「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(12)

チャンバラぱらだいす植木金矢の健筆

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

植木金矢先生が描いた鞍馬天狗の絵▲植木金矢先生が描いた鞍馬天狗

はじけるような子供達の声とボールを蹴る音で目がさめた。子供たちの元気な声を快く聞きながら、昨夜は遅かったので春眠何とやら…起きよう起きようと思いながらうつらうつらと惰眠をむさぼっている。

もう何年前になるだろうか、上野公園内にある台東区立下町風俗資料館で「東京の子供百年展」というのが企画されたことがあった。

当時私は初代館長の松本和也氏と意気投合し、色々開催された展覧会のポスターを一手に依頼されて、楽しく夢中で描いていた。「東京の戦後展」「昭和青春展」「六区芸能展」「浅草の灯展」「夢淡き昭和展」…等々絵柄はすべて任され、本当に楽しい仕事だった。

さて「東京の子供百年展」のポスターを依頼されて、明治、大正、昭和…と過ごして来た子供達をどのように描こうかと思い悩んだ。

男の子の代表的な遊びといえばかっては「チャンバラごっこ」で女の子は「ままごと」。

明治から昭和までの流れをカット風に周囲に配し、中央にチャンバラごっこの当時のガキ大将の男の子を入れることにした。思えば「チャンバラごっこ」「ままごと」という遊びは今の子供達の世界からは全く消え失せてしまっている。

 

少年物全盛の時代に活躍

本年1月3日から4月1日まで本郷の弥生美術館で「伝説の劇画師植木金矢展」が開かれた。昭和20年代終わり頃から30年代にかけての植木金矢先生のチャンバラ時代活劇から現在の日本画風作品までが展示され、その膨大な作品の量に圧倒されてしまった。現在90歳を過ぎてなお矍鑠(かくしゃく)として絵筆を持ち新作を手がけているというのだから驚いてしまう。

会期中、3回もサイン会とギャラリートークがあり大好評だったと担当学芸員の松本品子さんから伺った。実は植木先生はグループで昭和ロマン館へも来館してくださり、その後色々作品のビデオ等も送っていただいた。

 

90歳を過ぎても健筆をふるう植木金矢先生の写真▲90歳を過ぎても健筆をふるう植木金矢先生

時代物だけではなく、戦前のヒット歌謡集等楽しかったが、何といっても本命は時代物で、河原で出会った座頭市と丹下左膳が斬り合うというパロディやら、アラカンこと嵐寛寿郎が扮した映画「口笛を吹く武士」(昭7)を全篇紙芝居のように描いてビデオに収めたりしている。また、お気に入りの関西浪曲の三原佐知子の熱演「母恋あいや節」も浪曲ビデオにしている。その情熱には驚嘆するばかりである。

広沢虎造の有名な「石松代参・三十石船の件りを口演に合わせて描くことになった」と言ってお電話をいただいたことがあった。

「森の石松というと、私達の世代では千恵蔵(片岡)だが、錦之助(中村・萬屋)で描いてくれと頼まれた…やっぱり時代ですね。私も年だから、その枚数をこなせるかどうか…」。

もうかなり前の話である。最近植木先生は日本映画の名作を手描きのポスターとしてオリジナルの作品として制作しているが、雑誌で活躍したのは、主に昭和20年代後半から30年代である。大衆物の作品もあったが、主な舞台は少年物であった。

人気はあっても少年物の世界は、出版美術の中でも一番恵まれない存在だった。

植木先生も随分御苦労されたことと思うが、一途にこの道を進んだ勇気と努力に改めて賛辞をお送りしたいと思う。近頃になって、やっとサブカルチャーという言葉も使われるようになり、タブロー(本画)の油絵や日本画とは別の評価で認められるようになったのは大変喜ばしいことであり、私の師小松崎茂先生も同様のことである。数日前の新聞で、福島鉄次先生の「沙漠の魔王」が復刊されるという記事を見た。事前予約で一冊1万7850円という。少年時代のアニメ監督宮崎駿さんや松本零士さんにも影響を与えたという「沙漠の魔王」はその稀少価値から古書業界では全巻揃いで一時数百万と騒がれたこともあった。マニアからの熱望とはいえ、これもサブカルチャーとして認められてきた一例である。

 

『少年画報』(少年画報社)掲載の三日月天狗の写真▲『少年画報』(少年画報社)掲載の三日月天狗

しかしながら、出版界そのものも大不況であり、電子書籍の話も出たり、絵そのものも、CGで仕上げたものが多くなって来た現状を見ると、植木先生の作品なども益々貴重な存在となって居り、心から御健筆をお祈り申しあげる次第である。私の親しい「鬼平犯科帳」や「剣客商売」の中一弥先生は満101歳で健在だし、プラモデルを中心に活躍している(特に船の作品で有名な)浜松在住の上田毅八郎先生は戦争で右手を失い、左手一本で大作も描き続けている。50年間で6千枚は描いたと聞くと気が遠くなる(しかも左手一本で!)。現在91歳のはずである。こうしたサブカルチャーと呼ばれる多くの作品をもっと世間に広めたいものと始めたのが昭和ロマン館だったのだが…。

 

丹下左膳に鞍馬天狗

ところで冒頭の「東京の子供百年展」は丹下左膳に扮した当時の子供をイメージしたが、途中で台東区の教育委員会から連絡があり、「丹下左膳は出来たら別のものにしてほしい」というので、「どうしてですか?」と聞くと「身体障害者だから…」と言うのでがっくりしてしまった。「では鞍馬天狗か国定忠治ならいいですか?」と聞くと、「そうしていただければ助かります」というので、メインの主人公だけ描き直すことにした。考えてみれば国定忠治は博徒であるし、結局鞍馬天狗にした。

因みにアラカンの「鞍馬天狗」は昭和2年、24歳のときの「鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子」にはじまり、昭和31年、53歳のときの「疾風!鞍馬天狗」に終わった。その数40本。原作者の大仏次郎先生はチャンバラばかりやるアラカンの鞍馬天狗に大不満だったそうだが、アラカン以外の鞍馬天狗はすべて不成功だった。

 

台東区立下町風俗資料館の「東京の子供百年展」のために筆者が描いたイメージラフ▲台東区立下町風俗資料館の「東京の子供百年展」のために筆者が描いたイメージラフ

もっとも「丹下左膳」を演じた大河内伝次郎にしても同様で、丹下左膳を演じた俳優の数を御本人も演じたことのある水島道太郎さんと数えあげ、その数に驚いたがここでも大河内の左膳に勝るものはなかった。─それがあっさり身障者扱いされてしまうのだから…。何をか言わんやである。

この折は浮浪児のカットも入れないでくれという注文もあったが、戦後の上野ということで強引に小さく描きこんでしまった。─これらのポスターの原画は、現在松戸市紙敷の昭和の杜(金、土、日、祝日開館)に展示されている。

植木先生御自身でも「私の描く絵物語の登場人物は当時の人気俳優の似顔で描くのが特徴だった」とお書きになっているが、現在は著作権や肖像権等もうるさいので、今なら使用が難しいものもあることと思う。

5月の夕ぐれの光は特に緑を神秘的に見せるようで、木々の緑が何ともいえない艶を帯びて潤んで見える。源氏物語にも更衣(ころもがえ)の頃は、「空の気色などさへ、あやしう、そこはかとなくをかしきに」とあり、暮れがたい空の色、そして木々の緑が放つ光を眺めると、胸がはなやいだり、ときめいたり、切なくなってくる…。季節の移り目には、たしかに体調に異常を来すことも多いようで、皆様もどうぞ御大事にお過ごしください。御健康を心よりお祈り申しあげて─。

 

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