラマン」さんのスーツは改良も重ねられ、材質も合理的になっているが、ビンさんの時代は何もかも初めてなので、目の位置をきめることひとつをとっても、大変だったという。

宇宙へ帰るシーンでも、適当なジャンピング道具がなく、例のきまりポーズその他もろもろの苦労は、本を読んで知ることが出来た。

「ウルトラQ」がテレビで始まったのが昭和40年だから早や40年以上も昔のことになる。ウルトラ怪獣に熱中した幼い少年達も今や50代になっているはずである。

心優しきウルトラマン

古谷さんは昭和18年東京西麻布に生まれた。東宝芸能学校卒業後、東宝第15期ニューフェイスを経て東宝へ入社している。

昭和37年「吼えろ脱獄囚」(福田純監督)で映画界にデビューした。

そして前記の通り「ウルトラQ」の宇宙人他を演じた後、「ウルトラマン」になった。

昭和42年に始まった「ウルトラセブン」ではスーツを脱ぎ捨て、「ウルトラ警備隊」のアマギ隊員役でレギュラー出演した。名プランナーで発明などが得意な一方、人間的に臆病な面を持つアマギ隊員をなつかしく思い出している読者も数多いことと思う。

それからのビンさんは、やはり円谷プロ作品の「怪奇大作戦」や「戦え! マイティジャック」にも出演したが、その後、俳優業を引退し、怪獣アトラクションショーの主催会社「ビンプロモーション」を設立。自らの怪獣ショーで「アマギ隊員」役で司会をこなし、全国を巡業した。

昭和47年、毒蝮三太夫夫妻に仲人を依頼し結婚。一男一女をもうけている。ビンさんの内緒の話では毒蝮さんが仲人したカップルはみんな離婚してしまい、ビンさん御夫妻のみ幸せな生活を続けているのだという。

思えばビンさんの人生も文字通り波瀾万丈で、平成になってのバブル崩壊後、「ビンプロモーション」を解散し、自ら関係者との連絡を断ち、表舞台から姿を消したため、一時は「消息不明」扱いとなり、死亡説まで流れたと聞いている。現在はひし美ゆり子さんや桜井浩子さんら円谷時代の関係者との連絡も再開し、この度の『ウルトラマンになった男』の上梓で話題の人となっている。

古谷さんと親しくなって驚いているのは、身体は大きいのに何とも優しく細かい心遣いをされるお人で、誰にでも温かく接するので私の友人達も等しくその人柄に魅了されている。

蕎麦打ちの会の終了後、南千住在住の親しい小浜奈々子さんに誘われて、カラオケホールに寄り道をした。

小浜さんはかっての日劇ミュージックホールの女王として斯界に君臨し、小浜時代と呼ばれた大スターである。この方のことも本シリーズ2部に登場していただいた。

4、5人で出かけるつもりだったが、前述の松井先生も、浅草21世紀の猪馬ぽん太さん、もちろんビンさんも加わり15人以上になって楽しく騒いだ。実は数日前も松井先生のお誘いで「浅草21世紀」公演にも友人達数人とともにビンさんも加わり、木馬亭へ出向いた。流石正月の浅草。通路も埋めつくす大盛況で、楽しい時を過ごした。そして終演後私の行きつけの店で又々カラオケを楽しんだ。

ビンさんは「ウルトラマン」の主題歌を熱唱し、居合わせた多くのお客様も大喜びしてくれた。苦労人で優しいお人柄に私もぞっこん惚れこんでいる。心優しきウルトラマン、ビンさん頑張れ!

 

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