「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(9)

古き良き浅草を今に伝える「木馬亭」

大学生の研究テーマに

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

上から浅草寺を望む仲見世通りの写真、浅草三社様を背に地下鉄のりば方面を望む写真、本堂焼け跡から三社様を望む写真▲上から浅草寺を望む仲見世通り。浅草三社様を背に地下鉄のりば方面を望む。
本堂焼け跡から三社様を望む(左・東京大空襲後、右・現在)

昨年、ネット上で本シリーズを知ったといって、慶応大学文学部人文社会学科に籍を置くYさんという女子大生から突然連絡が入った。Yさんは、就職は既に決まっているそうで、残るは卒論だけ。その卒論のテーマに浅草の「木馬館」を取り上げたいということで、わざわざ取材のため拙宅へやってきた。

「木馬館を卒論のテーマに?」。私は少なからず驚いた。しかも相手は女子大生である。

Yさんは、もともと大衆演劇に興味を持っていたそうで、私の話を長時間熱心に聞き、メモをとって帰っていった。

そういえば数年前、京都大学の、これは男子学生だったが、「小松崎茂」を卒論に取りあげたいと言って、やはり拙宅へ押しかけてきた学生があったが、世の中色々な人がいるもんである。

Yさんの卒論の締め切りは、1月12日と聞いていた。完成した原稿を是非読んでほしいということで、私は13日に木馬亭(木馬館は最近木馬亭と呼ばれるようになった)の「浅草21世紀」1月公演に出かけることになっていたので、Yさんをお誘いし、木馬亭で提出済みの卒論のコピーをいただいた。帰宅して読ませていただいたが、実に丹念に調べ、克明に記述されており、感心させられた。

「この論文は、木馬館の建立時からの歴史を紐解いていくものである。資料からできるだけ具体的なエピソードを集め、各時代の木馬館に関わった人々、興行の内容、木馬館に集まった客の姿を甦らせようと試みた。一方で、各時代の浅草興行街がどのような方向に向かっていたのかという大きな視点も取り入れた。

先行研究については、木馬館の歴史に焦点を絞った研究はない。そこで、安来節・大衆演劇など各興行内容についての研究、また浅草興行街全体の歴史を俯瞰した研究を参考にした」

いやいやどうしてどうして明治40年に開館した「昆虫館」の時代から、大正から昭和にかけての回転木馬の時代。昭和の戦前、戦後と長く続いた2階での安来節公演の盛衰(伝説となっている大和家三姉妹の写真も載っていた)。1階ではストリップの時代もあり、「木馬映劇」という映画館だった時代もあり、昭和40年代は1階が浪曲の定席「木馬亭」となり、昭和50年代に入って2階は木馬館大衆演劇場となって、現代にいたるまで。そして大衆演劇論。49頁に及ぶ論文は実に面白く感心させられた。

ストリップといえば最近Yさんは女子学生ばかりの4人連れでロック座へ出かけ、劇場(こや)の人を驚かせたと話していたが、地味で控えめのYさんからはちょっと想像がつきにくい面白い話だった。それにしても、つくづく時代は変わったもんだと痛感した。

 

浅草喜劇人・橋達也さん逝く

橋達也著「浅草! ぼくの喜劇人生」の表紙の写真▲橋達也著「浅草! ぼくの喜劇人生」(メディアクラフト牡牛座)の表紙

ところで、1月13日の木馬亭での「浅草21世紀」の公演で、病中にあった座長の橋達也さんの姿は舞台になかったが、3日後の16日肺炎で死亡した記事を新聞で知り、驚いた。

橋さんはコメディアンとして活躍。昭和50年に関敬六劇団の旗揚げに参加。平成10年から「お笑い浅草21世紀」の座長として浅草の軽演劇の復興に取り組んだ方で、74年の喜劇人生だった。

橋さんは平成19年から同23年まで日本喜劇人協会会長を務めた。同会の会長といえば、昭和29年の初代会長・榎本健一さんをはじめ、以来、柳家金語楼さん、森繁久彌さん、曾我廼家明蝶さん、三木のり平さん。森光子さん、由利徹さん、大村崑さんと、そうそうたる顔ぶれが続き、大村崑さんの後を橋さんが引き継いだ。ちなみに現在は、小松政夫さんが務めていると聞いている。

橋さんは戦後の喜劇界で何回もの浮き沈みを味わった。花かおるさんと組んだ「ストレート・コンビ」時代、「ダメなのネェ〜」「ダメなのヨォ〜」「千葉の女は乳しぼり!」などのギャグや、熱のあるドタバタでコント55号に対抗。転びの芸にかけては、橋さん、ポール牧さん、それに欽ちゃん劇団の佐藤あつしさんの3人がベスト3だったということを聞いたことがある。

浅草という特殊な土壌からは数えきれないほどの多くの喜劇人が誕生したが、その中の一人、浅草の芸人らしい匂いを残した橋さんのとぼけて、ちょっとかなしげなペーソスの漂う顔が消え去ったのは何とも淋しい。臨終の床にもあったというメモ帳の「失うものが何もないから出来たんだよ。少しでも金があったり、いくらかでも地位があってみな、こんな事はやらないよ」という言葉が切ない。

「浅草21世紀」の歌姫おののこみちさんの写真▲「浅草21世紀」の歌姫おののこみちさん

2月公演は12日から始まったが、その初日に私は友人達と連れ立って木馬亭へ行って来た。座員の一人、おののこみちさんは、器用に芝居も演じる「歌姫」で、小柄だが素晴らしい歌唱力を持っている。こみちさんのことは、昨年出版された『演歌よ今夜も有難う』(都築響一著・平凡社刊)に詳述されていて、興味深く読ませていただいた。前回の公演だったか真紅のブレザー姿で私も大好きな藤山一郎の「浅草の唄」を熱唱。なつかしさで胸を熱くした。なつかしいといえば、かって安来節全盛の頃、私の木馬館通いが続いたが、安来節の間の「安井良ショー」(後に松江徹と改名)という歌謡ショーがあり、松江さんと同じビクター専属の新山まり子さんという歌手がいたが、可愛い美人歌手で毎回楽しみにしていたことをふっと思い出した。

平成16年「お笑い浅草21世紀」は「君恋し」で文化庁芸術祭演芸部門大賞を受賞している。「浅草の軽演劇」を守り続けている座員の皆様に熱いエールを捧げたい。

忘れ得ぬ東京大空襲の夜

話は変わるが、この木馬館は奇跡的に戦災を免れたそうだが、戦後間もない頃の浅草を中心とした東京駅、新橋、新宿といった都内の焼け跡闇市の写真が50枚程手許にある。

写真を手に、先日戦後の時代に思いを馳せつつ、浅草を歩いてみた。紙面には載せきれないが、ほんの3枚だけ紹介させていただくことにする。

月を越せば、すぐに3月10日がやってくる。今年は昨年の3月11日の大震災のニュースで埋まると思うが、東京大空襲の劫火の夜はまた一段と遠い日になってしまったように感じられてならない。

 

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