「私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても」は昭和ロマン館館長・根本圭助さんの交友録を中心に、昭和から平成という時代を振り返ります。

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夢見る頃を過ぎても(34)

民謡茶屋「七五三」と「追分」

根本 圭助

昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。

「秋田おばこ」林唯一の絵▲「秋田おばこ」林唯一

この店には、ずいぶん長いこと御無沙汰してしまった。浅草の馬道方面から言問通りを入谷方面へ直進。国際通りを横切った少し先にその店「追分」はある。たしか昔はこの辺り、浅草芝崎町と呼ばれていたと記憶するが、現在は西浅草三丁目という情趣も何もない町名に変わってしまった。

父が民謡や浪曲が無類に好きだったので、私も幼時からその血を受けついだらしく、民謡は幼い頃から好きだった。民謡が一寸したブームになる前までは、よく東北の方へ追っかけの旅をしたこともあった(天の邪鬼の気のある私は、ブームが訪れた頃、追っかけは止めてしまった)。

昭和40年代、吉原のど真ん中に「七五三」という広壮な民謡茶屋があった。

吉原を愛し、吉原に住んだ作家の吉村平吉さんの話では、売春防止法施行前はこの「七五三」も吉原の妓楼のひとつだったそうで、吉村さんの話では、吉原の中では「中の上」くらいの店だったという。

「七五三」と「追分」を同じ頃連れて行かれた私は、たちまちこの2軒の虜(とりこ)になってしまった。私は体質的にアルコールを受けつけない野暮天なので、仕事関係で酒好きで、民謡が好きな人を誘ってはよくこの2軒へ出かけた。

民謡茶屋「七五三」は豪華な建築で、正面に、間口七間もの大舞台があり、ステージの背後には本水の滝が造られ、滔々と音をたて流れ落ちていた。客席は、200人はそっくり座れる広さだった。

専属の民謡歌手や踊り手たちも粒ぞろいで、本場の津軽や秋田から次々と名人、上手の歌手や演奏家を呼んで舞台を飾った。私はこの店で、名人と言われた津軽三味線の木田林松栄師を生で何回か聴いている。

東北地方の現地民謡コンクールに入賞した若く美しい娘たちばかりを集めた芸能陣は30名以上居たという(吉村平吉)。その全盛時には、「七五三舞踊団」として国際劇場へも何回か特別出演したこともあった。

その芸能部の若い娘たちも舞台以外の時は客席に下りて接待のサービスをした。

接待専門の仲居さん達も30〜40人程居て、いずれも銀糸入りの揃いの和服に「七五三」と染めぬいた紅い前掛けをしていた。

津軽美人、秋田美人の若い娘たちは大人気を呼んでいたが、店の経営者は若い彼女たちをあたかも箱入り娘のように庇護し、規律正しく寮住いをさせていた。

 

「津軽のリンゴ採り」林唯一の絵▲「津軽のリンゴ採り」林唯一

真面目な縁談話が起った場合には、本人に代って相手の男性の身辺を慎重に調査したりして、若いカップルが何組か誕生したという。そしてその結婚時には、お店の経営者が親代わりになって箪笥や家具、調度品の他持参金まで持たせるといういたれり尽せりで嫁に出したという。この話は当然郷里まで伝わって、後輩の娘さんも安心して「七五三」への就職を憧れるという図式になっていた。

又、年に一度八月のお盆休みには大型バスをチャーターして、若い彼女たちは、日頃の和服姿をバリッとしたお揃いのブレザーの上下に変えて、颯爽と郷里に戻るので、東京の水ですっかり洗練された彼女達の姿を見て、毎年何人かの娘さんが新しく後を追って来たという。

「七五三」は豪華で、ややレビュー化したみたいな気がしたが、一方の「追分」は規模こそ小さかったが、本当の民謡のライブが楽しめて、私には甲乙つけがたかった。

その「七五三」が第一次オイルショック(昭和49年)以降、急速に客の数も減り、見る見るうちに淋しくなっていった。

舞台、広間ともに豪華だった故にその凋落は目を覆いたくなる程だった。何しろ周囲はぎっしりのソープランド街である。タクシーで行く時も帰る時も何やら恥しい思いもし、だんだん足も遠のいてしまった。そして人間の思い込みというのは恐ろしいもので、「七五三」の終焉を耳にした私は、「追分」も同様に閉店したと思いこんでしまった。始終車で通っていた筈なのにすっかり建て直した大きな「追分」という看板も目に入らなかった。

「追分」は何と昭和32年の開業以来ずっと続けて来たのだという。女将の話では、自社ビルだからこそ続けられたのだとも聞いた。

若いイケメンのお兄さん3人の津軽三味線の競演。私のリクエストにも応じてくれて何十年間の空白が埋った感じだった。

 

幼い日、吉原の思い出

昭和32年から続く民謡茶屋「追分」のステージの写真▲昭和32年から続く民謡茶屋「追分」のステージ

吉原の「七五三」の話で長くなったが、私は残念ながら遊郭時代の吉原の実体験は全くない。ただ私には忘れられない別の吉原の思い出がある。ここで時代は大きく遡ることになるが、戦局が激しくなり、昭和19年8月頃から国民学校3年生以上の学童疎開が実施されることになった。私が通って居た荒川区の南千住第二瑞光国民学校は福島県の飯坂温泉に集団疎開をすることになった。食糧事情がきびしくなっていたが、私の家は軍需関係の仕事で食糧は切迫はしていたが、まだ切実ではなく、母校から3人程の先生がわが家に毎日昼食をとりにやって来ていた。学校では、きびしく怖い先生がわが家では正座して小さくなって食事をしている姿が子供心に切なくつらかった。その先生方がひそひそと「学校では上から達せられた通りのことを生徒に話しているが疎開先の生活はどんなものか判らない。御親戚があるのだったら、そちらへ疎開した方がいい」と勧めてくれたので、私の家では父の実家を頼ることにして、学童疎開には参加せず一先ず東京に残った。昭和19年の夏休み中だったと記憶するが、校庭は引率の先生や生徒たち、それを見送る父兄で一杯の人だった。整列して校門を出る友たちを私も見送った。新学期に入って登校しても、先生も生徒もぱらぱらで、下校しても遊び相手は殆んど姿を消していた。東京の人口は3分の1に減少したという。

近所にOさんという歯医者さんがあり、息子のI男さんと遊ぶようにもなったが、3歳位年長だったのでI男さんはあまり相手にしてくれなかった。私は警戒警報の合間をぬって2輪車(子供用の自転車)で吉原の辺りへ親に内緒で遊びに行くようになった。

やはり遊び友達のいないカツちゃんという少年と親しくなり、吉原の路地裏でベーゴマ、ビー玉、メンコに興じた。私にとっての吉原はそんな稚い思い出の吉原なのである。

空襲も激しくなり、吉原で知り合ったカツちゃんとも会えなくなり、私は母と幼い弟妹を連れて千葉県の柏へ疎開した。
一時遊んでくれたI男ちゃんは、戦後暴力団安藤組の組員となり、昭和33年東洋郵船社長・横井英樹をめぐる横井事件に関与。北海道で逮捕されたという。組長安藤昇は本土決戦に備え、久里浜の海岸で人間爆雷として玉砕する「なぎさ作戦」の訓練中終戦。無為のまま特攻基地より復員。焼け跡の東京で、過去に少年院にも入れられた往年の野獣性を復活、次第に愚連隊の長的存在にのし上がって行った。

戦後の新しいヤクザとして恐れられたが、前述の横井事件で34日間の逃亡の末逮捕され、懲役8年の刑を受けて服役。昭和39年仮釈放で前橋刑務所を出所。組を解散して映画俳優として再生をはかり社会復帰した。

映画俳優としての安藤昇さんを記憶している人も多いと思う。吉原の思い出からとんでもない話に進んでしまった。

先日「追分」で聞かせてもらった父も大好きだった鹿児島県串木野市の漁港で、花柳界の女が漁師相手の酒席でうたって来たという「串木野サノサ」の一節を記して民謡茶屋「追分」に思いを馳せて今月は擱筆させていただくことにする。

「夕空の 月星眺めて ほろりと涙 あの星あたりが 主の船 飛び立つほどに 想えども 海をへだててままならぬ サノサ」

今月は昔お世話にもなった憧れの林唯一先生の「郷土の風俗」から作品をお借りしました。快く許可して下さった林利根氏に心より御礼申しあげます。

 

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