「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(26)

窮乏の中で家族そろって歩いた旧街道の思い出

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

焦土に立つ(筆者画)▲焦土に立つ(筆者画)

昭和20年8月15日―御存知の通り終戦記念日である。

私はまだ少年だったが長男という自覚から母と幼い弟妹とを抱えて父の実家できびしい疎開生活を送っていた。戦争が終り、日毎、夜毎の空襲からは解放されたが、食糧事情は戦時中より一層ひどくなった。東京の家は罹災してしまったので、柏の町の中でやっと木造の古いアパートを見つけ、10月にそのアパートへ移った。仕事の関係で、離れて母の実家で暮らしていた父も帰って来て親子5人、六畳一間きりのアパートで戦後生活のスタートをきった。何もかも失ってしまったので、引越しの荷物は、夜具を入れてもリヤカーにわずか一台分。これが全財産だった。

炊事場も、トイレも共同だったが、何よりも親子5人が揃ったのがこの上なく嬉しかった。祖父母までは引きとるスペースがなかった。祖父母は東京で罹災後、中風で寝こんだ祖母の妹夫婦の面倒を見るため八王子へ移り、ここでまた2度目の空襲に遭い、壕舎をちょっと改造した住まいで2人で暮らしていた。

アパートへ移ったはじめての正月、(前述通り食べる物は戦時中以上にきびしく)やっと年越しをしたが、1月20日、大事に大事に可愛がって育てていた妹のヤエ子が急性肺炎で、「ああちゃん」(母のこと)の一言を残して、あっけなく世を去ってしまった。1歳7か月のあまりにも儚いいのちの終りだった。

疎開中の日々と思い合わせ、悲しくて悲しくて、泣いて泣いて涙が止まらなかった。 私はまだ小学5年生だったので従らに泣くだけで何の役にもたたなかったが、父は大変だったらしい。私の家の寺は浅草橋にあったが戦災で消息不明。同じ宗派の寺を探して、流山の成顕寺(じょうけんじ)さんで読経をしていただき、やっと頼みこんで八柱霊園で荼毘(だび)に付してもらった。くどいようだが、昭和21年の1月―何もなかった。

当然お棺など入手出来なかったし、嬰児だったので、みかん箱(当時は木箱だった)へ納められて妹は悲しく旅立った。父母の心情を思うと、今でも目頭が熱くなる。

話は変わるが、その頃常磐線は上野―松戸間までが電化されていて、当時柏に住んでいた私達には、松戸から東京方面の通称「電車区間」と呼ばれた乗車券は極端に入手困難だった。国鉄職員は勿論駅長さん達でも仲々入手出来なかったという。

逆に東京方面から松戸以遠の「汽車区間」の切符も同様に入手出来なかった。

母の実家は現在の埼玉県八潮市だが、妹の死後、しばらくして何かの用事で出かけたことがあった。

当時は行き交うトラックの数も少なかったが、たまたま通りすがりのトラックの荷台に頼んで運よく乗せてもらい、綾瀬あたりで降ろしてもらって、あとは歩いた。親切なトラックの運転手さんだった。

母の実家に二泊ほどして、いざ帰柏することになり、今度は帰りの松戸からの切符がどうしても手に入らない。やむを得ず親子5人で松戸から柏まで歩くことになった。

父は6歳になったばかりの弟を時としては肩車をしたり、背負ったりして「兵隊にとられたと思えば何ともない」とつぶやきながら、それでも笑顔で私達を元気づけた。母の背には10月に生まれたばかりの新しい弟が加わっていた。

国道6号が開通するのは昭和30年代になってからのことで、旧水戸街道を私達は重い足どりで柏へ向かった。

今の北松戸あたりの道端にチョロチョロ清水が湧いていて、「この水飲めます」という古い木札が下がっていた。この水が本当に美味で、むさぼるように飲んだことが、今も忘れず心に残っている。

 

悪友と通った戦後の日劇

昭和22年、その入手困難な有楽町までの往復切符を2組入手した友が「日劇へ行こう」と誘いに来た。友の家は駅前通りで旅館を経営していたが、女中さんが前の夜から並んで、やっと入手してくれたという。私も友も新制中学1年生になったばかりだった。因みに取手までの電化が完成したのは昭和24年6月のことである。

 

夜の日劇。数寄屋橋があった辺りの写真▲夜の日劇。数寄屋橋があった辺り

勿論両親には内緒で私はその話にとびついた。汽車は人間が乗れるところ、ぶら下がれるところ、どこもぎっしりの人の山で私は機関車の炭水車の僅かのすき間に両手でぶら下がって東京へ向かった。買出しのリュックを背負った人が線路わきの電柱に接触して振り落とされて死亡したという話もよく耳にした。汽車がどの辺りまで進んだ頃か、私の左の首筋に突然激痛が走った。当日私は夏物の詰襟の学生服を着ていたが、汽車の煤煙に含まれた焼けた小石が飛んで来て襟へ飛びこんだのだった。カラーはぶすぶす燃えて首筋に火傷を負ったのは判っていても、両手で汽車にぶら下がっているので手は放せない。やっと次の停車駅で停車した際友人に見てもらったら傷はもう膿が出て襟は皮膚にくっついているという。上野へ着いてやっとカラーをはずし、痛みを我慢して日劇へ向かった。「馬鹿なことをしたなあ。父母に隠れて出て来たので罰が当たった!」と反省したら、日劇で上映していた映画は「エノケンロッパの新馬鹿時代」。子供心に痛さを堪えて笑ってしまった。私の左首筋には今でもこの時の「新馬鹿時代」の火傷の痕がうっすら残っている。ところでお目当ての実演は小夜福子主演の「紅楼の夢」で、内容は忘れたが小夜福子が歌った「小雨の丘」がひどく心に沁みた。

 

夏の女(筆者画)の絵▲夏の女(筆者画)

実はつい先日、古い知り合いの鷺巣政安さんが訪ねて来てくれた。鷺巣さんは私より二歳ぐらい年長で、「TCJ」が「英憲」と名を変える前から在籍し、「エイトマン」「鉄人28号」をはじめ「サザエさん」のアニメの企画から今までずっと「サザエさん」と共に歩いて来た人である。 お兄さんの鷺巣富雄さんはこれまた長いつき合いで、お兄さんの富雄さんの方は漫画家として「うしおそうじ」の名で一世を風靡し、手塚治虫先生とも人気を競い合ったお方である。

更に富雄さんの方は、「ハリスの旋風」「マグマ大使」の他、「宇宙猿人ゴリ」「快傑ライオン丸」等を制作した「Pプロ」の社長でもある。私はどちらかと言うとお兄さんとの交流が多かったが久々にゆっくり昔話に花を咲かせた。前述の日劇の小夜福子主演の「紅楼の夢」も見ているというのでお互いにびっくり。「新馬鹿時代」の映画の思い出もなつかしく、時を忘れて話は盡きなかった。

それから少したって、性懲りもなく、友と私はまた日劇へ出かけている。「あきれた昆虫記」という実演で、あきれたボーイズで人気者だった坊屋三郎さんがコオロギに扮して例のガラクタ楽器で明治唱歌の「故郷の空」をジャズ風にアレンジして演奏していた。「夕空はれて 秋風ふき…」これは本当に楽しかった。後にスコットランド民謡がもとになっている歌と知ったが坊屋三郎の面目躍如たるもので私は熱中してしまった。晩年の坊屋さんと数回逢う機会を得たが、坊屋さんはその舞台をすっかり忘れてしまっていた。そういえば舞台はタイトル通り昆虫オンパレードで菊池章子さんが全身真っ黒な衣裳で黒揚羽蝶に扮して当時大流行していた「星の流れに」を歌っていたが、これも心に残った。菊池さんとも晩年親しくさせていただいた時期もあり、この話をしたが「古い話ネェ」と言って笑われてしまった。有楽町駅には話に聞いた「夜の女」たちが沢山立っていて、そのうちの一人が駅の柱の陰から私達二人にからかってウインクしてみせた。その時のショック! 毒々しい口紅の色がまだ私の心に残っている。

本格的な日劇通いは高校時代からで、浅草と有楽町へは良く通った。清水秀男と重山規子の名コンビや藤井輝子、上条美佐保、福田富子そして高英男などなど数多くのタレント達の顔や姿がなつかしく頭を過ぎる。芸能の殿堂として芸人さん達の憧れであった日劇も、劇場としては苦難の時代を多く経験し、昭和8年12月24日の開場披露から47年余、昭和56年2月15日に幕を閉じた。

日劇の舞台の思い出も書き出したらキリがないが、今月も紙数が盡きてしまった。頭に少しでも残っているうちにいずれ書かせていただこうと思っている。

さて今月も浅草寺の四万六千日(ほおずき市)も過ぎ、猛暑の夏がやって来た。 涼しげな夏の女性のカットを添えて筆をおかせていただくことにする。

 

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