夢見る頃を過ぎても(35)
ギッチラ、ギッチラコと時を漕いで
根本 圭助
昭和10年2月、東京・南千住に生まれる。第二瑞光国民学校4年生の時罹災。千葉県柏町に移る。小松崎茂に師事。主な仕事は出版物、及び特にTVキャラクターのマーチャンダイジングのイラストで幅広く活躍する。現在松戸市在住。小松崎茂作品を中心に昭和の雑誌文化を支えた挿し絵画家たちの絵を展示する「昭和ロマン館」館長。現在は、「昭和の杜博物館」理事。
川上四郎と雪国の情景
ちんから ほい ちんから ほい
ちんからとうげの おうまは ほい
やさしい おめめで
ちんから ほい ほい ちんから ほい
おすずを ならして とおります
はるかぜ そよかぜ うれしいね
(細川雄太郎・詩)
今頃の季節になると、きまって私はこの童謡「ちんからとうげ」を口遊んでいる自分に気付く。若い頃から心酔し憧れていた童画家の川上四郎先生を雪深い越後湯沢の御自宅へお伺いしたのは、大雪の昭和49年3月のことだった。
やっとの思いで道のない雪の中を這うようにして丘の上の川上先生宅へたどりついたが、大雪の重みで別棟のアトリエの扉が開かず、作品を拝見することが出来なかった。
川上先生も大層残念がって、同席したお嬢さんとともに「雪が消えたら、ぜひ又いらっしゃい。周囲の山々の新緑はまるでべったり苔(こけ)が生えたようにすばらしいですよ」と誘ってくださった。
そのお言葉が忘れられず、再度訪れた新緑の頃の越後湯沢はすばらしかった。
そのイメージに川上作品をカバーして描いたのが、この「ちんからとうげ」のイラストである。越後湯沢は御存知の通り、新幹線が開通し、空前のマンションラッシュが始まり、すっかり鄙(ひな)びた情緒ある雪国のムードを失ってしまった。
川端康成が書いた有名な「雪国」の駒子と島村の交情の世界も今やその面影を偲ぶべくもない。不思議なご縁で湯沢駅に程近い土産物店の玉田屋さんとは懇意にしているが、玉田屋の皆さんともしばらく御無沙汰をしている。
昭和49年にはじめて川上先生をお訪ねした時の湯沢駅に降り立った時の「雪国」の情緒に感激した日が忘れられない。
余談になるが、しばらくしてバブルの時代があり、東京の鳥越にあったセイカノートの元本社で隣家に請われて数坪の土地を譲ったそうだが、その代金で、越後湯沢に温泉付きのマンションを購入することが出来たという。前述の玉田屋さんのすぐ前の大きなマンションもバブル時代の名残りで廃屋同然になっていたが、今の湯沢はどうなっていることやら…。限りない憧憬の念を抱いて来た川上先生も昭和58年94歳の生涯に幕を閉じている。
小松崎茂生誕100年
憧憬といえば私の恩師小松崎茂先生も来年は「生誕100年」という節目の年を迎える。その小松崎先生に今もなお熱き思いを抱いてくれている人も全国にかなり居る。
このシリーズの第T部は「小松崎茂と私」で始まった。前にも書いた通り、これは平成16年5月9日からの連載で、当時は本紙も月2回の発行だったので、通算するとこのシリーズも100回以上続いているという。
小松崎ファンの集いも何回か開いたが、このところ小松崎茂の復刻本が相次いで出版され、中でも富沢秀文氏、御座(おまし)誠一氏のお二人が久々にお会いしようということになり、昨年からの約束が、つい先頃やっと実現された。
富沢秀文氏は元群馬大学の教授で、上海大学の客員教授も兼ねて居り、現在は群馬大学の名誉教授となっている。御座誠一氏は元中学の社会科の教師を務めた方である。
場所は私が日頃色々お世話になっている田端駅近くの「セル・ポア・ブル」というフランス料理店に集ってもらった。もう一人最近特に色々お世話になっている若い仲間のイラストレーターのメソポ田宮文明氏にも加わってもらった。
一口に小松崎ファンと言っても、戦前の雑誌『機械化』時代からのファン(これは意外や意外若い世代のファンが多く、近く復刻されることになっている)、戦後は私達のような「絵物語」時代のファン(絵物語は戦後一世を風靡し劇画のルーツとも言われている)。富沢氏、御座氏も同様の世代で、御座氏は実体験をもとに、「絵物語の系譜」という立派な論文をまとめて持参してくれた。ファンの流れからすれば、その後少年雑誌の口絵ファンが、月刊誌時代、週刊誌時代へと続いて、更には戦記物のファン、SF物のファン、「地球防衛軍」「モスラ」「海底軍艦」等の特撮ファン。そして並行してプラモデルの箱絵ファン。中でも「サンダーバード」のファンは根強く、不況の模型業界の中でも今復刻版で気を吐いている。
一昨年は別府、熊本、静岡、「桐蔭学園」(横浜)と展覧会が開かれ、昨年も「夏休み特集」として八王子にある東京富士美術館でも展覧会が開かれた。
おっとその前に鳥取でも開かれた。今もってこのように小松崎作品を愛してくれる人が多いことは門下生の一人として心から感謝している。今年は規模は小さいが、先日前橋の美術館から早々と学芸員が打ち合わせに来てくれた。
前述の富沢氏は前橋市から、御座氏は秦野市からと、各々遠方から上京してくれたのに思い出の品も沢山持参してくれて、少年の日に戻って大いに盛りあがった一日だった。
現在小松崎茂の作品は松戸市紙敷にある「昭和の杜博物館」に展示されている。
今のところ金、土、日の開館だが、ぜひ一度御来館下さる様お願い申しあげる次第である。
春なのに…
桜の開花前線が急に北上して満開になったと思ったら、生憎の雨と風が追いかけて来た。まことに花のいのちは切ないほどみじかい。短く儚い故に人の心を強く捉えるのだと思う。
親しい友人の一人Tさんが脳梗塞で入院した。古い友人のMさんが自転車で転倒して、これも入院した。頭を打っているので、かなり重症らしい。このところ季節は春になったのに暗い報せばかり飛びこんでくる。
そういう私自身まったく他人事ではなく全身痛いところだらけで苦しんでいる。
亡くなった歌手の塩まさるさんはよく、「痛かったり苦しかったりするのは生きてる証拠です。痛くも何ともなくなったらそれは大変なことなんですよ」と笑わせてくれたが、一月に私は原因不明の腰痛で一か月近く苦しんでしまった。暮からの痛みだったので、次男の嫁さんに松戸の新東京病院へ年明け早々車で連れて行ってもらったが、レントゲンは数枚撮ったものの原因は不明で、医師からは、「79年も使って来たのだから仕方ないですよ。どうしても痛さから解放されたかったら思いきって死ぬしかない」といって笑われた。
たしかに長寿社会になっているとはいえ、周囲の人で入院したり、他界する人の数も決して少なくはない。
「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん 年はとってもお船を漕ぐ時は 元気いっぱい櫓(ろ)がしなる ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ」(武内俊子・詩)
昭和16年に発表された童謡だが、当時60歳は立派な年寄りであり、お爺さんだったのである。
今60代と言ったら、「若い」というイメージが強く、特に女性は張り切って何度目かの青春を謳歌している人を多く見かける。
個人差はあるにしても、私自身60代はたしかに未だ若かった。私の父は若い頃から「じいさん(父の父)は80歳で亡くなったから、俺も同い年で死ぬんだ」と言い続け、その通りに逝った。私は子供の義務として父より一日でもいいから長生きしたい―と思っているが、その日はすでに目の前に迫っている。まさにギッチラ ギッチラ ギッチラコである。