「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(11)

球春到来。夢の大リーグ観戦

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

筆者が当日球場で購入したニューヨークジャイアンツ名鑑の写真▲筆者が当日球場で購入したニューヨークジャイアンツ名鑑(讀賣新聞社発行)

雨戸を開けると、何とも美しい鶯(うぐいす)の鳴き声が飛び込んで来た。この辺り、ここ数年いつも今頃になると、美しい鶯の囀(さえず)りを聞かせていただいている。「今の世も鳥はほけ経鳴きにけり」。小林一茶の句がふと頭を過ぎった。

「近頃は鶯まで鳴くのが下手になった!」といって環境破壊を嘆いたのは、たしか作家の小島政二郎だったが、先程の鶯は、どうしてどうしてなかなかの美声であった。

鶯には「春告鳥」「経読鳥」その他いろいろな異名があるが、鶯の飼育の盛んな京都では、雛から巣立ちまでの段階に応じ、1日刻みに9つもその呼び名が変わるそうで、都人(みやこびと)の繊細さに脱帽させられる。

文政年間に刊行された『江戸名所花暦』には、元禄の頃上野東叡山の門主が京都から鶯を取り寄せて放ったので、この辺り(鶯谷)の鶯は│「此処は上方の卵(たね)ゆゑにか訛りなしといひ給ふ」│とあって、

舌かろし京うくひすの御所言葉

という句を載せている。それによると、どうやら鶯にも方言が存在するらしい。

方言といえば越前地方の言葉が耳に快く響くことから「越前の鶯訛り」という言葉があることも聞いた。鶯の声に聞き惚れて、長々余計なことを書いてしまった。

今年は都内の桜開花宣言も例年より5日程遅かったようだが開花と時を同じくしてまさに球春到来。セ・パ両リーグの公式戦が3月30日、各地で同時開幕した。

それに先立って、3月28、29日に東京ドームで米大リーグの今季開幕戦「2012グループスMLB開幕戦」が行われ、初日の28日には注目のイチロー選手が4安打を放ち、シアトル・マリナーズがオークランド・アスレチックスを延長戦の末に3対1で破った。米大リーグの日本での公式戦は4年振りだった。実はこの試合も招待されていたが、どうしても仕事の関係で時間がとれず、残念でたまらなかったが、辞退することになってしまった。

日米野球ということで私は、若い日の一日が急に思い出された。

昭和28年、その頃私は東葛飾高校を卒業し、師の小松崎茂先生の家で住み込みの書生となり、筆舌につくせない忙しい毎日を送っていた。

絵物語の全盛期で、小松崎先生の画家生活の中でも最も多忙な時期で、半ば伝説化されている不眠不休の72時間(3昼夜ノンストップ)といったハードスケジュールに追われていた頃だった。小松崎先生は、読売新聞から発行されていた『家庭よみうり』(後に『読売グラフ』と改題)というグラフ誌にも連載を続けていた。9月頃担当記者のAさんが原稿を取りに来た際、10月に来日するニューヨーク・ジャイアンツの入場券を土産に置いて行った。野球にはまったく興味のない小松崎先生は無造作に受けとって傍らの小引き出しにポンと放り込んでしまった。

先生が寝室へ去った後、引き出しを開けてみると、10月18日付のニューヨーク・ジャイアンツ対オールセントラルとのネット裏特別席の切符だった。

私達の世代は一人残らずと言っていい程の野球少年ぞろいで、戦後の飢餓の時代の中で、手づくりのグローブ、ボール、バットでの草野球…野球なしでは夜も明けない毎日だった。後楽園球場へも友人達と随分通った。

フランク・オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日したのは昭和24年10月だったが、当時中学生だった私達には高嶺の花で、何よりも終戦直後の食べる物とて手に入らない時代だったのであきらめる他無かった。

サンフランシスコ・シールズは今から思えば大リーグではなく3Aのチームだったが、日本側は7戦して1勝も出来なかった。

後楽園へ通ったといっても内野席などへは入ったことが無く、外野席の隅で応援しているのが精一杯だった。それが今度は本物の大リーガーで、席はピカピカのネット裏特別席である。私は先生の機嫌の良い時を見計らって正座をして両手をつき、必死に懇願した。

「忙しくてだめだよ!」と言っていた先生も、私のしつこいお願いには参ったようで、まして今迄一度もそんなお願いなどしたことも無かったので、奥様の口添えもあり、やっと一日の休みを許してくれた。

 

霧立のぼるさんの思い出

読売巨人軍V9達成に湧く後楽園球場の写真▲読売巨人軍V9達成に湧く後楽園球場(昭和48年11月1日、筆者写す)

あまり興奮したので、その日私は大失敗を演じているが、そのことは長くなってしまうので省かせていただく。とに角勇んで後楽園のネット裏の最高ともいえる席に落ちついた。

ところが座ってまもなく私の席の斜め前の席に白い大きな帽子をかぶったもの凄い美人が入って来た。顔をよく見て二度びっくり。少年時代から憧れていたスター霧立のぼるさんだった。今ならフィルムライブラリーでということもあるが、終戦直後はフィルムが不足していた故か、戦前の映画を沢山見る機会があった。私は中学生だったが、「愛の暴風」(昭・15)の北見礼子や花井蘭子、川崎弘子、飯塚敏子…少年の心に強く焼きついたスター達だった。中でも霧立のぼるは忘れられないスターで、山中貞雄の遺作ともなった名作「人情紙風船」(昭・12)の木場の老舗・白子屋の娘駒子や、長谷川一夫と岡譲二の「御存知東男(あずまおとこ)」(昭・15)のヒロインおこよは今もって忘れられず、時代物を描く時はいつもその面影を追慕している。その霧立さんがすぐ傍らに座っていて眼が合うと軽く会釈してくれるといった按梅で野球どころではなくなってしまった。

ニューヨーク・ジャイアンツを迎え撃つオールセントラル軍では、タイガースの猛将藤村富美男選手が、愛用の通称「物干し竿」という長目のバットでホームランを打ち、自分でも信じられない嬉しさ一杯の表情で踊りながらダイアモンドを廻っていたのを思い出しているが、その日の勝敗は全く覚えていない。試合終了と同時に2階席などから一斉に座席のエアークッションがグランドに投げ込まれ、私の周囲にもどんどん落ちてくるので、私は咄嗟に霧立さんの後に廻り、騒ぎが静まるまで身を挺してひそかにボディガードの役割を果たした。

この折りのニューヨーク・ジャイアンツの戦績は14戦12勝1敗1引き分けだった。

シーズンが終わってからの来日で、本気だったら歯も立たなかったろうと評論家の誰かが話していた。それからの後楽園通いは長く続いた。プロ野球も一時衰退気味になったことがあり、長嶋が一人で球界の人気を支えていると書かれた時代もあった。巨人のV9達成の日も後楽園に居た。ドームになって巨人×阪神戦に行き、その応援合戦の騒ぎに驚かされたが、「あー、野球はここでは屋内スポーツになったんだ」と一人納得した。体格、体力はまだ及ばないが、大リーグと日本のプロ野球の差はぐっと縮まった。スタンドでずぶ濡れになりながら、長嶋の近くでプレーに見入った日が懐かしい。

ところで、前述の北見礼子さんは晩年鎌倉にお住まいだったが、生まれはたしか野田市の時計屋さんの娘さんだったと聞いている。

林与一さんのお母さんでもある。

一方の霧立のぼるさんは、娘が渡米中のため港区南青山のマンションに一人暮らしをしていたが、昭和47年3月22日、電話をした知人が応答のないのに不審を抱き、彼女の妹たちに連絡し、同日午後11時25分ころ訪ねたところ、寝室の奥の三畳の納戸に蒲団を敷き、セーターにジーパンのふだん着姿で亡くなっている霧立さんを発見。枕元に睡眠薬の瓶が置いてあり、赤坂署により、睡眠薬の飲みすぎによる事故死と断定された。「マンションで一人寂しく…」「孤独の死」と各新聞はこの往年の人気女優の死を大きく報道したが、それによると、睡眠薬は10年ほど前から常用。その上自宅そばを走る首都高速8号線の騒音に悩まされ、死の直前ころはノイローゼ気味になっていたという。亡くなったのは、22日未明と推定された。55歳だった。後楽園で御一緒したのは36歳の頃で、本当に美しかった。

今年のペナントレースの結果は果たして何処へ? 今年はロンドンオリンピックも開催されるが、佳人逝きて帰らず│過ぎ去りし日々は、あれも夢、これも夢、皆、みいんな夢でしかない。

 

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