夢見る頃を過ぎても(19)
今年逝ったFさんに贈る「北帰行」
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
昨年の暮れも友人から大版の「日めくりカレンダー」を貰った。早速、元日から仕事場にこれを吊り下げて、毎朝一枚一枚めくり取るのを日課にして来た。その「日めくり」が、いよいよ残り少なくなった。暮れの雑感として、毟(むし)りとったあとの紙の残り滓(かす)は、そのまま今年一年の自分のだらしない「生きざま」を見せつけられるようで、忸怩(じくじ)たる思いに駆られる。にわかに活気づくあわただしい日々のなかで、足早に年は暮れてゆく。
凡愚の身としては、破り捨てた日々への未練と後悔やらで、残り日が急に愛しくも貴重なものに思えて「一日の重み」みたいなものを改めて感じたり、多忙の中で何となくしみじみと感傷的な気持ちになって来たりする。
新しい年の日記や手帳が、書店や文房具店の店先に積まれ、師走の点景のひとつになっている。私はこのところ20年来T社の同じ手帳を使っているので、近頃は行きつけの文房具店で、予約しなくても取り寄せてくれるようになった。
一方、使用済みの古い手帳は段ボール箱に一杯になっており、さて老い先短い私としては、数十年に及ぶこの恥多き記録の残滓(ざんし)をどう処分したら良いか、幾許(いくばく)かの愛着もあるだけに、これも頭痛のひとつになっている。丹念に日記をつけ続けた年も何年かあったが、歳とともに数年前からメモだけになってしまった。
それでも新しい年の手帳が届くと、まず表紙を開いた見返し部分に、自分の思いと願いを込めて、毛筆で「一期一会」と書きこむ。
更に続いて、折々の自戒の言葉を書き連ねるのも数十年続けて来た。しかし、自戒の言葉のほうは、なかなか守ることが出来ず、いつも反省と失望続きで、自己嫌悪に苛まれる結果になっているのも残念ながら事実である。
私は10年程前、根本家の墓地を改修した折、寺の住職に頼んで戒名もつけてもらった。
戒名をつけるということは、仏籍に移るということで、諸々(もろもろ)の煩悩も捨てきらなくてはいけないというのだが、これもむずかしく、とてもとても無欲無私の心境にはなりきれない。
生ある間は諸欲から解放されるのは、なかなか至難のことのようだ。
古い型(タイプ)の日本の男
今年も喪中ハガキが毎日のように入ってくる季節になった。
昨日来た3通のうちの1枚は、知人のFさんの姪御さんからのもので、Fさんの死を伝えるものだった。Fさんは、太宰治と同じ青森県金木町の出身で、昭和30年代の高度経済成長の波に乗って、「金の卵」と騒がれた中学卒の集団就職者の一人として上京した人だった。
当初は亀戸の小さな自動車修理工場に住み込みで就職したというから、映画「三丁目の夕日」で堀北真希さんが演じたロクちゃんの男性版といった所である。
Fさんはその後職をいくつか変えて、郷里へ戻ろうとしたこともあったそうだが、結局奥さんを貰って、浅草の観音裏の小さな目立たない天ぷら屋の主人に収まっていた。
Fさんは体格も立派な大きな人だったが対照的に奥さんは色白で小柄な新潟の長岡出身の人だった。
仲の良すぎる夫婦だったので、ジンクス通り子宝には恵まれなかった。
Fさんの母親が「金木」に健在だった頃、Fさんの帰郷の往復は、いつもきまって夜行急行の「八甲田」だったそうで、この「出稼ぎ列車」とも呼ばれた「八甲田」の思い出を訥訥(とつとつ)とした津軽弁で話すFさんの笑顔を今もなつかしく思い出している。
Fさんの店へは荒川区の小物雑玩具メーカーの社長Tさんに初めて連れて行かれた。
誠実なFさんとはすぐに親しくなり、良き友となった。以来店は私達の溜まり場のようになり、東映の版権課長の荒井宗朝氏達と狭いFさんの店で毎夜のように盛りあがった。他の店で夕食を済ませた後でも、以心伝心、ラストはFさんの店で落ちつくことになった。
店を閉じ、火も落としてから、Fさんを交えて一献傾けるというのが何よりの楽しみであった。もっとも私は生来の下戸なので、にこにこ話に加わっていただけだが…。
「窓は夜露にぬれて、都すでに遠のく…」。Fさんの持ち歌はこの「北帰行」一曲だけ。酔うといつもこの歌一筋だった。
その頃私はテレビキャラクターを追いかける仕事をしていたことは、このシリーズで何回も書かせていただいたが、TBSの親睦会にはいつも番組編成部の岡崎潔氏を中心に小旅行をしていた。
時折岡崎氏の上司の宇田博氏が同行することがあったが、何回目かの旅行の折、宇田さんは同行の一同を見渡して、「皆さんは相も変わらず同じ仕事をしているんですなァ。私は随分出世しましたよ」と言って皆を笑わせた。
宇田さんは、そうした軽口も、不思議に嫌味ととれない人柄だったし、事実宇田さんは、局内でも当時編成局長という要職にあったし、それなりの貫禄とオーラを備えていた。そして、この宇田博さんこそが、「北帰行」の作者その人なのである。
旅順高校を放校になり、孤り親の家のある奉天へ帰った若き日の挫折を歌ったこの歌は、長いこと「作者不詳」となっていた。のちに、宇田博作詞・作曲ということが判明して、ボニージャックスや小林旭の歌声で広く世に知られたが、宴会で酔った宇田さんは照れながら私の耳許で…「あれは若い頃の歌でネ、(ボッキ行)と言うのが正しい」と、いたずらっぽい笑顔でささやいた。生真面目なFさんにその話をしたら、何とも複雑な顔をされてしまった。
昭和50年のはじめだったかFさんの奥さんは乳癌を患い、あちこちに転移して、あっけなく亡くなってしまった。Fさんの嘆きは想像を越えるもので、店も休みがちになり、その後しばらくして店も閉じて「金木へ帰る」という報が届いた。前夜「お別れ会」をやり、送りには行けなかったが、木枯らし一号が吹いた寒い朝、古い型(タイプ)の日本の男がひとり、愛妻の位牌を抱いて、ひっそりと北へ帰ってしまった。「北帰行」の歌そのままに。
金木という町を私は知らない。北国の短い秋に、独りぐらしのFさんは何を想い、どんな生活をしているやらと思いつつ、とうとう会う機会に恵まれなかった。
「北帰行」の宇田博さんは、東京放送顧問を経て、重役になって何年か前に他界されたと風の便りでお聞きした。
F さんの思い出にあった急行「八甲田」―高度成長のまっ只中をひた走ったこの列車も新幹線時代に入り、時刻表から姿を消してしまった。そういえば(上野着発)の「津軽」も時刻表から消えて久しい。
暮れに相次いだ訃報
この暮れは相次いで様々な人の訃報が続いた。森光子さん。そして十八代目中村屋。十八代目勘三郎さんの死は大きなショックだった。
57歳というのはあまりにも若い。読売新聞のコラム「編集手帳」にもあったが、「声がよくて姿がよくて、芝居がよくて舞踊がよくて、古典がよくて現代劇がよくて、笑わせてよくて泣かせてよくて…」。足りないものが何ひとつない梨園に咲いた大輪の花だったが寿命だけが足りなかった。
これも「編集手帳」から引かせていただくが、「57年は短いが、人に倍する中身の歳月と思い」、心から御冥福をお祈り申しあげる。
ところがその訃報に次いで、今度は小沢昭一さんの訃報である。小沢さんには大変お世話になった一事があり、立て続く不幸の報らせに正直がっくりと参っている。
生前小沢さんも愛した浅草六区に残っていた映画館が2軒取りこわされて、これで浅草六区から映画館が無くなってしまった。
掲載した写真は昭和33年頃の浅草六区で、ちょうど映画「三丁目の夕日」の時代と重なる。浅草六区からは戦後もエネルギーをもらった人も多かったろうに。この通りから人影もまばらになり映画館も姿を消した。すべて時の流れは天運とはいえ、何とも切なく淋しい年の暮れである。
忘れられぬ祖母の手の温もり
お酉様の話から大脱線してしまった。脱線ついでに―私事を申しあげるが、私の母方の祖母は娘の頃、作家村上浪六家で女中奉公をしていたという。和裁が得意だったので、その後は裁縫のお師匠さんとして、知人の娘さん達が多く習いに来ていたという。
祖母の叔母夫婦が吉原で中位の妓楼を持っていたそうで、その店の縫い物(遊女たちの)を多く手がけた話を幼い頃よく聞かされた。
そんな訳で私を溺愛してくれた祖母は吉原に詳しく、お酉様で熊手を求め、裏手に出て弁天池の傍ら弁財天の隣りに建つ吉原観音に詣でるのが常のコースだった。この吉原観音は、吉原の遊女をはじめ関東大震災の多くの犠牲者を供養するために大正15年に建立された。大きな弁天池の周囲には見世物小屋も並び活況を呈していた。サーカスのジンタの音など私の幼い耳に残っている(池は昭和34年に埋め立てられ、吉原電話局が建ってしまった)。お酉様の日は、一般の子女も吉原の中を堂々と歩けたので、子供心には何だか判らない明るく華やかで賑やかな通りを歩いて楽しかったことと、祖母の手の温もりが今でもなつかしく思い出される。それにしても昭和40年代頃までのお酉様の人出は凄かった。入谷方面、国際通り方面、三の輪方面と三方からの人の流れを機動隊の警察官たちが整理しているのだが、お詣りするまでかなりの時間を要した。
たしか人ごみで将棋倒しとなり圧死した人が出たのはいつ頃のことだったろうか…。
祖母は昭和24年7月まだ一面の焼け野原だった八王子で、祖父との仮小屋生活の中で亡くなった。葬儀も終わって帰柏の途中、その日の朝起こったばかりの、まだ生々しい「三鷹事件」の電車の暴走・脱線現場を電車の窓から見た。