夢見る頃を過ぎても(33)
母の幼馴染「おくらちゃん」と豆まきの夜
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
「福は内!」「鬼は外!」ガラガラと戸の開閉する音に混じって、あちらの家、こちらの家からと元気な声を聞くことが出来て、節分の日の夕刻は楽しかった。ところがそうした情景は完全に過去のものとなり、成田山新勝寺とか金龍山浅草寺とか、大きな寺院等では有名人が裃(かみしも)姿で豆撒きをするのは例年通り行われているが、家庭で豆撒きを続けている家は私の知る限り殆んどなくなった。
昔は、豆撒きが終わると、升の中に入れ神棚や仏壇に供えてあった炒り豆を各々自分の年齢の数だけ数えて、ぽつりぽつりと食べ合ったものである。
たしかに都会ではマンション住まいの家も多くなり、豆撒きも似つかわしくなくなったように思われる。拾い忘れた豆を数日たって部屋の隅に見付け、食べて良いものかどうかよく迷った。
節分の豆撒きでは懐しい思い出がある。
戦争が終って、疎開先の父の実家を離れ、柏の中心部に近い六畳一間の木造アパートへ移った件は、このシリーズで、すでに書いた。5人家族で引越した時は夜具も入れて全財産でリヤカー一台分きりだった。そしてこれも前に書いたが、終戦の翌年の一月疎開暮らしの中で私が長男として一生懸命面倒を見て来た一歳七か月の妹ヤヱ子の幼い命を急性肺炎が奪っていった。御存知の通り、終戦直後の生活の悲惨さは、筆舌につくせぬものだった。
私は戦後しばらくして、戦災を免れた父母の実家や親類を訪れた際、かねて送ってあったわが家の古い写真を返却してもらい、私の幼児時代の写真などかなり集めてアルバムを作り直したが、時局柄、妹のヤヱ子の写真は一枚もなく、赤子のまま他界してしまったので、その面影も偲びようがない。今のように写真を撮ること自体、機会も多くなかったし、全体的に往時の家族の写真も少ないが、妹の写真は戦時中のこととて、撮影する機会すら得られなかった。古くはテレビドラマ「岸辺のアルバム」でも流出した家とともに失ったアルバムに対する熱い思いが描かれていたし、此の度の東日本大震災でも、同様の話を多く耳にした。誰しも、ひとりひとり自分自身の歴史を背負って生きている訳で失った過去の残像に対する思いは切なるものがある。この歳になっても戦災で焼失した幼時の記憶に時折思いを馳せることも多い。
長い寄り道をしたが、アパート時代に話を戻すことにする。引っ越した夕方、近所に住む張ヶ谷さんという奥さんがアパートへ訪ねて来た。名前を「おくらさん」と言った。
おくらさんは何と母の幼馴染だったそうで、母の実家とおくらさんの実家は畠を隔てた隣同士だった。おくらさんは実家で母の消息を聞いて訪ねてくれたそうで、母も突然のおくらちゃん(母はそう呼んでいた)の来訪に驚いて、引越し第一日目は、お茶すら出せなかったが賑やかな幕開けとなった。引っ越したのは10月だったが、翌年1月20日にこのアパートで前述の妹ヤヱ子を失っている。
この妹の死についてはこのシリーズですでに詳述しているので省かしていただくが戦後の極限状態の中で葬式どころではなく、お棺も手配出来ず、みかん箱に納めて見送った切なさと悲しみは今も私の心の中で疼き続けている。そして2月。節分の夜におくらちゃんが自宅の豆撒きに招待してくれた。
こちらは六畳一間きりで台所もトイレも共同というアパート暮らしだったが、おくらちゃんの家は立派な2階家で、御主人はどんな仕事をしていたのか判らなかったが、私は5歳になる弟を連れてお伺いした。
おくらちゃんの家系は美人系で、可愛い女の子が一人居た。8畳ぐらいの部屋の電気を消して真っ暗闇の中で御主人が豆を撒き、私と弟とおくらちゃんの娘さん(名前を失念)と3人で手さぐりで豆を拾い集めた。豆とともに、その頃ではとてもとても入手出来ないチョコレートや、チューイングガムや菓子が混ざっていて、私達3人は真っ暗闇の中で歓声をあげて拾い集めた。最年長の私はまだ小学5年生だった。
翌年もその翌年も豆撒きは続けられ、毎年招かれていたが、たしか4年位経って、おくらちゃん一家は、墨田区の向島の方へ転居し、その後消息を絶ってしまった。一度おくらちゃんの娘さんを連れて(東京への乗車券は入手困難だったので)旧水戸街道を走って来たトラックに乗せてもらい、親切な運転手さんに、母の実家近くまで送ってもらったことがあったが、私は中学生、おくらちゃんの娘さんはまだ幼い小学生だった。
今は、どんなオバちゃまになっていることやら…ずっと後年になって母の実家へ行った折、懐かしさでその後の消息をたずねたが、どのような事情があってかおくらちゃん一家は実家と絶縁してしまったそうで、私も断念してしまった。あの頃、もちろん現在の国道6号線なんて影も形も無く、第一水戸街道を走る車の数も殆んど疎らで、やっと通りかかったトラックの運転手に、私達子供2人を託すべく母とおくらちゃんが懇願していた姿と親切な運転手のおじさんを、うっすらと思い出す。極限の生活の中で、人情だけはまだ生きていた。
おくらちゃんの家のあった跡地は現在千葉銀行柏支店が建っていて、すぐ近くにあった私達の住んでいた東武荘という木造アパートは私達一家が昭和25年に転居して何年か後に昼火事で焼失してしまい、現在は屋内駐車場もある大きなビルが建っている。
節分になると、私は暗闇での豆撒きを思い出し、今は名前も思い出せないおくらちゃんの娘さんの色白の少女というか幼女の顔が淡淡とした遠い日の思い出として、おぼろ気な記憶の中で息ずいている。
ほろ苦き恋の味なり蕗の薹(とう) 久女
立春を過ぎても雪の報せ
松の内もあっけなく過ぎて、年末の淡い悔恨や、年頭のわざとらしい決意など吹きとばすように容赦なく時間が流れはじめている。
2月4日は立春。暦の上ではもう春である。しかし今年は8日に45年振りとかいう大雪の日となった。原稿を書いている今週末も雪の予報が出ている。この頃に降る雪は、春本番を呼ぶための「季節の陣痛」とも思われ、そういえば各地で行われる雪や氷の祭典―札幌の雪まつり、横手のかまくら、秋田湯沢の犬っこ祭、越後の鳥追い祭…等々これらは、冬に別れを告げ、春を迎える前夜祭のようにも思えてくる。
春はまず光から訪れるが、その光も次第に眩(まぶ)しさを加え、2月1日から10日間で、東京では何と20分も昼の時間が長くなるそうで、大気に、木々に、大地に光が満ちてくる。街で見かける若者達の屈託ない笑顔や会話からは、もう春の気配が伝わってくる感じで、季(とき)の流れの早さを「はかない」なんて思わないのが、青春時代の特権かもしれない。
風もいまだつめたく、各地からは雪、雪、雪のニュース。豪雪地帯の人達の苦労を偲びつつも、「雪国」の情趣に強く心惹かれるのは、雪の下なる囲炉裏のぬくもりの中に、日頃忘れている日本人としての郷愁と憧憬があるように思えてならない。
私の家の横に通りに面して大きな辛夷(こぶし)の木があった。春に先駆けて咲く白い花を毎年楽しみにしていたが、木が大きくなりすぎて電線等の邪魔になったようで、数年前根元から伐り倒されてしまった。残念でたまらない。それでも仄かな香を感じふと気付くと、冱返(いてかえ)る清冽な寒気の中で、早咲きの白梅が乙女の含羞のような風情で十輪ほど綻びはじめていた。先月は大好きな「雪夕暮入谷畦道」(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)の直侍に触れたが、今月もこれも大好きな「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつかい)の中の序幕大川端―お嬢吉三の名セリフで幕を引くことにする。
「月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空…(中略)ほんに今夜は節分か、(中略)こいつァ春から 縁起(えんぎ)がいいわえ」 析(き)!