「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(30)

有名漫画家も憧れた島田啓三と太田じろう

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

太田じろう先生の代表作「こりすのぽっこちゃん」▲太田じろう先生の代表作「こりすのぽっこちゃん」

長いこと昔の子供の遊びをテーマに郷愁の世界を描き続けている宮坂栄一先生から電話が入った。宮坂先生とは表参道で二人展をやったこともあり、ごく親しくさせていただいている大先輩である。

「所用で太田じろうさんのお宅へお邪魔したところ、根本さんの噂が出て、奥様から、今どうしていらっしゃるかしらと色々聞かれたので、私の知る限りの根本さんの近況を話して来ました…」という内容だった。

実は私も少年時代から絵の巧さで心酔していた太田じろう先生が59歳という若さで急逝されて以来、楽しみにしていた( 仕事での)太田先生宅通いがぷっつりと切れてしまい、奥様には何回かお電話したもののすっかり御無沙汰してしまっていたので、いつも心に掛って居り、今月5日に新しく移られた練馬駅近くのマンションにお訪ねすることになった。私達ぐらいの年齢になると、自分が動けるうち、そして思い立った時にお会いしておかないと、お互いに後々悔いることが多いので、仲間のメソポ田宮文明さんを誘い、折りよく連絡のとれた売れっ子落語家として「笑点」でも活躍中の林家木久扇師匠も「5日なら大丈夫!」ということで協議一決。3人で出かけることになった。

 

憧れの太田じろう邸へ

筆者が大切にしている「良寛さま」の原画▲筆者が大切にしている「良寛さま」の原画

太田じろう先生を知る人も今は少なくなっていると思う。昭和40年代、私はこの憧れの先生宅へわくわくして通い、仕事の上で大変にお世話になった。

太田先生は大正12年東京の深川で生まれている。心臓が悪いということは耳にしていたが、昭和57年、バスで病院へ向かう途中、心筋梗塞で車内で急逝した。59歳だった。

奥様のアヤ子さんは、戦前から戦後にかけて、『少年倶楽部』他で活躍された「冒険ダン吉」の作者島田啓三先生のお嬢さんである。

「のらくろ」とともに「冒険ダン吉」は文字通り一世を風靡した。

木久扇師匠の話では、亡くなった立川談志師匠が島田先生の色紙を持っていて、よく自慢していたそうで、木久扇師匠は羨ましくてたまらなかったという。

太田じろう先生は島田啓三先生に師事したので、師匠のお嬢さんと結婚した訳である。

色紙といえば、太田先生の色紙はプロの漫画家の中でも評判で、私が頂いた「良寛さま」の色紙は今でも宝物として大事に保存している。

私が太田先生と親しいということが広まり故人になった「仮面ライダー」の石ノ森章太郎さんや、「天才バカボン」の赤塚不二夫さん、虫プロの人達などに頼まれて、随分先生に色紙をおねだりした事があった。皆すばらしく、手許に置いておきたいものばかりだった。

太田家へ伺うにあたり、前述の宮坂先生とアヤ子夫人からと各々丁寧な地図が郵送されて来た。練馬駅から程近く大通りに面していて、大変判り易い筈なのに、マンションの入口が一寸判りにくく、お二人の御好意に感謝した。

 

左から林家木久扇師匠、太田アヤ子さん、筆者の写真▲左から林家木久扇師匠、太田アヤ子さん、筆者

木久扇師匠が同行するとお伝えしたので、太田家ではお嬢さんもお孫さんも来宅していて、賑やかな一日となった。

太田先生の描いた「こりすのぽっこちゃん」は雑誌『こばと』(集英社刊・のちに『こばと幼稚園』と改題)の看板スターとなり人気を博した。当時私は『こばと幼稚園』の第一付録を手がけていたので、「ぽっこちゃん」とはお馴染みで毎月付録の方は私が描いていた。

「ぽっこちゃん」と共に「ポパイ」も太田先生は得意で、すばらしい「ポパイ」を描いていた。その頃『少年画報社』で洋菓子の不二家の「ペコちゃん」を表紙に使った『ペコちゃん』という雑誌が創刊され、童画家に対する知識がまったく無いというので編集で何回も相談に来宅した。私も雑誌に描けることが嬉しく、本誌や別冊付録などへ描かせていただいたが、その折「ポパイ」を連載することが決まり、「ポパイ」はやっぱり太田先生でしょう―ということになり、太田先生とも相談して、『ペコちゃん』にも描いてもらうことになった。

しかし『こばと』へ毎月連載しているので『ペコちゃん』の方はたしか「皆川映一?」というペンネームで描き分けることになった。

師の島田先生といい、太田先生といい、あんなに絵の巧い画家はおそらくもう出て来ないのではないかと思う。お二方とも現代物も時代物もすばらしく、時代考証もしっかりしていて、漫画というスタイルをとってはいたが、それは一コマ一コマ立派な絵になっていた。「良寛さま」「弥次喜多もの」「豊臣秀吉」から「西郷隆盛」など太田先生の多くの歴史物は本当にすばらしかった。私はスクラップして今も宝物として保存している。

話が入り混じるが、私が幼い頃見た絵で、『少年倶楽部』だったか、日暮れの小さな駅で兄妹が汽車を待っている絵があり、おそらく帰宅するお父さんを待っている絵だと思うが抒情たっぷりのこの絵が、「冒険ダン吉」の島田先生の作と知って驚いたことがあった。

 

他を寄せつけぬ巧さ

島田啓三先生の代表作「冒険ダン吉」」▲島田啓三先生の代表作「冒険ダン吉」

島田先生は漫画を描く前に、かなりリアルな挿絵を描いていたこともあり、「冒険ダン吉」で斯界( しかい)の大スターになっても、「漫画家」という肩書きには抵抗感をお持ちだったらしい。話が一寸横道へそれるが、一口に漫画家といっても、「マンガ家」「まんが家」などお人によって、ぴったりくるイメージが各々違うようで、やはり、そんな点をこだわった石ノ森章太郎さんは、晩年「萬画家」という新しい呼称を自分の肩書きにつけてこれにこだわっていた。

島田先生も太田先生も漫画の傑作を描き、漫画家という肩書きで呼ばれて来たが、とに角お二方の絵の巧さは凄かった。今でもジャンルは一寸異なるが「釣りキチ三平」の矢口高雄さんや、大友克洋さんをはじめ絵のうまい作家も数多く居るが、本当に絵のうまい漫画家が少なくなっているのも事実である。

太田先生は他人を寄せつけない巧さを持ちながら、晩年は時流から一寸外れて、大いに悩んでいた。しかし時代考証のしっかりした歴史漫画は、当時の売れっ子漫画家も参考用に集めていた例を私はいくつも知っていて、ひそかに嬉しく思っていた。

晩年太田先生は、「子守っ子百態」を描きたいんだと私にも話してくれて、私も大きな楽しみにしていた矢先の急死であった。

今度の訪問で奥様や美人のお嬢様の真知子さん、お孫さんの理恵さんも随分喜んでくださった。

奥様が島田先生と太田先生の下図を取り出して見せて下さり、思いがけず、木久扇師匠、メソポ田宮氏、私とで、遠慮しながら、実は図々しく頂戴して来た。帰宅して数枚の下図を溜息まじりに何度も見返している。

その上3人に「桃太郎」の絵本の原画も一枚ずついただいて来た。宝物である。

若き日、漫画家清水崑先生に師事して漫画家を志した木久扇師匠も大層な喜びようで、御存知の方も多いと思うが、NHKの「日本の話芸」のタイトルも木久扇師匠の作品だが、今全面的に描き直しているのだという。「お誘いして良かった!」と私も嬉しかった。

かつて太田家は膨大な資料で埋めつくされ、引越しの折の奥様の御苦労は並大抵ではなかったらしい。因果な商売で、誰しも貧欲に資料を集めているが、最晩年、太田先生が「根本さんの家までの地図をください。夜陰に乗じて本を盗みに行きたい」といった冗談と笑顔をなつかしく思い出している。

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