夢見る頃を過ぎても(24)
敬愛する富永謙太郎と娘・美沙子さんのこと
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。
朝から雨の日を迎えている。今頃の雨を「青時雨」(あおしぐれ)とか「青葉雨」とか呼ばれるように聞いたことがあるが、青葉、若葉の瑞々しい葉っぱをしたたり落ちる雨のしずくを見ていると、ある人を思い出して、遺る瀬ない思いで胸が熱くなる。
そう、あれはいつ頃のことだったか…。
「ウルトラセブン」が流行っていた頃だから昭和43年頃のことだったと思う。あの日もちょうど今日のような雨が朝から降っていた。
その日私は所用で赤坂のTBSへ出向いていた。お訪ねした編成部の課長がちょうど会議に入ったばかりということで、TBSの斜め前にあった喫茶店で時間を潰すことにした。弱い雨が降り続いていて、窓際に座った私は大きな窓ガラス越しにぼんやり外の雨脚をながめていた。
ふと気付くと、すぐ近くの席で、同じように一人で外を眺めている女性が目に入った。
―それが富永美沙子さんだった。
美沙子さんとは、当時劇団四季に在籍していた友人のS君に紹介されたことがあったが、彼女の大ファンだった私は、数回の出会いでも目礼を交わすのみで会話などしたことがなかった。まして美沙子さんの父君は、これ又私が敬愛してやまない挿絵界の大先輩である富永謙太郎先生である。
私は思いきって席を立ち御挨拶をした。美沙子さんは最初「あれっ?」と驚いた顔をしたが、友人の話をするとすぐ思い出してくれて、何と自分の隣の席へ移るようにすすめてくれた。思いがけない成行きに、私は内心少なからず興奮して席を移しそれからのひととき父君の謙太郎先生の話に花が咲いた。「私よりずっと詳しいのネ」美沙子さんは明るく笑ったが、その笑顔は今も私の心に強く灼きついている。
大衆挿絵界の寵児
富永謙太郎先生(以下一部敬称略)は、「森の石松」で有名な静岡県周智郡森町で明治37年に生まれている。謙太郎は本名だが、長男ではなく、六人兄弟の四番目だったという。
「いいかげんな親父だった…」という述懐が残っている。
高等小学校を卒業したら、すぐ家を出るんだと、子供心に「家を出る」ことばかり考えていたという。謙太郎少年は早くから画才を発揮して近所の人気者になっていた。「そんなに絵が好きなら花簪(かんざし)屋にでもなってみたら…」と言われ、伝手(つて)をもとめて東京下谷竹町の花簪屋に住み込んで丁稚奉公をすることになった。
しかし、仕事といえば出来あがった品を背負って、馬喰町や横山町の問屋へ卸しにゆくばかり。前掛けに鳥打帽の丁稚姿の謙太郎少年は、慣れない東京の空の下で、ただ夢中で忙しい日々を送っていた。楽しみといえば、当時美倉橋の近くにあった中央劇場の絵看板を眺めることぐらいで、使いの途中謙太郎はいつも看板の役者絵に見蕩れ、その時だけ小僧奉公の憂さを忘れた。偶然上野の美術堂という看板屋で働いていた男と知り合い、謙太郎は花簪屋を辞めて飛びつくようにその看板屋へ入りこんでしまった。ところが、入ってみると絵を描くどころか力仕事ばっかり。小さな身体で大八車で看板を運んだり、屋根の上での危険な作業ばかりで結局この店も夜逃げ。
一度は帰郷したものの夢を捨てきれず、再度上京して、小石川西丸町の「辰巳」という看板屋にもぐり込んで、どうにか仕事をし始めた矢先にぐらぐらっと関東大震災に遭って命からがら郷里へ逆戻り。十代の謙太郎少年は様々な苦労を重ねている。
東京の復興を郷里で聞いて、三度目の上京をした謙太郎は友人と看板屋を始め、(一度目の)結婚もしたが、仕事がどうもうまくいかなくなり、雑誌の挿絵を描いてみたら―とすすめる人があって、漫画「冒険ダン吉」で有名な島田啓三を紹介してくれた。
そして、島田啓三の口ききで、子供雑誌の挿絵を細々描き始めた。二度目の妻を迎え、子供が生れるという時に、その出版社の経営が悪化し、途方にくれていると、作家の藤森順三が、菊池寛を紹介してくれた。菊池寛は気軽に会ってくれた上、謙太郎の絵に一通り目を通すと、「次の小説の絵は君に描いてもらおう」と思いもかけぬ夢のような話になり、雑誌『日の出』に菊池寛の短篇「妻は見たり」の挿絵を描いて、やっとという感じで挿絵の本舞台へ立つ機会に恵まれた。謙太郎は28歳になっていた。その後は菊池寛「結婚街道」「心の王冠」、江戸川乱歩「地獄の花嫁」「地獄の道化師」など、竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らと組んで、時代物、現代物、探偵物と大衆物挿絵界の寵児として幅広く活躍した。当時のことを謙太郎は―、
「やっとたどりついた挿絵の仕事は修羅のような世界だったと思います。当時は今の劇画家より人気が高く、弟子志望者がひきもきらず訪ねてくるし、並大抵の忙しさではありませんでした。病気でも休むことが出来ず、僕も一時はノイローゼ気味になって、家族に当たり散らしたものでした…」と語っている。
むしろ戦後の出版ブームの時代は、出版社の社長が直接仕事を依頼に来て、新聞紙にくるんだ厚い札束をどんと出したり、小切手をその場で書きこんで、「さあ描いてくれ」というような時代であの頃は面白かったと当時を懐かしんでもいた。昭和28年1月1日の読売新聞朝刊から、村松梢風(村松友視の父君)作(近世名勝負物語)の「名優船乗込み」が登場した。このシリーズは「沢正風雲録」「女侠剣豪伝」「菊・吉」「舞扇花柳流」といったように、芸術、演劇、武道、スポーツ、出版、医学、経済、角界、棋道…など様々なジャンルでのライバルの対決を、主人公の生涯を軸に色とりどりの人間模様を秘話や挿話で綴った好読物であった。富永謙太郎のしっかりした描写の挿絵の魅力もあり、この連載は8年もの長きにわたって読者の目を楽しませた。私は毎日が楽しみで、スクラップするのが日課となり、8年分ほぼ全点大事に保存している。
愛娘との悲しい別れ
さて話は富永謙太郎の一人娘美沙子さんの話に戻すことにする。
昭和8年11月30日に、謙太郎と妻末子の間に生まれた美沙子さんは昭和24年、敷島高校を中退して松竹歌劇団に5期生として入団している。草笛光子、紙京子らと同期生だったが、テアトル・エコーを経て昭和30年頃からテレビで活躍することになる。当時のラジオ東京テレビ「おやゆび姫」が初出演で、同局の「アイ・ラブ亭主」や日本テレビ「夜のプリズム」、TBS「七人の刑事」ほか映画でも活躍した。
昭和34年スタートしたフジテレビ「うちのママは世界一」で主役のドナ・リードの声を吹き替えて以来、声の出演が増え、主にソフィア・ローレン、ドリス・デイなどを吹き替えた。私には冒頭に記したように、魅力的なお姉さんという印象だったが、その美沙子さんの身に何が起こったかは不明だが、昭和50年5月2日、北海道苫小牧市高丘の国道近くで、アテレコ・プロデューサーの母袋博と美沙子さんが停めた車の中で、排気ガスによる心中死体で発見された。美沙子42歳、母袋は14歳年下の28歳だった。美沙子さんは下着まで黒の死に装束で、車の中にあった北海道のマップには、母袋博の字で「死出の旅」のメモが綴られていたという。(以下桑原稲敏著「往生際の達人」より抜粋)
〈小樽市〉いっぱい食べちゃった。ウニ、イクラ、トロ、イカ。〈サロベツ〉「凄い所」と美沙子言う。「あーっ」と驚くサロベツ原野・利尻富士を背景に夕日が沈む。〈抜海岬〉「淋しいー」と美沙子言う。ボク、そっと肩を抱く。〈雄信内〉ドライブイン「くわむら」でコーヒー飲んじゃった。〈美深町〉スピード違反でつかまる。罰金6千円。〈札幌市〉パイプをつくる(注=マフラーから排気ガスを導入するビニールパイプ)公園を散歩する。リンゴを囓りながら美沙子と肩を組んで歩く。楽しいなあ!(以下略)
一人娘に先立たれ、心の支えを失った謙太郎先生は絵を描く気力も失せて家に閉じこもりがちになり、淋しい毎日を送っていたという。時折夫人と連れ立って、娘の墓前で一合の酒をくみ交すだけが楽しみというような晩年を送り、昭和60年81歳で、ひっそりと愛娘のもとへ旅立っていった。
毎年青葉雨の頃は、あの日の美沙子さんの笑顔に思い出がつながり切なくてたまらなくなる。
※掲載の絵は全て富永謙太郎先生が描いた挿絵