「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(32)

懐かしい奥多摩の老舗そば屋とゆずの里

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。

筆者の今年の年賀状▲筆者の今年の年賀状

明けまして おめでとうございます。

本シリーズも平成16年5月9日から第一部「小松崎茂と私」で始まり、途中僅かの中断を挟んで二部、三部と続き、気が付けば今年は早や平成26年―流れに任せながら、足掛け10年近い歳月があっという間に過ぎてしまいました。当初は「松戸よみうり」も月2回の発行でしたので(今は月1回)編集部の話では通算105回も続いているそうで、「光陰の速やかなること、正に白駒(はっく)の隙(げき)を過ぐるが如し」の言葉が実感として胸に迫ります。これも偏に読者の皆様からのあたたかい御支援の賜によるもので、心から御礼を申しあげる次第であります。

 

ジェッター会とソラン会

旧臘、もう数え日となった21日、友人から少し早い「年越そば」を食べに行こうと誘われ、色々迷った末、奥多摩まで足を延ばし、御嶽駅近くの「玉川屋」まで出かけることになった。建物は明治のもので大正4年創業という古いそば屋で、今も営業しているだろうかと心配したが、満員の盛況振りで、そばはもとより、ここのつけ汁は何とも美味だった。

玉川屋のすぐ目の前、今は「ゆずの里」という名を売りものにしている勝仙閣は思い出深い旅館で、一部屋空いているというので折角ここまで来たのだからということで思いきって一泊することにした。

昭和40年代になるが奥多摩が大好きというTBSの重役のHさんを中心にグループで何回か泊ったことのある旅館である。

当時は小さい建物だったが、今は増改築もして、おぼろ気に覚えている昔の面影とはすっかり様変りしていたが、それでも非常に懐しく感じられた。そうそう10年程前に、出版社の編集者に招かれて、ここで昼のゆずの会席料理を馳走になったことも思い出した。

 

スーパージェッターと宇宙少年ソラン▲スーパージェッターと宇宙少年ソラン(筆者他画)

テレビの子供向けのキャラクター物の全盛時代を迎える頃、TB S では「スーパージェッター」と「宇宙少年ソラン」を放送していて、この2 本のキャラクターの商品化を契約している業者の親睦会として、「ジェッター会」「ソラン会」というふたつの会があり、各々で春秋の2回小さな旅をしていた。私は両方の会の幹事を仰せつかっていたが、放映も終り、TBSでは「オバケのQ太郎」や「ウルトラマン」の全盛を迎えた頃、前述の「ジェッター会」と「ソラン会」を解散することになり、余った会費を全額使いきって終わらせようということになった。

会の残金は大した額でもなかったので、幹事数人でお世話になったTBSの重役Hさんと編成部のOさん達を招いて泊りに出かけたのがこの宿なのである。

勿体ない話で、一回の宿泊では芸者をあげても(当時芸者さんは福生から出張して来ていた)会の残金がどうしても使い切れず、続けて同じ宿に二度も出かけ、やっと帳尻が合ったという―思えば良き時代だった。玉川屋のそばはその度に寄ったし、もっと古くは、画描き仲間のグループ数人で、スケッチに出かけた折にも立ち寄っている。その頃私は20歳を過ぎたばかりだった。

私にとって奥多摩という土地は、大好きな川合玉堂先生の記念館もあるし、その他いろいろ懐しさがつまっている土地なのである。

 

 

 

「雪夕暮入谷畦道」

話が逸れるが、そば屋で思い出したことがある。生前のコロムビア・トップさんとそば談義をしたことがあり、どこのそば屋さんだったかは失念したが、そのそば屋で婦人連れの上品なご老人と何回か出会ったそうで、そのご老人のそばの食べ方の美事だったこと! まるでそばはこのように食べるもんだと言っているようで、ご老人が帰ったあと、「あの人は一体何者かね」と店の人に訪ねたら、「播磨屋さんよ」という答えが返って来たという。「大播磨!」と大向うから声がかかった先代の中村吉右衛門丈だったと知り、「流石!」と本当に感心したという。

「雪の降る芝居かなしく美しく」たしかその先代の吉右衛門の作と覚えているが、一寸自信がない。今年も各地から豪雪で苦労している人々の様子をニュースで知り、そうした人達には大変申し訳ないが、雪の少ない地に住み、私も雪の降る芝居は大好きである。

 

スーパージェッターと宇宙少年ソラン▲「近江のお兼」 今村恒美・画

雪の芝居で先ず第一に思い出されるのは、入谷村の蕎麦屋。直侍と三千歳の悲恋物語である。これは、「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)の六幕目「雪夕暮入谷畦道」(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)のことだが…「冴え返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、上野の鐘の音も凍る…」御存知、清元の名作「忍逢春雪解」(しのびあうはるのゆきどけ)の歌い出しだが雪催(ゆきもよい)の日にはいつもきまってこの曲が心の中で奏ではじめ、哀艶な清元にのって展開される直侍と三千歳の恋模様を思って陶然とした心持になる。

雪の降りしきる入谷村。捕吏の目を逃れた直侍こと片岡直次郎が、蕎麦屋で三千歳の消息を知り、相愛の馴染みの遊女三千歳が養生しているという入谷大口寮へ忍んでゆく。江戸を離れる前にせめてもう一目…追われる身の心急くままの束の間の逢瀬―この一瞬に永遠の愛をつかもうとする男と女の甘美で儚い恋のシーンは、時代を超えてかなしく切なく観る者の胸に迫ってくる。

白浪物を得意として、泥棒伯円と異名をとった松林伯円の講釈「天保六花撰」に材を得て河竹黙阿弥が脚色した世話物の傑作である。

遠い日、海老さまの愛称で親しまれたのちの十一世市川団十郎の海老さま時代の直侍に魅せられて以来、くり返し何人の役者の直侍を見て来た事だろう。私は歌舞伎通ではないが、気に入った演目や役者にはとことん入れ込んでしまう方で独断で片よってはいても勧進帳にしても直侍にしても色々な役者の同じ演目の舞台を数え切れぬ程見ている。特にこの「入谷田圃の蕎麦屋の場」は私の最も愛する舞台のひとつで、前述の清元が歌い出されると全身総毛立つような興奮の世界に入ってしまう。花道から舞台に敷きつめた白い布。大道具ではこれを「雪布」と言うそうだが、きりりと頬かむりした直侍が、番傘片手に着物の裾をひょいとからげ、一歩一歩足元を気遣いながら雪のたんぼ道を歩いてくる。その下駄ばきの足の運びが又たまらなく美しい。

ちらちらと客席にまで舞い落ちる紙の雪の一片を記念にプログラムに挟んで持ち帰ったこともあった。

この雪は歌舞伎座が昭和26年に再開場した頃は三角に切られていたという。「三角の方が雰囲気のあるいい落ち方をする」と古い大道具さんから聞いたことがあった。

紙の雪も、手作りの時代を経て、大量の雪を求められる現代では薄い洋紙を機械で裁断しているそうで、三角だった雪も今は、四角形の紙片になっているという。

蜷川幸雄演出の「近松心中物語」のクライマックスのあの雪のシーンでは一体どの位の紙の量を使っているのだろうか―と余計なことに頭がいってしまう。

三田村鳶魚の考証によれば、「三千歳は本名おなほ、直次郎のために浅草の茶汲女から信州の遊女に売られ、父は娘を取りかえすため訴訟。訴訟に勝っても、その費用でまた吉原に身を売ったという。明治17年8月31日、72歳で死んだ」とあった。

誰しも落ちぶれたくはない筈だが、落魄の境涯に憧れるという奇妙な心性が私達の心の底を流れているようで、演歌に共鳴し、任侠物に夢中になるのもそのせいかとも思う。

実はカットで使おうと思った数枚あった筈の私が描いた「直侍」のスケッチが、どうしても見つからなかった。その代わりに今年の干支にちなんで同じ歌舞伎でも暴れ馬をおさえ込む大力の田舎娘「近江のお兼」のカットを載せることにした。

長唄の「晒女(さらしめ)の落雁」俗称「団十郎娘」の近江のお兼である。

著作権上、舞台写真やプロマイド等、無断で使用出来ないので、どうぞ御諒許ください。

今年もどうぞお元気で! 皆様の御健康を心よりお祈り申しあげて!

 

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