「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(10)

憧れのヒーローの“声”を担った人たち

清水マリ、水垣洋子、大塚周夫

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

左から古谷敏さん、水垣洋子さん、清水マリさん、筆者の写真▲左から古谷敏さん、水垣洋子さん、清水マリさん、筆者

このところ色々なパーティや数々の集いによばれる機会が続いて何とも忙しい毎日を送っている。

3月10日には半蔵門の東京FMビル11階にある会員制レストラン「ジェットストリーム」で、古谷敏さん、清水マリさん、水垣洋子さんの三人による「出逢う」というトークショーにお招きいただいた。生憎の雨模様で会場の広い窓からは遠くスカイツリーも望めたが、ツリーの上の方の部分は重い雨雲の中にすっぽり姿を消していた。

フランス料理の昼食の後、三人の皆様によるトークショーが行われた。

古谷さんは本欄(1月号)で登場していただいたので詳細は省かしていただくが初代ウルトラマンとして着ぐるみに入ってスーツアクターを務めたウルトラマン御本人である。古谷さんはシリーズ次作「ウルトラセブン」でウルトラ警備隊のアマギ隊員として着ぐるみを脱ぎ画面に登場したが、今回の他のお二人は画面には登場しないが、知る人ぞ知る陰の大スターなのである。清水マリさんは「鉄腕アトム」(昭・38)のアトム役で活躍。「妖怪人間ベム」(昭・43)のベロ役でも活躍し、平成18年には第2回・東京国際アニメフェスタ特別功労賞を受賞している。

一方の水垣洋子さんは、「鉄腕アトム」でアトムの妹・ウラン役や、「オバケのQ太郎」(昭・40)でQ太郎の妹・P子を演じている。そして平成21年、第3回声優アワードシナジー賞を受賞している。水垣さんは声優の他に、画家、詩人、DJ、エッセイスト、作詞家など多彩な才能を生かし、ラジオ、テレビ、映画にも出演しているというマルチスーパー人間である。

こうした素晴らしい3人のお方のトークで楽しい刻を過ごした。昔は外国映画の声の吹き替えや、アニメの声も含め「アテレコ」と称していたが、今は「声優」という職業が確立され、若い人の憧れの職業ともなっている。

何年か前に、俳優としては、お二人よりもっと先輩の我孫子市にお住まいの大塚周夫(ちかお)さんにお逢いしたことがある。

大塚さんは昭和4年東京で生まれている。4歳頃から新宿区内のダンス教室に通って居り、俳優になる前はダンサーだった。

戦後は、進駐軍のキャンプで踊っていたこともあったという。だが両脚の膝関節炎のために憧れのミュージカル俳優への道を断念した。流石に写真で御覧いただくように、ダンディですてきな人生の大先輩である。声優としては、リチャード・ウィドマークをはじめ、チャールズ・ブロンソン、ジャック・バランス、ピーター・セラーズなどは大塚さんの持ち役として広く知られている。アニメでも「ルパン三世」(TV第一シリーズ)の石川五ヱ門。「ガンバの冒険」のノロイ、「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男や「機動戦士ガンダム0083」のエイパー・シナプス艦長の他その数はとうていここでは書ききれない。しかし大塚さんは、「声優以前に俳優である」という強い姿勢を持っていて、舞台、テレビ、映画でも貴重な脇役として数々の業績を残している。NHKの大河ドラマ、朝ドラ、又、フジテレビ系のドラマの常連としても知られている。

「声の吹き替えはあくまでも俳優業の一つ」という信念を持ち、「声優という職業はない」と語ったこともあったという。

前述のように、ダンサーへの道を断念してからは、劇団東芸で10年程舞台を踏み、36歳のとき新劇の勉強を一からやろうと一念発起。早野寿郎、小沢昭一、小山田宗徳らが旗揚げした俳優小劇場に入団。さらに昭和46年、劇団が解散と同時に、小沢昭一、加藤武、山口崇らと芸能座をつくり、井上ひさしの作品で東京で1か月、地方で2か月というサイクルで6年間公演を続けた。これらの経験が、今も役者として通用する基になっていて、様々な困難と格闘して劇団の離合集散の中に身を置いて鍛え抜かれた大塚さんは強い役者魂を持つ筋金入りの役者である。

仄聞によれば小沢昭一さんに「ちかちゃん、あんたうまく立ち回れば天下取れた人間なのに、欲がないんだよなあ」と言われたという話が伝わっているが、ソフトでいて剛直な大塚さんの一本気な気質が伝わってくるエピソードのひとつと言えると思う。

お逢いした折、大塚さんがぽつりと一言、「私は芸術家という人種が嫌いです」と洩らしていたが、父親の辰夫氏も造型美術家だったが、伯父は彫塑家の渡辺長男。その弟でこれ又著名な彫塑家の朝倉文夫と聞くと、芸術家に囲まれた家系で育った強い矜持とともに脈々としたある種の反骨精神が私には感じられた。

御長男の大塚明夫さんは、現在俳優として、また売れっ子声優としても大活躍しているが、因みに周夫、明夫ともに朝倉文夫先生の命名と聞いている。

 

今は亡き武藤礼子、富永美沙子

大塚周夫さん(左)と筆者の写真▲大塚周夫さん(左)と筆者

大塚さんの俳優としての実績は一先ず置いて、今回は冒頭のトークショーがきっかけで「声優」ということにこだわって書いているが、これも本シリーズ第・部第38回(平22・3月号)で取り上げさせていただいた武藤礼子さんを思い出した。声優としての武藤さんは、エリザベス・テーラーやグレース・ケリー、ジュリー・アンドリュースなどの吹き替えをはじめ、「ふしぎなメルモ」のメルモ役、「ムーミン」のノンノン役で知られる声優だった。私とは同年で、私の企画した塩まさるさん(「九段の母」他で知られる戦前の人気歌手)のコンサートのお手伝いをお願いし、文京区護国寺の天風会館をお借りして、「塩まさる・武藤礼子の手作りコンサート」を公演した。私と同年なのに武藤さんは、平成8年10月29日急性心不全で71歳で不帰の人となった。

更にもう一人忘れられぬ俳優、声優だった富永美沙子さんがいる。私より2歳年長のお姉さんだったが、私にとってはまさに憧れの人だった。大塚周夫さんも「ああ美沙ちゃん、良い女だったなあ」と話していたが、本当にすてきな人だった。そもそも美沙子さんの父君富永謙太郎先生は私の憧れの大先輩で戦前、戦後を通じ、一世を風靡した挿絵画家だった。

数々の名作挿絵があるが、昭和28年1月1日の読売新聞朝刊から村松梢風作「近世名勝負物語」が登場した。この挿絵は8年もの長きにわたって読者の目を楽しませた。私は毎日丁寧に切り抜き、今もほぼ全部大切に手許に保存してある。富永先生の話はいずれ改めて書かせていただくとして、ここではお嬢さんの美沙子さんの話にもどることにする。

美沙子さんは昭和24年高校を中退して松竹歌劇団に5期生として入団している。草笛光子、紙京子らと同期生だったが、テアトル・エコーを経て、昭和30年頃からテレビで活躍することになる。当時のラジオ東京テレビ「おやゆび姫」が初出演で、同局の「アイ・ラブ・亭主」や日本テレビ「夜のプリズム」「夫婦百景」、TBS「七人の刑事」ほか映画でも活躍した。昭和34年スタートのフジテレビ「うちのママは日本一」で主役のドナ・リードの声を吹き替えて以来、声優としての仕事が増え、主にソフィア・ローレン、ドリス・デイなどの吹き替えで知られた。

TBS近くの喫茶店で長々とお父様の謙太郎先生の話も交えて楽しい時間を持ったが…。

その憧れの美沙子さんの身にどんな事情があったか知らないが、昭和50年5月2日、ディレクターの母袋博氏と北海道の支笏湖畔に停めた車の中で、排気ガスによる心中死体で発見された。富永美沙子さん42歳。母袋さんは14歳年下の28歳だった。美沙子さんは下着まで黒の死に装束だったという。

今月は最後が暗い話題になってしまった。冒頭の3人の皆様のトークショーの翌々日12日には芝公園のプリンスホテルの「山路ふみ子文化財団」の集まりに参加した。500人近い集まりで、教育関係、映画関係、学習院長や映画評論家品田雄吉氏、同白井佳夫氏など、そうそうたる人達が集まった。女優の藤村志保さんや長山藍子さん等の姿もあったが、私は何回も他の会でお会いしていながら個人的に話す機会の無かった寅さんマドンナ第1号の光本幸子さんとお話する機会を得た。

まだ発表出来る段階ではないが、私自身のことで全く予期せぬ大きな仕事が2つ発生している。喜寿を過ぎても忙しさに追われている今の自分に、運命というか、世間様にしみじみと感謝している。

 

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