夢見る頃を過ぎても(15)
人魚姫の絵にぎっしり詰まったM子さんの思い出
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
祭りのあと、宴のあと。ロンドン・オリンピックが閉幕し、テレビも少し静けさを取り戻した。今は連日高校野球の熱戦がくりひろげられている。秋は感傷的な季節と昔からの定説のようだが、私は秋も深まるとすっかり気持ちも落ちついて、感傷に沈むなんてことはあまりない。
むしろ、夏の甲子園の季節に入った今頃の季節、猛暑の中で、ふと僅かな秋風の気配を半袖の腕に感じたりするとふわあっと淋しい気分に促らわれたりする。
何より私達の世代にとって8月という月は敗(終)戦記念日もあるし、二つの原爆忌もあるし、筆舌につくせぬ戦後の飢餓の時代の思い出から、どうしても逃れられない因果な世代である。連日の猛暑は思考能力をかなり減じるが、それでも様々な思い出が甦ってくる。
そこへ、此の度の東日本大震災の惨状が重なって、遠い日になった戦後とまだ記憶に新しい災後への思いで一層胸が重くなる。そしてテレビの放送で、「○年前の○○五輪以来です」というような声をくり返し聞いてきたせいか、オリンピックのみならず、67年という戦後の日々、歳月の流れということにどうしても頭が行ってしまう。見るもの聞くものひとつひとつが過去につながり知らず知らず色々な過去の出来事を指を折って回顧している自分に気づきハッとさせられたりしている。8月という月は私にとってそんな月なのである。
酷評を浴びせられた絵
数か月前、親しくさせていただいている二代目松原操さんから電話が入った。
松原さんのことは、前にこの欄で細かく御紹介しているので省かせていただくが、念のため一寸だけ御紹介しておく。昭和を代表する歌手霧島昇さんを父に、ミスコロムビアと呼ばれた美人歌手松原操さんを母に、その間に生まれた二世歌手である。大滝てる子さんという名で演奏活動を続けていたが、先年、二代目としてお母さんの名を襲名した。
松原さんの電話によると、三重県津市の津リージョンプラザお城ホールというホールで午後のひととき・うたものがたり「人魚姫」というのを上演するそうで、そのポスターとチラシに「人魚姫」の絵を使わせてくれというお話しで、実はこの時点ですでに印刷も済んでいての事後承諾とのことで、私はもちろん快諾したが、大笑いになってしまった。
実はこの絵は「童画芸術協会展」の出品画として描いたものだったが、私にとって深い思い出のある絵になっている。
当時近所に母親と二人暮らしをしていたM子さんは、きまって午後になると自転車で遊びに来た。
楚々とした外見と異り、大変辛辣(しんらつ)な意見を言う人で、私が描きはじめた人魚姫の下図が気に入らなくて、「お尻の線が全然色気ない!
何とか直してよ!」と何回も消しゴムで描いたり消したりさせられた。あまり傍らに居てうるさいので、腹も立ったが、落ちついて聞くと、もっともな点が多く、私はかなり我慢して言いなりに下図を直した。M子さんは絵には無縁で、まったくの素人だったが、感覚はどうも私より優れたものを持っていたように思われる。娘さんの学校の関係で、ほんの一時期大阪の岸和田に住んだことがあったが、やる事がないと言って、彫塑の教室へ通ったことがあった。
初めて粘土を手にした筈なのにめきめき上達して私も驚かされた。この時も裸婦像の腰の線が巧く出来ないといって一人で苦労していた。その頃私は、岡山に小松崎茂美術館を友人が開くことになり、大阪、神戸、岡山方面に出かけることが多かった。岸和田という土地は『だんじり』で知ってはいたが、行くのは初めてだった。仕事の合間に誘い合わせて関西中を観光した。奈良や京都は各々一週間も滞在して東大寺の鐘を聞いて年越しをしたこともあった。
人と逢うのを好まず鋭い感覚を持っていた彼女は、平城京の朱雀門がひとつ復元されただけの何もない広い遺跡跡をぞっこん気に入り、どうしてもその場から離れがたく残暑を辛うじて避けながら昼頃から日没まで、広い広い平城京跡に立ちつづけたことがあった。講演会その他で松江市へもよくでかけたが、そのM子さんとの思い出がぎっしり詰まったのが、この人魚姫なのである。最後まで気に入らず酷評を浴びせられて、いつも言い合いを続けて来たが、何とこの絵が完成した2日後に彼女は事故で急逝してしまった。この絵を見ていると、「下手くそねえ!」という彼女の声が本当に聞こえてくるのである。北海道、沖縄にも何回か旅したが海外へ出たことはなかった。彼女は母親と2人でギリシャやヨーロッパに出かけたことがあったが、私は同行しなかった。
彼女が逝って3年余りの月日が流れた。彼女はたった60年の人生だった。「人魚姫」の絵は私だけが知る色々な思い出を引き出してくれる。
八尾の風の盆の季節
今年も早や9月。9月1、2、3日は越中八尾の風の盆である。初めて八尾へ行ったのは40年近く前だが、しばらく間を置いて八尾通いが始まり、十数年毎年八尾へ通った。
親しい編集者から、今年も「盆踊りですか?」と冷やかされたりした。その度、高速バスを利用したハードな貧乏旅行だったので、ここ数年は(風の盆も)様変わりしたし、私自身の体力が落ちてしまってもう出かける元気もない。
それでも8月の終わりになると八尾の街へ気持ちだけは飛んでゆく。
それにしても経済的にゆとりがあり、何よりも健康で、時間にもたっぷり余裕があるという三拍子そろった機会というのはそう沢山あるものではない。行きたい、見たい、やりたい、読みたい…私は自分のこうした欲望を「たいたい病」と称しているが、流石にこの歳になると、ひとつひとつあきらめざるを得なくなり、淋しさを感じさせられる。
四国徳島市に近いという北島町の教育委員会と熊本市から各々講演依頼が舞い込んだ。柏の公民館からも同様の知らせがあり、近いうちに打ち合わせに見えるという。その上まだ細かい事は書ける段階ではないが、私の著作本が初めて映画化されることになった。私としても初めてのことで、成り行きが気にかかっている。まだシナリオの段階だがどんな映画が出来ることやら、もう少し煮詰まったら御報告させていただくことにする。
昭和ロマン館が震災の余波で建物がダメになり事実上消滅してしまった。
丁度折よく松戸市紙敷に「昭和の杜」が開館され、一寸不便な場所だが、楽しい施設が出来上がり、まだ増設中である。鳥取市の展覧会が終わり今日どっと作品が戻って来た。今、色々な企画やイベントが持ち込まれているので、少し涼しくなったら整理しようと思っている。
「許されて 今宵ともせる 窓の燈に 法師の蝉の なくぞかなしき」
戦いに敗れた後の(大好きな)吉野秀雄先生のうたである。戦争を知る人も今は随分少なくなったように思い、またまた錯綜とした思いにとらわれる。